リカルドは軽く右手を上げ、にこやかな笑みを浮かべながら医務室に入ってきた。そこにいたのはラウルひとりきりである。今日も患者はひとりも来ていない。リカルドが何日かぶりの訪問者だ。
「何の用だ」
ラウルは本をめくる手を止めると、冷たく一瞥して言った。開け放たれた窓から流れ込む新鮮な空気が、焦茶色の長髪を微かに揺らした。
「めずらしいね。どういう心境の変化?」
リカルドはにっこり笑いながら尋ねた。
めずらしいというのは、ラウルが窓際に椅子を置いて座っていたことだろう。おまけにガラス窓まで全開にしている。ラウルにしてはずいぶん開放的だと思ったに違いない。リカルドの表情から察するに、自分の忠告が効いたなどと勘違いしているのかもしれない。
ラウルはその態度が癪に障った。眉をひそめて睨みつける。
「何の用だと聞いている」
「覚えているか? 頼みたいことがあるって言ったこと」
リカルドは急に真面目な表情になった。
「ああ、今まで忘れていたがな」
ラウルは低い声で素っ気なく答えた。一ヶ月前、リカルドが診察を受けに来たときに聞いた話だった。それきりになっていたので、話自体がもうなくなったものと思っていた。
「改めて頼みに来たよ。聞いてくれるな?」
リカルドは近くのパイプベッドにゆっくりと腰掛けた。真新しい白のシーツに、いくつかの皺が緩やかに走った。患者用のベッドであるが、肝心の患者が来ないため、本来の目的で使用されることは滅多にない。ほとんどリカルドの椅子代わりとなっていた。
「話せ」
ラウルはため息まじりに言った。面倒だと思ったが、そういう約束をしたことを覚えている。話だけでも聞かなければならない。
リカルドは膝の上で両手を組み合わせた。小さく呼吸をしてから切り出す。
「おまえに頼みたいことというのはな、家庭教師なんだ」
ラウルは怪訝に眉をひそめた。
「……家庭教師、だと?」
「そう、家庭教師」
リカルドはにっこりとして頷いた。
ラウルは無言で彼を見つめた。肩透かしを食らった気分だった。一ヶ月も前からもったいつけていたので、よほど重大なこと、つまり政治的な類ではないかと想像したのだ。相手が名門ラグランジェ家の当主となればなおのことである。それが、まさか家庭教師などという極めて個人的なこととは、まったくの想定外だった。しかし、どちらにしろ引き受けるつもりはない。
「いいだろう? 家庭教師くらい」
リカルドは人なつこい笑顔のまま、軽い調子で畳み掛けた。
ラウルは冷たく鋭利な眼差しで睨みつける。
「ふざけるな。おまえに教えることなどない」
だが、リカルドにはまったく効き目はなかった。少しも怯むことなく、穏やかに応じる。
「私じゃないよ、息子のサイファだ。もうすぐ10歳になる」
「息子でも同じだ。私は医師だ。家庭教師などやるつもりはない」
ラウルは低い声で明瞭に一蹴した。
「こんなことを言うと親バカだと思われるだろうけど……」
リカルドはそう前置きをして続ける。
「サイファはとても頭が良い子でね。魔導に関してもかなりの力を持っている。もう並の家庭教師では、まともに教えられないんだよ。おまけにちょっと生意気なところがあって、すぐに先生を辞めさせてしまうんだ」
そう言うと、肩をすくめて苦笑する。
「その点、おまえなら安心だ。魔導については言うまでもなく、科学や医学などの学問にも造詣が深いし、何よりサイファにやりこめられるとも思えない」
「断る」
ラウルは間髪入れず、端的すぎる言葉を返した。少しの迷いもなかった。リカルドの丁寧な説明は、まったくの徒労に終わった。
しかし、それでも彼は引き下がらなかった。
「許可はすでに取ってあるよ。家庭教師をやっている時間は、休診しても構わないとね」
「おまえ、人の話を聞いているのか」
ラウルは白い目を向け、半ば呆れぎみに言った。
もともとラウルの医務室には患者はほとんど来ない。休診しようがしまいが、何ら影響がないことは明白である。ラグランジェ家の当主ならば、許可を取ることは極めて容易だろう。だからといって、あらかじめそこまでの手回しをするとは思わなかった。甘い人間に見えるが、意外と抜け目がない。
「もうおまえしか頼む相手がいないんだ」
リカルドは顔の前で両手を合わせ、片目を瞑ってみせる。愛嬌の中にも必死さが窺える表情だ。だが、ラウルはこんな泣き落としにはびくともしない。
「それほど頭がいいのなら、自習でもさせておけ」
「出来るだけ才能を伸ばしてやりたいんだよ。親心ってやつかな」
「私は教え方など知らん」
「子供相手だと思わなくて大丈夫だよ。逆に子供だと思っていると、痛い目を見るかもしれない」
リカルドはなぜか嬉しそうに声を弾ませた。その内容もどこか微妙にずれている。
「出て行け」
ラウルは鋭く睨みつけ、凄みのある低音で命令した。
「引き受けてくれたらね」
リカルドは動じることなく涼やかに言葉を返した。ラウルが承諾するまでは、どうあっても帰るつもりはないらしい。普段の物腰は柔らかいが、ここぞというときには頑固である。
ラウルは手にしていた本を後ろの棚に置き、椅子から立ち上がった。焦茶色の長髪をなびかせながら、パイプベッドに座るリカルドの前に歩み出る。冷たく射抜くように睨み下ろすと、彼の首に右手を掛けた。そのまま、上から覗き込んで顔を近づける。肩から落ちた長い髪が、カーテンのように二人を外界から遮断した。
「これ以上しつこくすると命の保証はない」
「なぜ、そんなにむきになる」
リカルドは目をそらさず、静かに尋ねる。
ラウルは首に掛けた手に力を込めた。
それでも、リカルドの表情は動かなかった。
ラウルはさらに力を込めた。指が白い首筋に沈む。
一瞬、リカルドの顔が歪んだ。だが、その目はラウルを捉えたままだった。
ラウルは深い濃色の瞳で睨み返した。
青い瞳は逃げずにそれを受け止めた。
視線が交錯したまま、無言の時間が流れる。
やがて、ラウルはため息をついた。
「むきになっているのはおまえも同じだろう」
そう言って、体を起こしながら手を引いた。眉をしかめて腕を組む。
「教える価値がないと判断したら、いつでも辞める」
それは、一応の承諾を意味する言葉だった。リカルドは何があっても引きそうもない。これ以上、言い合っても泥沼にはまるだけである。そんな面倒なことは願い下げだった。ここはとりあえず収めた方が良いとラウルは判断した。こう言っておけば、何かしら理由をつけて辞めることは可能である。
「ありがとう」
リカルドはにっこりと笑った。
「それじゃあ、あしたからさっそく来てもらおうかな。最初のうちは、昼すぎから3時間くらいで」
「何を教えればいい」
「すべて任せるよ。サイファはアカデミー修了程度と想定してくれ」
「わかった」
ラウルは面倒くさそうに返事をした。前髪を掻き上げながら、疲れたように小さく息を吐く。
そんな彼を横目で見ながら、リカルドはパイプベッドから立ち上がった。両手を腰にあて、背筋を反らせるくらいに伸ばすと、目を細めて表情を緩めた。
「これから昼食なんだが、一緒にどうかな?」
「断る。これ以上、おまえと顔を突き合わせたくはない」
ラウルは目も向けずに答えた。
「残念だな。いつか奢らせてくれ」
リカルドは笑いながらそう言うと、軽く右手を上げて医務室を出て行った。家庭教師の一件と比べると、随分あきらめが早い。本気ではないのだろうとラウルは思った。
…続きは「ピンクローズ - Pink Rose -」でご覧ください。
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