瑞原唯子のひとりごと

「機械仕掛けのカンパネラ」ひとつ屋根の下 - 第17話 プレゼント

「行ってきます」
 七海はローファーを履いてくるりと向きなおり、笑顔でそう言った。短めのポニーテールが揺れている。もう夏服なので半袖シャツにベストという格好だ。オレンジ色のネクタイもきちんと締められている。
 一方、見送る遥のほうは部屋着のままである。普段は七海より早く家を出ることが多いのだが、今日は休みをとっていた。会社だけでなく祖父の仕事のほうもすべて。
「学校が終わるころ迎えに行くよ」
 今日は七海の誕生日だ。午前で定期試験が終わることもあり、一緒においしいものを食べに行こうと約束していた。車なので迎えに行ったほうが早いと思ったのだが、なぜか彼女はすこし困ったような顔になる。
「わざわざ迎えに来なくてもいいからさ」
「今日は休みをとってるから心配いらない」
「遥が来ると目立つから嫌なんだってば」
 それが本音だろう。
 中学のときから何度も同じようなことを言われてきた。目立つなというが、目立つことは何もしていないのだからどうしようもない。くすりと笑うと、彼女はあからさまにムッとして眉を寄せた。
「ごめん。プレゼント用意してあるから機嫌なおして」
「ほんと?」
 その顔がパッと輝いた。
 ささやかなものだが誕生日プレゼントを買ってある。そしてもうひとつ、彼女にとっては何よりのプレゼントとなるものも——。
「夕方、帰ってから渡すよ」
「楽しみにしてる!」
 七海は手を振り、軽やかな足取りで学校へ出かけていった。
 遥の複雑な心境など何も知らないままに。

 昼ごろ、遥は学校の正門からすこし離れたところに車を駐めた。
 そろそろホームルームが終わり生徒たちが帰る時間である。振り返って正門を確認するがまだ出てくる生徒はいない。シートベルトを外し、おもむろに鞄から取り出した白い紙を見つめた。
 それは白紙の婚姻届である。
 ここに来るまえに区役所に寄ってもらってきたのだ。あした結婚しようか——きのうの夜、七海にそう告げたのはふとした思いつきだが、だからといって軽い気持ちだったわけではない。
 そもそも七海とは結婚するつもりで付き合っているのだ。彼女本人にはまだそういう話をしていないが、祖父には意向を伝えてある。ただ、時期としては彼女が成人してからと考えていた。
 なのに十六歳になったばかりのこの日に結婚を申し込み、婚姻届を提出しようと思ったのは、このあと彼女と武蔵が再会することになっているからだ。その前に、法的に自分のものにしてしまいたかった。
 しかし、それを実行に移すことにはためらいがある。武蔵が帰ってきた事実を隠したまま結婚を承諾させるなど、騙し討ちにも等しい。あとで真実を知ったときに彼女がどう思うだろうか。
 もっとも、きのうの時点ですでに無理だと断られているので、承諾してもらえる確率は低いだろう。それでも本気であることを伝えればあるいはとも思う。二年半も付き合ってきたのだから。
 気持ちが揺れる。後悔しないためにはどうすればいい——。

 ふと賑やかな声が聞こえて顔を上げると、校門から生徒たちが出てくるのがバックミラー越しに見えた。婚姻届をしまい、車から出て、助手席側に軽く寄りかかりながら七海を待つ。
 梅雨明けはまだだが、今日は真夏のように澄んだ青空が広がっていた。陽射しもかなりきつい。日焼けはしないほうなので心配していないが、それでもジリジリと肌が焼けつくように感じる。
 やがて、出てくる生徒たちの中に七海の姿を見つけた。隣の男子は中学時代から仲良くしている二階堂である。卒業式のあと七海に告白して振られていたが、友人関係は続いているようだ。
 確証はないものの、彼が有栖川学園に進学したのは七海を追ってのことだろう。そこまでする彼が簡単にあきらめるとは思えない。友人という立場を守りつつ虎視眈々と狙っているはずだ。
 七海がこちらに気付いた。急にあたふたとして二階堂と何か言葉を交わし、軽く片手を上げて踵を返すと、ポニーテールを左右に揺らしながら駆けてくる。だが、その表情はひどく不満そうに見えた。
「迎えに来なくていいって言ったじゃん」
「このほうが時間の節約になるだろう?」
 七海が帰るのを待ってから出かけるより、ここで拾ったほうが早いのは確かだ。それだけの理由で迎えに来たわけではないが、素直な彼女は言葉どおり受け止めて、くやしそうな顔になる。
「せめて車の中で待っててくれよな」
「さっきの彼、二階堂君だっけ」
「……同中の同級生ってだけだよ」
「向こうはそうでもなさそうだけどね」
 遥は校門前に目を向ける。
 そこにはいまだに立ちつくしたままの二階堂がいた。微妙な面持ちでこちらを窺っていたが、遥の視線に気付き、そろりときまり悪そうに顔をそむける。
「牽制が必要かな」
 そうつぶやくと、隣できょとんとしている七海に振り向き、意図的に甘ったるい笑みを浮かべて手を伸ばした。彼女はぎゃっと声を上げながら飛び退き、上気した顔で恨めしげに遥を睨む。
 残念ではあるが致し方のない反応だ。二人の関係は秘密にしているので、これまで自宅以外では決してこんなことをしなかったし、恋人だと疑われないよう気を配ってきたのだから。
 だが、いまは知られてもいいと、むしろ知らせて外堀を埋めたいとさえ思っている。結婚あるいは婚約してしまえば問題はない。誰にも文句は言わせないし手出しもさせない。けれど——。
 じっと七海を見つめる。彼女は顔を紅潮させたまま何か言いたげにしていたが、まわりから注目されているこの状況で言えるはずもなく、ふいと逃げるように助手席に乗り込んだ。

「今日の試験はどうだった?」
 運転しながらそう尋ねると、助手席の七海は苦虫を噛み潰したような顔になった。それだけであまり良くない出来だったことがわかる。遥は黒革のハンドルを握ったままくすりと笑った。
「まあ、今度頑張ればいいよ」
「誰のせいだと思ってんだよ」
「そうだね、ごめん」
 軽く謝罪すると、七海がじとりと非難めいた視線を流してきた。
 彼女があまり勉強できなかったのは遥のせいだ。試験前日だというのに強引に迫り、最終的には彼女も仕方なしに受け入れてくれたが、さすがに申し訳ないことをしたという自覚はある。
 七海を必ず幸せにすると、大切にすると、そう誓ったはずなのに——それは恋人としての思いであり、保護者としての責任でもある。彼女より自分を優先するなどあってはならない。
「ねえ、きのう言ってたアレさ、やっぱ冗談だよね?」
「本気だよ」
 七海もきのうのことを考えていたようだ。
 ほんの一瞬だけどうしようか迷ったが、赤信号で止まると、鞄から薄っぺらな白い紙を取り出した。ゆるく二つ折りにされているそれを、彼女は怪訝な顔をしながら受け取り、ぺらりと開く。
「婚姻届?! なんで、無理って言ったじゃん!」
「気が変わったらすぐ出せるようにね」
 七海は未成年なので本来なら父母の同意が必要だが、実親はどちらも亡くなり養親もいないので必要ない。証人二人には当てがある。七海さえその気になれば今日中に提出できるはずだ。
「ちょっと待って、僕、まだ高校生だよ?!」
「結婚しても高校に通えるから安心していい」
「そうじゃなくて!」
 彼女は必死に言いつのるが、ふと戸惑ったように瞳を揺らして目を伏せる。
「まだ、そんな……考えられないよ」
 訥々と言葉を紡ぐと、手にしたままの白紙の婚姻届を苦しげに見下ろし、遥の胸元に勢いよく押しつけるように突き返してきた。その両手からはかすかながら震えが伝わってくる。
 遥はただそっと引き取るよりほかになかった。もうあきらめるべきだろう。無理やり承諾させても意味がない。受け入れられなかったことを残念に思う一方で、安堵もしていた。
 しわになった婚姻届を元の場所にしまいながら、ちらりと隣に目を向ける。
「もしかして、まだ武蔵を待ってる?」
「……武蔵は関係ない」
 七海はふいと顔をそらした。
 どういう表情をしているか気になったが遥からは見えない。青信号になり運転を再開しても、サイドウィンドウのほうに顔を向けたまま動こうとしない。駐車場に着くまで重い沈黙が続いた。

 昼食はひつまぶしの店を予約していた。
 以前、七海が雑誌の特集に興味を示したことがあったのだ。店は祖父に教えてもらったおすすめのところだ。彼女は一口食べるなりおいしいと感嘆の声を上げた。思わず遥の表情もほころぶ。
 食事を始めてからは、車中での澱んだ空気が嘘のように会話がはずんだ。おいしいもので七海の機嫌が直るのはいつものことだ。何もかも忘れ、いまは二人だけの時間を存分に楽しむことにした。

 昼食後は、あてもなく二人で街中をぶらぶらと歩いた。
 本当はすぐに帰らなければならないのだが、そんな気になれない。目についた雑貨屋さんを見てまわったり、通りがかりの喫茶店でパフェを食べたり、足の向くまま気の向くまま楽しんだ。
 ビルを出ると、空の一部が鮮やかな茜色に染まっていた。
 目を細めたそのとき、後ろのポケットで携帯電話が震えるのを感じた。嫌な予感がしつつサブディスプレイを一瞥し、素知らぬ顔をしてポケットに戻すが、振動はしつこく続いている。
「ケータイ、出なくていいの?」
「馬に蹴られて死ねばいい」
 思わず本音が口をついたが、彼女は訝しむ様子もなくおかしそうに笑った。
「でも、そろそろ帰る時間だよ」
「…………」
 遥は何も言えず、前を向いたまま包み込むように七海の手を握る。これまで決して外ではしなかったことだ。昼間のように拒まれるかもしれないと思ったが、今回は受け入れてくれた。
「やっぱり帰したくないな」
「帰るの一緒の家じゃん」
「どこか泊まっていこうか」
「あした学校あるんだけど」
「……仕方ないか」
 もうタイムリミットだろう。いつまでも現実逃避を続けるわけにはいかない。溜息をつき、七海の手を引いて駐車場のほうへと歩き始める。繋いだ手には無意識に力がこもっていた。

 車を出すときには、すっかり夜の帷が降りていた。
 もうすぐ七海を武蔵に会わせなければならない。そう思うと、緊張と不安でいつものように話をすることもできない。彼女も何か感じているのだろう。静かに座ったまま話しかけてくることはなかった。

「着いたよ」
 遥は橘の敷地内で車のエンジンを止めると、助手席に振り向いて言う。
 そのとき再び携帯電話が震えた。シートベルトを外してポケットから取り出し、画面を一瞥して顔をしかめたものの、さすがにもう無視はしない。親指で通話ボタンを押して耳に当てる。
「はい」
『おい、遥、いつまで待たせるつもりだ』
 電話の向こうから聞こえた声はかなり苛立っていた。三時ごろに七海を連れて帰るという話になっていたので、連絡もなしに五時間近く待たせたことになる。おまけに夕方の電話も無視したのだ。
 それも忘れていたわけではなくすべて故意である。一方的に遥が悪い。謝罪すべき立場であることはわかっているが、武蔵の声を聞いてますます憎らしく恨めしくなり、眉を寄せる。
「こっちにだって都合があるんだから」
『言い訳してないで早く連れてこい』
「それが人にものを頼む態度?」
『おまえこそ遅れたヤツの態度かよ』
「逃げたりしないから黙って待ってろ」
『……ん、おまえいま帰ったのか?』
 電話口の背後でうっすらと執事の櫻井の声がしていたので、おそらく彼が報告したのだろう。使用人の誰かにこの車庫を見張らせていたのかもしれない。遥は素直にそうだと肯定する。
「だからおとなしくそこにいればいい」
『もうあんまり待たせるんじゃないぞ』
「じゃあね」
 煩わしげに言い捨てると、乱暴な手つきで携帯電話を戻してハンドルに突っ伏し、深く溜息をついた。いっそ何もかも投げ出して七海と逃亡したい。ふいにそんな衝動に駆られるが——。
「逃げ回っていても仕方ないからね」
 そうつぶやいて自らに言い聞かせる。そして顔を伏せたまま小さく呼吸をして気持ちを整えると、新たに緊張が高まるのを感じながらゆっくりと体を起こし、助手席に振り向いた。
「七海、目を閉じて」
「なんで?」
「サプライズだから」
 彼女は怪訝そうにしながらも言われるまま目を閉じる。その上から、遥は用意していた白い手拭いを巻いて後頭部で結んだ。緩めに巻いたので、彼女ひとりで外すのも難しくないだろう。
 一呼吸おくと、彼女の頬を両手ではさんで額を合わせた。
「本当は行かせたくない。でも僕の一存でそうする権利はないし、七海のためには行かせるしかない。このままじゃ、きっといつまでも七海の気持ちは宙ぶらりんだ。七海が自分自身でけじめをつけないといけない。たとえ君がどんな結論を出したとしても、僕は君の味方でいる」
「……何の話?」
 いまの彼女には意味がわからなくて当然である。しかし、武蔵と再会したそのあとで理解するだろう。半開きになっている不安そうな彼女の唇に、そっと触れるだけの口づけを落とす。
「あのさ」
「行こう」
 七海が何か言いかけたのをわざと遮ってそう言うと、車から降り、助手席側の扉を開けて目隠しの七海を横抱きにする。そして車庫の外で待機していた使用人とともに、屋敷へ向かった。

「下ろすよ」
 そう声をかけてから、横抱きにしていた七海をそっと足から下ろした。ふらついて倒れないよう手を掴んで支えたが、しっかり自力で立てたことを見定めると、その手を正面のドアノブに誘導する。
「遥……えっと、これどうすればいいの?」
「扉を開けて中に入って、目隠しを外して」
「わかった」
 七海は視界を奪われたまま怖々と部屋に入り、扉を閉めた。
 しばらくすると、その向こうから二人のやりとりする声が聞こえてきた。やがて七海の声は感情を爆発させたような号泣に変わる。それがうれし泣きであることは確認するまでもない。
「ずっと、ずっと武蔵に会いたかった!」
「俺もずっと七海に会いたかった」
 二人の抱き合っている姿が目に浮かぶ。
 遥は奥歯を噛みしめてうつむいた。本当はこのあと一緒に七海の誕生日を祝う予定だったが、とても入っていける雰囲気ではない。使用人に後を頼むとひっそりと自分の部屋に帰った。
 七海は、やはりいまでも——。
 うっすらと月明かりのみが差し込む静寂の中、遥は明かりもつけずにベッドに倒れ込み、目を閉じる。それでも思考を閉ざすことはできなかった。


◆目次:機械仕掛けのカンパネラ

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