瑞原唯子のひとりごと

「東京ラビリンス」番外編・青い炎 - おまえと堕ちるのも悪くない

「つまり、父さんは僕たちに泥棒をやれと……?」
 大地が怪訝に眉をひそめてそう尋ねると、正面の剛三はソファにゆったりと身を沈めたまま、隙のない視線を向けながら意味ありげに口もとを上げた。それはおそらく肯定ということだ。悠人と大地はともに微妙な面持ちになり顔を見合わせた。

 今日は大地の十七歳の誕生日である。
 しかしプレゼントは必要ないと彼本人に言われているし、悠人自身も何を贈ればいいのかわからないので、毎年特別なことはしていない。ただ今日ばかりは由衣に断りを入れ、久しぶりに大地とともに橘の家へ帰ることにしたのだ。大地の誕生日という口実でもなければできないことである。
 家に着くと、どういうわけか剛三が待ち構えていた。
 大事な話がある――そう言って、ふたりを中庭に面した窓際のソファへと促した。大地は窓際に、悠人はその隣に、ふたりとも制服のまま腰を下ろした。正面には剛三が座る。ほどなくして紅茶が運ばれてくると、剛三は優雅な所作で口をつけて一息つき、本題に入った。
 語られたのはとんでもない話だった。
 この東京だけでも不当な手段で奪われた絵画が数多く存在する。それらを奪い返して本来あるべき場所に戻すつもりだ。大地と悠人のふたりにもぜひその仕事を手伝ってもらいたい、というのが主旨である。悠人は何を手伝えばいいのかよくわからなかったが、大地はすぐに理解したようである。その仕事が絵画泥棒だということを――。

「心配せずとも計画はこちらで立てるつもりだ。君たちはその計画通りに動くだけだから、そう難しいことではない。とりあえず二十歳までの期間限定で考えている」
 剛三は事務的とさえ思える口調でそう告げて、大地と悠人を順に見つめた。
 悠人はどうすればいいかわからず縋るように横目を向けたが、大地は真顔でじっと思案をめぐらせているようだった。暫しの沈黙のあと、すっと背筋を伸ばして表情を引きしめ直したかと思うと、落ち着いていながらも強い意志を感じさせる声で答える。
「僕は父さんの命令であれば従います。ですが、悠人を巻き込むわけにはいきません」
 悠人は声もなく目を見開いた。
 大地がそんなことを言うなど予想外もいいところである。毅然と守ろうとしてくれたことを嬉しく思うと同時に、部外者扱いされたようで若干の寂しさも感じてしまう。自分自身がどうしたいのかはまだわからない。あまりにも非常識なことで思考がついていかない。微妙な面持ちで目を泳がせていると――。
「悠人君の父親に許可はもらっている」
「えっ……?!」
 弾かれるように剛三に顔を向ける。目が合うと、彼はうっすらと笑みを浮かべた。
 すぐに露見するような嘘をつくほど愚かな人だとは思えない。だが、警察庁に勤めている厳格な父が泥棒を許可するなど、とても信じられなかった。とうに関心をなくしている存在であっても戸籍上は家族である。万一、息子が罪を犯したことが世間に知られる事態になれば、警察庁に居続けることはできないのではないか。なのに――。
「警察庁の上層部もこのことは知っている」
 思考を見透かしたかのように言葉が継がれた。しかし、ますます信じがたい話で悠人は混乱する。
「どうして……」
「目こぼしの代わりに、いくつか公安の仕事を手伝う取引になっているのだよ」
 剛三は端的に答える。
 理屈はわかったものの納得はできなかった。警察が泥棒と取引をするなどおかしいとしか言いようがない。司法取引のようなことならまだわからないでもないが、これから行う窃盗行為を許可するなんて。あまりにもありえなくて嫌な予感しかしない。
「もちろん君の意思は尊重する。嫌なら断ってくれて構わない」
 剛三は静かにそう言いつつ、威圧するかのようにぎらついた双眸を向けてくる。いまこの場で決断しろということだろうか。常識的に考えるならば関わらない方がいい。関わるべきではない。失敗すれば人生を棒に振りかねないのだ。だが――。
「……やります。大地と一緒なら」
「おまえちょっと待て」
 大地は見たこともないほど焦燥した顔で悠人の袖を掴み、身を乗り出して何かを言おうとした。しかし剛三が咎めるような声音で「大地」と呼びかけて遮ると、くやしげに歯を食いしばり、やがてあきらめたように前を向いて座り直した。
「では、そのつもりで準備を進めよう」
 剛三はすました顔でそう言うと、悠人に目を向けてニッと不敵に口の端を上げた。

「まさか泥棒をやらされることになるとはな」
 大地は自室のベッドに寝転がると、頭の後ろで手を組み合わせて溜息まじりにぼやいた。
 悠人はそのベッドの縁にもたれかかりながら絨毯敷きの床に座る。低いベッドなので背もたれにはちょうどいい。椅子もあるが、今日はすこしでも彼の近くにいたくてここにしたのだ。ちらりと背後に視線を流す。
「やりたくないのか?」
「当たり前だろう」
 尋ねると、彼は不愉快そうに口をとがらせた。
「なんかきなくさいんだよな。警察と取引してまで絵画泥棒なんてどう考えてもおかしい。そのうえ盗んだ絵画をあるべき場所に戻すだなんて、利益にならないどころか損失でしかないよ。警備をかいくぐって盗むのならそれなりの準備もいるわけだし。何か裏があるとしか思えない」
 悠人はその話を聞いて納得し、首肯する。
「警察が泥棒を黙認するのも変だな」
「そっちはまだわからないでもないよ。それだけ橘の力を借りたいってことじゃないかな。公安なら表立って動けないことも多いだろうし、橘の伝手があれば捜査も潜入もやりやすくなる。重大なテロを防ぐためなら絵画泥棒くらい見逃すかもしれない。ま、変なのは確かだけどさ」
 その推測には説得力があった。
 正直、大地がここまで深く考えているとは思わなかったので驚いた。それが合っているかどうかまではまだわからないが、悠人はただ疑問に思うことしかできなかったのだ。少なくともこの件に関しては完敗といえるだろう。
「おまえ、本当にいいのか?」
 ふと心配そうに問いかけられて反射的に振り返ると、大地と視線がぶつかった。ベッドに寝転がったままではあるが顔つきは真剣である。先刻、剛三と話していたときに見せていたものと同じだ。悠人はひどく喉が渇くのを感じながら口を開く。
「何がだ」
「僕はこれでも橘家の一人息子で、橘財閥の後継者だ。それほど危険なことはさせられないと思う。でも悠人は違う。もしかしたら捨て駒のように扱われるかもしれない。僕の代わりに危険なことをやらせたり、いざというとき僕の楯にしたり……そういう目的で悠人を引き入れた可能性がある。自分の親のことを悪く言いたくはないけど、あの人は平気でそういうことをするからな」
 まさか、と言いかけて口をつぐむ。
 そう言えるほど剛三のことを知っているわけではない。まともに話したのは数えるほどしかないのだ。思い返してみると、雑談をしていても隙がなく威圧感のようなものがあり、非情な決断にも躊躇いがなさそうな雰囲気は感じた。大地の言うこともありえなくはないのかもしれない。
「今からでも断るか?」
「……いや、やるよ」
 不安はあるが、それでもやはり断ろうという気にはなれなかった。彼が本気で心配してくれただけで十分である。だからといって簡単に捨て駒になるつもりはない。ただ、そうすることでしか彼を守れない状況になれば、覚悟を決めざるを得ないだろうとは思っている。
「なあ、そもそも何で引き受けようと思ったんだ?」
「えっ?」
 何気なく落とされたであろう疑問に、悠人は心臓が潰れそうなほど収縮し、冷や汗がにじんだ。
 言えるはずがない。誰にも言えない秘密を共有すれば、結びつきがいっそう強固になり、悠人のことを簡単には切れなくなる――そんなずるい目論見があったなんて。どうごまかそうか必死に考えながら眉を寄せ、うつむいた。
「……断ってほしかったよ」
 大地が短い沈黙を破り、溜息をつく。
 悠人はますます体をこわばらせた。
「こんな馬鹿げたことをやらされるのは息子の僕だけでよかった。悠人だけは逃がしたかった。この家の事情で危険な目に遭わせたくなかったし、犯罪者にしたくもなかった。だいたい悠人は父さんのものでも橘家のものでもない。僕のものだぞ。悠人に命令していいのは僕だけのはずなのに」
 罪悪感が胸に押し寄せる。
 悠人は自分のことしか考えず、この機会を利用して大地を繋ぎ止めようとしていたのに、大地は悠人のことを真摯に思慮深く心配してくれていた。自分の小狡さがつくづく嫌になる。それでもどこか冗談めかそうとする彼の物言いに合わせ、感情を押し隠してあくまでいつもどおり淡々と応じる。
「おまえのものになったつもりはないけどな」
「僕が目をつけてここに連れてきたんだろう」
「ああ、飼っていた犬の代わりだったな」
「拗ねるなよ」
 大地は愉快そうに笑いながら言う。
 でも――ゆっくりと一呼吸してそう言葉を継ぐと、男性にしては繊細な指で、長くはない悠人の髪をすくい上げた。まるでそこまで神経が通っているかのようにゾクリし、振り返る。こちらに顔を向けていた彼の目がほんのすこし細められ、唇がゆるやかに弧を描いた。
「おまえと堕ちるのも悪くないかもな」
「……そうだな」
 悠人は無表情を保ったままどうにかそれだけ言葉を返すと、ゆっくりと背を向ける。唇は無意識のうちに固く結ばれていた。


…本編・他の番外編・これまでのお話は「東京ラビリンス」でご覧ください。

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