瑞原唯子のひとりごと

「東京ラビリンス」第59話・三十年分の本音

「ありがとうございました」
 必死に泣くのを堪えているような微かに震えた声が、左耳のイヤホンから聞こえた。
 目の前には防犯カメラのモニタが置かれている。
 四分割された画面のうち二つに声の主である澪が映っていた。執務机の後方から捉えたものと、扉の上部から捉えたものだ。どちらも不鮮明なうえ小さくしか映っておらず、表情まではわからないが、大まかな動きであれば十分に認識可能である。
 モニタに映っている彼女は婚姻届を胸に抱いて深々と一礼した。そのまましばらく無言で直立していたが、再び頭を下げると、今にも駆け出さんばかりに扉の方へ足を進める。途中、床に置いてあったボストンバッグを引っ掴んで。
 パタンと扉の閉まる音を聞いたあと、悠人はイヤホンを外した。
 そのすぐあとに、駆け足で遠ざかる軽い足音と、金属製の扉が開閉する音が、続けて廊下の方から聞こえてきた。どうやら彼女は足を止めずに帰っていったようだ。その間も、モニタの中では大地が腕組みをして立ち尽くしていた。

 悠人は重たい体を引きずるように椅子から立ち上がると、奥のベッドに倒れ込んだ。はぁ、と無意識に大きく息を吐きながら、膝から下をぶらりと垂らして仰向けになり、薄く汗ばんだ額に右手の甲をひたとのせる。その冷たい感触に少し気持ちが落ち着いてきた。ゆっくりと顎を上げて白い壁に視線を流し、ある一点で留める。
 そこには、少女時代の美咲を描いた肖像画があった。
 つい先日までは橘家の大階段に飾られていたのだが、怪盗ファントムが盗み出すことでその存在を世間から抹消し、今は名実ともに大地ただひとりのものになっている。それで、彼の寝室であるここにひっそりと掛けられているのだ。客人にも誰にも見せびらかすつもりはないのだろう。
 その瞳には、何が映っている――?
 悠人は少し目を細めると、肖像画として描かれている幼い美咲に、大人になった彼女を重ねて問いかける。このみっともない有り様を見てどう思うだろう。間違っていないと微笑んでくれるだろうか。遠い昔のあのときのように――過去に思いを馳せ、胸が締め付けられるのを感じながら目をつむった。

 カチャ――。
 静寂の中にひっそりと控えめな音が響いて扉が開き、大地が寝室に入ってきた。ベッドで仰向けになっている悠人を見つけると、膝が触れ合いそうなくらい近くまで足を進め、おもむろに腕を組みながらニヤリと見下ろす。
「よく耐えたな」
「挑発には乗らない」
 そうは言ったもののギリギリだった。澪を押し倒したときには本気で腰を上げかけていた。彼女の服の中に手を差し入れでもしたら、激昂して弾かれるように止めに入ったに違いない。しかし、それは一人でやり遂げたいという彼女の思いを裏切る行為である。
 そもそも彼女に無断でこんなところに来たこと自体が裏切りだろう。わかってはいたが、無防備なまま一人で大地と会わせるわけにはいかなかった。彼女よりも一日先んじてドイツ在住の彼を訪ねると、事の顛末を説明し、同意の署名捺印をしてくれるよう頼んだのである。
 大地は面白がるだけで、最後まで了承するとは言ってくれなかった。ただし了承しないとも言っていない。こうやっていつも悠人を翻弄して楽しんでいるのだ。彼女の来る時間が迫ると、あとはもう成り行きに任せるしかなかった。
 万が一を考慮して、書斎の隣の寝室で待機させてもらうことにしたが、彼はさらに防犯カメラの映像で見守ることを提案してきた。あえて見せるということは、何らかの方法で悠人を挑発するつもりなのだろう――そう予想していたからこそ、どうにかここまで耐えられたのかもしれない。
「最初は挑発だったけどね。最後の方は本気だったよ」
 大地はそう言うと、仰向けになっている悠人の隣に静かに腰掛ける。ベッドの端が少し沈むのがわかった。彼は体を後ろに傾けて支えるように両手を付くと、ちらりと悠人を振り返り、思い出したようにふっと柔らかく表情を緩める。
「護身術、まったく役に立ってなかったよな」
「もともと気休め程度のつもりだった」
 役に立つと思っていれば、ドイツくんだりまで来ていない。
 澪の名誉のために言えば、武術にしても護身術にしても生徒としては優秀だった。教えたことはたいていきちんとこなすし、飲み込みも早い。ただ、応用が苦手なため実践では上手くいかないことが多いのだ。さらにいえば、感情的になると考える余裕をなくしてしまう傾向がある。今回も護身術のことなどすっかり頭から抜け落ちていたのだろう。
「澪はあれで勝算があると思っていたのか?」
「一応、切り札を用意していたらしい。使う隙すらなかったみたいだがな」
 澪は自信ありげに言っていたが、おそらくそうたいしたものではないだろう。大地を追いつめられるような材料など、彼女が手に入れられるとはとても思えない。悠人でさえそんなものは持っていないのだ。大地も同じように思ったのか、楽しそうにくすくすと笑っている。
「なぁ」
「何だ」
 愛想のない声で聞き返す悠人を、大地はうっすらと唇に笑みをのせて見つめていた。彼がこういう無駄に色気のある表情をしているときは、たいていろくでもないことを考えている。たとえば悠人をいたぶって楽しむというような。
「もう少しでお膳立てが上手くいったのにな」
「……頼んだ覚えはない」
 悠人は天井を見つめたまま、ついと眉を寄せた。
 一回だけ悠人とセックスしてやってくれ――澪に突きつけたその条件は、大地が勝手に言い出したことだ。悠人が頼んだわけでもないし、事前に聞いていたわけでもない。おそらく彼としては面白がっているだけだろうが、イヤホンで聞いたときには息が止まりそうになった。
「もし澪が条件を飲んでたらどうした?」
「断る」
「ま、実際にそうならないとわからないよな」
 大地はあからさまに含みのある厭らしい言い方をして、細めた横目を流す。
「澪の体はいいぞ。そういえば武蔵も骨抜きにされてたみたいだな。見た目は子供みたいだが、抱いてみるとあれでなかなか淫乱な体をしている。実に僕好みだ。感触も反応も美咲と似ていてさすが親子だと思ったよ。あ、おまえは美咲の体も知らなかったか」
 最後はとぼけたように言い添えて軽く笑った。そして、背を向けてシーツを掻くように掴んでいた悠人に、後ろから覆い被さるように顔を近づけ、耳元にそっと唇を寄せて吐息まじりに囁きかける。
「だから、一回くらい澪を抱かせてやりたかった」
「…………ッ!!」
 体中が沸騰しそうなほどの激情に駆られ、彼をベッドに叩きつけるように押し倒した。一瞬のことだ。気付けば彼に跨がり両肩を押さえつけていた。骨が軋みそうなほどの力を掛けながら、ギリと奥歯を食いしばって睨めつける。
「美咲の前でよくもそんなことが言えるな……!」
「美咲はもうどこにもいない。それはただの絵画だ」
 大地は少しも動じることなく冷笑を浮かべ、平然とそう言い放った。初めて美咲を目にしたときからずっと変わらず執着してきたはずなのに、亡くなった途端、すっかり興味をなくしてしまったかのような言動を繰り返している。生きていなければ意味がないということだろうか。だから生きている娘の澪に興味が移ったのだろうか。しかし――その「ただの絵画」を自分ひとりのものにと望んだのは彼自身だ。
「ただの絵画になぜそんなに執着する?」
「もちろん、気に入ってるからだよ」
 核心を突いたつもりが軽くかわされてしまい、悠人は唇を噛んだ。
 それでも彼の美咲に対する愛情はなくなっていないと信じたい。少し冷静になって先ほどの澪との対面を思い返してみると、時折その言動から本音が覗いていたのではないかと感じる。彼なりの方法で美咲の死を受け止めようとしているのかもしれない。彼女への想いが強すぎるがゆえに迷走し苦しんでいるとも考えられる。大地の肩を掴み、感情の読めないその顔を真上からまっすぐに見下ろした。
「同意の署名をしたのは誰のためだ?」
「親友のおまえに頼まれたからだ」
「嘘をつけ」
 苦々しさを隠すことなく顔をしかめる。真剣に答えてほしいという願いも、彼の力になりたいという思いも、彼本人にはまったく通じない。わかっていてあえてとぼけているのだろう。
「本心を語ろうともしないくせに、何が親友だ」
「おまえだって何も語ってくれなかっただろう」
 それを言われるとぐうの音も出ない。
 本心をひた隠しにしてきたことは紛れもない事実である。しかし、どういうわけか彼にはとっくに見透かされているのだ。見苦しい気持ちも、矛盾した思いも、仄暗い感情もすべて――ゆらり、と何かに操られるように彼の首に手を掛ける。
「また、首を絞めるのか?」
 大地はすうっと目を細めて微笑を浮かべた。
 どうしたいのかなど自分でもわかっていない。ただ、前回と同じように中途半端なことしかできず、彼に馬鹿にされるだろうことは目に見えている。唇を噛んで逡巡していると、不意に腕を取られてぐるりと視界がまわり、気付けば仰向けの状態で大地に跨がられていた。首に冷たい両手が掛けられるが、表面に触れているだけで力は入っていない。彼の口もとがニヤリと斜めに歪んだ。
「形勢逆転だな」
 まるで獲物を捕獲した肉食獣のような顔でそう言い、舌なめずりをした。そして息が触れ合いそうな距離まで顔を近づけると、今にも食らいつかんばかりの残忍な笑みを浮かべて問いかける。
「本心を聞きたいか?」
「……ああ」
 首に掛かった手に少し力がこもるが、まだ苦しくはない。間近にある大地の瞳が鋭く光った。
「聞く勇気はあるか?」
「今さら何を怖れる」
 悠人は目を逸らすことなく強気に答える。
 それをどのように受け取ったのかわからないが、大地はふと表情を消し、首に掛けていた手を外してベッドから降りた。無言でレースのカーテンと両開きの窓を大きく開け放ち、腰を屈めながら窓枠に腕を置いて外を眺める。薄青色の空には薄い筋状の雲がかかっていた。
「今夜はどうするつもりだ?」
「一応、ホテルは取ってある」
「キャンセルしろ」
 振り返りもせず尊大な口調でそう命令すると、くるりと身を翻し、白い窓枠に後ろ手をつきながらもたれかかる。逆光を受けて顔にはうっすらと陰が落ちていたが、その中で瞳だけは爛々とした輝きを放っていた。ベッドに横たわったままの悠人を瞬ぎもせず見つめ、顎を上げる。
「一晩、語り明かしてやるよ。三十年分の本音を」
 悠人の体にゾクリと痺れるような震えが走った。しかし、それは決して恐怖からくるものではない。ごくりと唾を飲み下すと、すぐに体を起こしてベッドから立ち上がり、逃げることなく真正面から大地と向かい合う。同じ高さで二人の視線がぶつかった。
「悠人、おまえの本音も聞かせてもらう」
「望むところだ」
 窓から少し冷たい風がゆるりと滑り込み、レースのカーテンをはためかせる。
 長年知りたいと渇望していた彼の心に触れられるときがきた。ただ、以前なら機会があっても逃げ出していたかもしれない。紆余曲折を経た今だからこそ覚悟を決められたのだ。たとえ彼と決別することになったとしても、本気で向き合わなければ何も始められないし、何も終えられないと。
「明日の朝、どちらかの死体が転がることにならなければいいけどな」
 大地は茶化すようにそう言うと、机の隅に置かれていたペットボトルを投げてよこした。緩やかに弧を描いて悠人の手におさまったそれは、飲みかけのものらしく半分ほどしか残っていないが、見たところ何の変哲もない普通のミネラルウォーターのようだ。
 まさか、薬を盛ったりはしていないだろう――。
 悠人はキャップを捻り開けて躊躇いを振り切るように大きく呷り、残りを一気に飲み干した。そして水で濡れた唇を無造作に手で拭うと、挑むような目を向け、空になったペットボトルを大地に放り投げる。宙を舞うなか、透明なボトルが窓からの日光を反射してきらりと白く輝いた。


…これまでのお話は「東京ラビリンス」でご覧ください。

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