「東京ラビリンス」第18話・願いごと

「師匠、おまたせしました…って、あれ？」
　澪は美容室で着付けとヘアメイクをしてもらうと、悠人を待たせていた喫茶店に入り、歩幅を小さく刻みながら奥の席へと駆けていく。しかし、そこにいたのは彼だけではなかった。向かいには、彼とよく似た体格の男性が座っている。
「澪、あけましておめでとう」
「お父さま？！」
　にこやかに振り返ったその男性は、澪の父親であり、悠人の親友でもある大地だった。濃紺色のトラッドなビジネススーツを身につけ、ネクタイまできっちりと締めている。おそらく仕事帰りなのだろう。それでも、まったくといっていいほど、疲れた顔を見せていない。
「その振袖も髪型もよく似合ってるよ」
「ほんとですか？」
　澪は声を弾ませながら、腕を少し広げて、その場で軽やかに回って見せる。鮮やかな赤地に色とりどりの花が咲き誇る、上品ながらも人目を惹きつけるデザインで、澪自身もとても気に入っていた。髪も振袖に合わせて結い上げ、可愛らしく華やかな髪飾りをつけている。
「師匠に見立ててもらったんです」
「へえ、結構いいセンスしてるね」
　大地はソファの背もたれに腕をかけ、上から下まで観察し、いかにも意外そうな口調で言う。
「そういえば、お父さまはどうしてここに？」
「おまえたちと正月を過ごすつもりで家に帰ったんだけど、澪と悠人は初詣に出掛けたっていうから、合流させてもらおうと思って来たんだよ。邪魔だったかな？」
「そんなことないです」
　澪は屈託のない笑顔で答える。が、悠人は仏頂面で、大地の横顔を睨みつけていた。
「澪、行くぞ」
　感情を押し込めたような声でそう言うと、コートと伝票を持って立ち上がり、ストールをまとった澪の肩を抱いて歩き出す。大地も慌ててコートを引っ掴み、軽い駆け足で追いかけてきた。
「おいおい、そう急ぐこともないだろう」
　悠人はその言葉を聞いて足を止めると、澪の肩に手をのせたまま、冷たい表情でゆっくりと振り返った。そして、持っていた伝票を大地の胸元に押しつけ、怨念のこもった仄暗い眼差しを向けて言う。
「馬に蹴られて死んでしまえ」
　それは、まるで呪詛のようだった。

　空は厚い灰色の雲に覆われ、頬を打つ風は容赦なく冷たい。
　いつ雪が降り出してもおかしくない天気だった。

　車通りのほとんどない細い道路を、三人は澪を中心に並んで歩く。
　着物の澪を気遣い、悠人も大地もゆっくりと足を進めてくれていた。さらに、悠人は包み込むようにしっかりと澪の手を握っている。転倒を心配してのことだろう。その気持ちはありがたいが、まるきり子供扱いされているようで、素直に喜ぶことはできなかった。反対側では、大地がニコニコと人なつこい笑みを浮かべている。
「澪も悠人も元気そうで良かったよ。活躍はいつも新聞や雑誌でチェックしているけどね」
「あはは……」
　澪は曖昧に受け流した。怪盗という犯罪行為にもかかわらず、健全な課外活動のような言いようには、何とはなしに複雑な気持ちになってしまう。それが自分の親であればなおのことだ。もっとも、彼は先代のファントムでもあるのだから、当然といえば当然なのかもしれない。
「遥も元気にしてますよ」
「ああ、さっき帰ったときに話をしたよ。一緒に行かないかと誘ったんだが、篤史君とDVD三昧の方が楽しいそうだ。年中行事に興味がないのは相変わらずだな」
　大地は軽く笑いながら言う。
　澪も事前に何度か誘ったのだが、遥にも篤史にも面倒くさいからといって断られた。最近わかったことだが、二人は意外と趣味が合うらしく、休日にはよく篤史の部屋で一緒にDVDを見ているようだ。これまであまり誰とも遊ぼうとしなかった遥が、気の合う仲間を見つけたのであれば、たとえ相手が篤史であっても嬉しく思う。
「そうだ、遥にも渡したんだが……」
　大地は思い出したようにコートのポケットを探った。そして、にっこり微笑んで小さな赤い袋を差し出す。
「はい、お年玉」
「わあ、ありがとうございます！」
　澪はパァッと顔を輝かせて受け取った。かなり厚みのある感触だ。口は折り曲げてあるだけで封をされていなかったので、はしたないとは思ったものの、親指で押し上げてちらりと中を覗いてみた。入っていたのはおよそ5枚ほど、それもすべて一万円札のようである。
「こんなに……？」
「ここ二年くらい忘れてたからね。あとは仕事の手当分かな」
　大地は冗談めかして言う。
　仕事というのは怪盗ファントムのことだろう。その手当にしては安すぎるような気がして、澪は思わず苦笑するが、そもそも手当をもらう性質のものでないことは理解していた。これで利益を得ているわけではなく、きれいな言い方をすれば、絵画の尊厳を守るためのボランティアなのだ。
「何でも金で解決できると思うなよ」
「まったく、いつまで拗ねてるんだよ。デートを邪魔したのは悪かったけどさ」
　大人げなくふてくされる悠人に、大地は呆れ口調で言い返した。それから、ふいに真面目な顔になって切り出す。
「悠人、おまえ本当に澪と結婚するつもりなのか？」
「ああ」
　悠人は狼狽えもせず平然と肯定した。が、大地は不満げに口をとがらせる。
「それならそう言いに来いよ。美咲には報告したみたいだけど、どうして僕のところには来ないんだ？ 父親だぞ？ お父さん僕に娘さんをください、って挨拶しに来るのが筋だと思うんだがね」
「都合のいいときだけ父親面するな」
　悠人はピシャリと突っぱねた。
「ずっと家にも帰らずほったらかしにしておきながら、たまに思いつきで可愛がって、それで父親としての役目を果たしているつもりなのか？ おいしいところだけ持っていこうなんて狡いんだよ。澪と遥が出来た子だからいいが、普通だったらとっくにグレてもおかしくない家庭環境だぞ」
「二人をいい子に育ててくれたおまえには感謝してるって」
　大地はあっけらかんと笑って言う。そんな彼を、悠人は横目でじとりと睨みつけた。
「だったら、澪をもらっても文句はないな」
「もともと反対するつもりはないよ。おまえが澪と結婚して橘を継いでくれれば、僕は自由にやりたいことをやれるし、むしろそうなってくれるとありがたい。橘を継ぐなんて僕には不向きだしね」
　大地は穏やかにそう答えると、コートのポケットに両手を差し込んだ。
　しかし、悠人はますますムッとして言い返す。
「そういうつもりで言ってるんじゃない」
「わかってるって」
　大地は笑顔で軽く受け流した。そして、悠人に視線を送り、優しく慈しむように目を細める。
「良かったよ、おまえに好きな人ができて」
　学生のとき以来、悠人にはずっと恋人がいなかったと聞いている。が、それ以前に、好きな人さえいなかったということだろうか。もしかしたら大地がからかっているだけかもしれない、と思ったが、悠人に反論しようとする様子は見られなかった。
「ところで、おまえらどこまでいったんだ？」
　大地はふいにそう尋ねると、首を伸ばして興味深げに澪たちを覗き込む。
「どっ……？！」
「まだキスまでしかしていない」
　湯気が出そうなほど真っ赤になる澪の隣で、悠人は顔色一つ変えずさらりと答えた。
「したんじゃないです！ されたんです！！」
　澪は紅潮したまま大慌てで力説する。そこだけは誤解されたくない部分だった。しかし、澪の意図をわかっているのかいないのか、大地は感心したような眼差しを悠人に向けて言う。
「へえ、おまえにしては頑張ってるな」
「それ反応がおかしいですから！」
　澪は感情的に声を上げると、今度は反対側の悠人に威勢よく詰め寄る。
「だいたいああいうのはノーカウントじゃないんですか？！」
「それならそれでいいけどね」
　悠人は拍子抜けするくらいあっさりと引き下がった。そして、にっこりと満面の笑みを浮かべて続ける。
「じゃあ、結婚式での誓いのキスを僕たちの初めてにしようか」
「……あの、まだ師匠と結婚するなんて決まってないですけど」
　澪は顎を引き、調子づいた悠人を咎めるように上目遣いで睨んだ。それでも彼はニコニコと微笑んでいる。まるで、何もかも自分の望みどおりになると確信しているかのようだった。もっとも、このままではいずれそうなることは避けようがないのだが。
　大地はぬっと覗き込んで尋ねる。
「澪は嫌なのか？」
「嫌、っていうんじゃないんですけど……」
　もちろん悠人のことは好きだし、一緒にいられると嬉しい。感謝も尊敬もしている。けれど――。
「彼氏のことが吹っ切れないだけだよ」
「ああ、刑事の……」
　悠人が端的に述べると、大地は得心して頷く。誠一のことは話していなかったはずだが、悠人や美咲から聞き及んでいたのだろう。渋い顔になりながら腕を組んだ。
「さすがに刑事はまずいよなぁ」
「…………」
　澪の顔に翳りが落ちる。それに気付くと、大地はふっと目を細めて微笑みかけた。
「悠人はいい奴だよ。僕が保証する」
「それは、わかってますけど……」
「僕はね、澪にも悠人にも幸せになってほしいんだ」
　結い上げた髪を崩さないように、大きな手がふわりと置かれる。彼の気持ちや思いは理解はできるのだが、素直に首肯するわけにはいかず、だからといって闇雲に否定することもできない。口を閉ざしたまま、微妙な面持ちで目を伏せるしかなかった。
「だったら邪魔しないでほしいんだがな」
　不意に、反対側から棘を含んだ声が聞こえた。
「それよりも、もっと美咲のことを大事にしろ」
「言われるまでもなく大事にしてるけど？」
　大地はしれっと答えた。悠人の眉間に深い縦皺が刻まれる。
「何をやってるのか知らんが、美咲を巻き込むな」
　曖昧な言い方だが、研究所の不正を指していることは間違いなかった。大地主導で行われた可能性が高く、美咲は何も知らないかもしれない、と悠人は当初から主張していたのだ。それが事実かどうかはわからない。ただ――。
「すべて美咲自身の意志だよ」
　大地は不敵な笑みを唇にのせ、まるで挑発するかのように言う。一瞬、空気が張りつめたように感じた。しかし、悠人は冷ややかな一瞥を送っただけで、そのことについてはもう触れようとしなかった。

　神社の大きな赤い鳥居をくぐり、石畳で舗装された参道を歩いていく。
　さほど大きくなく、有名でもない神社だが、意外と多くの初詣客で賑わっていた。家族連れや恋人どうし、友達どうし、あるいは一人など、老若男女さまざまな人たちの姿が窺える。澪と同じように晴れ着で盛装した女性も、多くはないがちらほらと目についた。
　すぐに、拝殿の近くまで辿り着いた。
　屋根付きの小さな手水舎で手を漱ぎ清めてから、拝殿前の石段を上り、三人それぞれが賽銭を入れて両手を合わせる。
　いつまでも誠一と一緒にいられますように。お願い、神様――。
　澪は、両側の二人を気にしながらも、どこかにいるはずの神様に真剣に訴えかけた。願いごとは去年と同じだが、願う気持ちはほとんど別物である。ただ幸せだったあのときとは違い、終わりが現実になろうとしている今は、もはや神様に縋るしか為すすべがなかった。

「澪は何をお願いしたの？」
「内緒です」
　大地に尋ねられると、澪は小さく肩をすくめてそう答えた。刑事はまずいと言われたばかりなのに、臆面もなくこの願いを口にできるほど、図太い神経は持ち合わせていない。幸い、大地はそれ以上しつこく追及してこなかった。今度は悠人に目を向けて言う。
「おまえは？」
「今年中に澪と結婚できますように」
　悠人は涼しい顔で答える。以前は春まで返事を待つと言っていたはずなのに、次第に強引になるその態度に、澪は乾いた笑いを浮かべるしかなかった。そして、神様は競合する願いのどちらを優先するのだろうか、と真面目に考え込んでいると――。
「奇遇だな。僕も、悠人と澪が無事に結婚できるよう願っておいたよ」
　大地が嬉しそうに声を弾ませた。二人が同じ願いをしていたとなると、単独の願いである澪の方が分が悪い。もっとも、それは神様が多数決主義ならばの話だが、どうしても不安にはなってしまう。
　悠人は胡散臭そうな視線を大地に流した。
「嘘をつけ」
「本当だよ。たくさんある願いごとのひとつだけどね」
　大地はコートのポケットに手を差し入れ、白い息を吐きながらそう言うと、大きく広がる空を見上げて薄く微笑んだ。目に掛かるくらい長く伸びた前髪が、冷たい風に吹かれてさらさらと揺れる。その間から覗く瞳には、灰色にくすんだ曇天が映し出されていた。

　三人はゆっくりと参道を戻っていく。
　両側に二つほど出ている屋台から、焼きそばやフランクフルトの匂いが漂ってきたが、大地も悠人も興味がないのか目もくれなかった。澪は美味しそうな匂いにひかれたものの、ちらちらと眺めただけで、あえて足を止めることなく通り過ぎていく。
「さ、これからどうする？」
　大地は少し前屈みになって悠人に尋ねた。しかし、悠人は正面を向いたまま振り向きもしない。
「大地、おまえはもう帰れ」
「つれないこと言うなよ」
「ホテルのレストランに予約を入れてある。二名でな」
　その話は澪も初耳である。とはいえ、最近ではよくあるパターンなので驚きはしなかった。
「電話して三名に増やせないか訊いてみろよ」
　大地は不機嫌になるでも諦めるでもなく、当たり前のように指示を出した。逆に、悠人の方がムッとして横目で睨みつけている。しかし、何を言っても無駄だと悟ったのか、渋々ながら内ポケットから携帯電話を取り出した。
　澪は、電話をかけようとする悠人から少し離れて、何とはなしにあたりを見まわした。すると、参道脇にひっそりと佇む、こじんまりとした神社のような建物が目に入った。賽銭箱も置いてあるようだ。それを見た瞬間に名案が浮かび、思わずパッと顔を輝かせて大地に振り返る。
「お父さま、私、あそこでお参りしてきますね」
「大事なお願いし忘れちゃった？」
　大地がニコニコしながら尋ねてきたが、澪は笑ってごまかし、逸る気持ちのまま小刻みに走り出した。願いごとを忘れていたわけではない。もう一度、たったひとつの願いごとを祈るのだ。大地と悠人に負けるわけにはいかないのである。
　その小さな神社には、先客がいた。古びたジーンズにブルゾンというラフな格好をした長身の男性で、風邪をひいているのか、顔の大半が隠れるくらいの大きな衛生用マスクをしている。手を合わせるでも賽銭を入れるでもなく、ブルゾンのポケットに両手を突っ込んだまま、じっと何か考えごとをしているように見えた。
　邪魔をしないように、澪はそろりと忍びよって隣に立ち、賽銭を用意しようとハンドバッグを開ける。
　そのとき、男性が勢いよくバッとこちらに振り向いた。
　何なの――？
　澪は訝しげに眉をひそめる。
　彼は大きく目を見開いて澪を凝視していた。表情はよくわからないものの、愕然としている様子だけは見てとれる。何か気に障ることをしただろうか、どこかで会ったことがあるだろうか――そんな疑問を抱きながら、ほとんど隠れている彼の顔をチラチラと横目で観察する。
　まさか――？！
　澪はハッとし、飛びかかるようにして男のマスクを剥ぎ取った。その顔は――。
「やっぱりあのときのバイク男！！」
　まさか、いきなり手が出てくるとは思わなかったのだろう。男はすっかりマスクを取られてから、慌てて顔半分を覆って後ずさり、悔しそうに奥歯を強く噛みしめた。そして、険しい目つきで左右を覗うと、意を決したように身を翻して駆けていく。
「待って！」
　澪はすぐに追いかけようとしたが、この着物ではまともに走れず、砂利に足を取られて転びそうになった。よろけて地面に落としたハンドバッグから、小銭が濁った音を立ててあたりに散らばる。
「誰かあの人を捕まえて！ 痴漢です！！」
　最後の手段とばかりに、澪は有らん限りの声を張り上げて男を指さす。今日は偶然だったのかもしれないが、彼が自分や遥を付けまわしていたのは間違いない。わざわざ戻ってきたこともあるのだから、言い逃れのしようもないだろう。いったい何が目的なのか、どういう理由なのか、どうしても本人から聞き出したかったのである。
　逃げかけていた男はギョッとして振り向いた。
「澪、大丈夫か？！ 何をされた？！」
「あの人を捕まえて！」
　ただならぬ声を聞いて駆けつけた悠人に、澪は必死に指示を出す。
　男は我にかえって再び走り出すが、悠人が凄まじい勢いで追い、逃げ道を迷う男との間はすぐに詰められた。男は足を止めて振り返ると、迫りくる悠人に対して身構える。悠人も少し手前で身構えた。二人ともジリジリと摺り足で相手の出方を覗っている。
　先に均衡を破ったのは悠人だった。
　素早く腰を落として足払いをするが、男にはあっさりかわされてしまう。が、あらかじめそれを見越していたようで、すぐさまみぞおちを狙って低いところから拳を繰り出した。しかし、それさえも男には受け止められてしまう。いったん身を引こうとするが、一瞬早く、男の膝蹴りが悠人の側頭部に入った。悠人の体は、受け身を取りながら、湿った土の上に叩きつけられる。
「師匠！」
「平気だ」
　澪が駆け寄る間に、悠人は顔をしかめつつも立ち上がった。あたりを見まわしながら土を払う。そのときには、もう男の姿は見えなくなっていた。今から追いかけても捕まえることは難しいだろう。悠人が無事だっただけでも良かったと思わねばならない。
「それより大丈夫なのか？ あの男に何をされた？」
「あ……すみません、痴漢ていうのは嘘なんです……」
　澪はしゅんとしてうなだれた。
　悠人は怪訝に眉を寄せる。
「どういうことか説明してくれないか？」
「痴漢って聞いて、悠人、完全に逆上してたんだぞ」
　いつのまにか来ていた大地が、悠人に携帯電話を手渡しながら、軽く窘めるような口調で言う。その携帯電話は悠人のものだ。通話中のそれを投げ出して、一目散に駆けつけてくれたのだろう。澪は申し訳なさに身を縮こまらせる。
「あの人、以前から私や遥のことを付けまわしていて……だから、何が目的なのか聞き出したかったの……」
　もともと隠すつもりはなかった。拙いながらも率直に説明すると、悠人は目を大きく見開いた。
「どうして早く言ってくれなかったんだ」
「別に、何かされたわけじゃないし……」
「何かあってからでは遅いんだぞ」
「うん……」
　冷静ながらもどこか歯がゆそうな彼の物言いから、責めているのではなく、澪の身を心から案じているのが伝わってくる。そのことがとても嬉しく、とても心苦しかった。
「あの男……」
　大地はふとそう呟くと、顎に手を添えてじっと考え込んだ。
「もしかしたら、僕も見たことがあるかもしれない。研究所の近くをうろついている男がいるんだよ。いつもフルフェイスのヘルメットでバイクに乗っているから、顔まではわからないが、背はあのくらいだし、体格も似ている気がするんだよな」
「そう、そのバイク男です！」
　澪は奪ったマスクを握りしめながら力強く肯定した。同一人物である保証はないものの、澪の見た男もバイクに乗っており、おそらく間違いないだろうと思う。
「目的は、美咲の研究か……」
　大地はぽつりと言葉を落とした。何度も研究所付近で目撃しているとなると、やはり研究所に目的があると考えるのが妥当だろう。健康診断でしか行かない澪でさえ、一度だけだが、その帰り道に遭遇しているのだ。
　悠人は男の逃げ去った方を見やり、表情を険しくした。
「あの男、かなりできるぞ」
　それは、澪も見ていて感じたことである。あの男は悠人と対等以上に渡り合っていた。少なくとも、動きの切れや素早さに関しては、相手の方が数段上といえるだろう。以前、澪と遥が逃れられたのは、彼の虚をついたからに他ならない。もし、あの男が本気で何かを仕掛けてきたとしたら――。
「守ってくれるんだろう？」
　大地はいつになく真面目に問いかける。
「ああ、守るさ……」
　悠人は噛みしめるようにそう答えると、澪の肩に手をまわし、強く自分のもとへと抱き寄せた。指先からも感じる痛いくらいの力。そこから彼の真摯な想いと決意が伝わってくるようだ。けれど、そのことが、逆に澪の不安と戸惑いを大きく煽っていた。

…これまでのお話は「東京ラビリンス」でご覧ください。