「こいつだっ!!」
七海は朝食中、テレビの情報番組に映し出された似顔絵を見て大きく目を見張り、かじりかけのトーストを手にしたまま弾かれたように立ち上がった。その拍子にコップを倒してオレンジジュースをこぼしたが、気にするどころではない。
テレビに駆け寄り、至近距離でじっと食い入るように見つめる。
そこには、制服を着た高校生と思われる美少女の写真と、鉛筆で丁寧に描かれた若い男性の似顔絵が並んで表示されていた。美少女は橘財閥会長の孫娘らしい。この令嬢を誘拐した似顔絵の男に三億円の懸賞金がかけられた、というようなことを、男性レポーターが若干興奮した声で説明している。
七海はその似顔絵と記憶の男を脳内で比較した。似顔絵は鉛筆描きなので色まではわからないが、すっきりとした輪郭、キリッとした目元、甘すぎない二重まぶた、きれいな大きめの瞳、すっと通った鼻筋、まっすぐに結ばれた薄い唇、そして各パーツの配置――そのどれもが記憶の男と一致していた。
「お父さんを殺したのこいつだよ!」
振り返って、黙々とトーストを咀嚼している拓海に訴える。
父親を殺した直後の男にばったりと出くわしたのが四年と数か月前。それ以来、お父さんの敵を取るんだ、あの男に復讐するんだと心に決め、そのためだけに生きてきた。一日たりとも忘れたことはない。
「あの男は金髪だとか言ってなかったか?」
「そんなのカツラとかどうにでもなるよ!」
「まあ、それはそうだが……」
拓海は曖昧に言葉を濁し、無表情を崩すことなく残り少ないコーヒーを口に運ぶ。いままで行方どころか手がかりのひとつも掴めなかったのだから、あっさりこいつだと言われても信じられないのかもしれない。そうでなければこんなに落ち着いてはいられないはずだ。
真壁拓海(まかべたくみ)は、殺された七海の父親・坂崎俊輔(さかざきしゅんすけ)の高校の同級生であり、友人であり、そして仕事の同僚でもあった。その縁で身寄りのなくなった七海の面倒を見てくれている。そして、俊輔の敵を取ることが二人の共通の目的となっていた。
テレビでは橘財閥会長がレポーターからの質問に答えていた。誘拐犯から身代金などの要求はまだ来ていないこと、懸賞金は警察ではなく独自の判断だということ、孫娘を無事に保護するのが目的だということ、誘拐犯の顔は実際に身内が見ていることなど、淀みなく話している。
「このおじさんに聞きに行かなきゃ」
「七海、落ち着け」
「落ち着いてなんかいられない!」
せっかくの手がかりを活かそうとしない彼に腹が立った。反抗的に言い返すと、切れ長で奥二重の目がわずかに細められ鋭さを増した。じっと七海の目を見つめ、言い含めるようにゆったりとした口調で切り出す。
「いいか、七海、行方がわからないから三億円の懸賞金をかけてるんだ。そのおじさんに聞いたところで何もわかりはしない。少なくとも今の段階では」
「そっか……」
言われてみればもっともな話である。興奮していた気持ちが急速にしぼみ、しゅんとうなだれた。食べかけのトーストを皿に置き、台所から布巾を持ってきてこぼしたオレンジジュースを拭き取る。
「その男が見つかったら行動を起こそう」
「うん」
あの男が父親を殺した犯人だという七海の言い分を、一応は信じてくれているんだと安堵する一方で、やはり彼の冷静すぎる態度には釈然としないものを感じる。
「拓海、ちっとも嬉しそうじゃないね」
「まだ喜べる段階じゃないからな」
「やっと手がかりを見つけたのに?」
「喜ぶのは復讐を果たしたときだけだ」
「それに一歩近づけたんだよ?」
「だからこそ慎重になる必要がある」
拓海の理屈はおおよそ理解できた。七海のように目先のことに一喜一憂しないだけで、敵討ちに気が乗らないわけではない。むしろ成功させるために慎重になっているのだと。それでも完全には納得がいかず口をとがらせる。
「喜んじゃいけないの?」
「七海はそのままでいい。ただ、自分ひとりで勝手な行動はするな。焦って動いてもろくなことにならない。せっかくの手がかりをふいにするだけだ。いいな?」
さきほどのように、また短絡的な行動に出るのではと危惧しているのだろう。七海としても失敗を望んでいるわけではないし、慎重になることを求める彼の気持ちもわかるので、それに関しては素直に首肯した。
テレビではコメンテーターたちが誘拐の目的について議論していた。いまだに要求がないのであれば金銭以外が目的ではないか、橘財閥に何らかの要望を認めさせるつもりかもしれない、あるいは少女自体が目的ということも考えられる、とそんな内容だ。
七海は冷えたトーストをかじりながらじっと耳を傾けていた。すこしでも似顔絵の男に関する手がかりがあればと思ったのだが、憶測ばかりで有益な情報は何もない。いいかげん落胆して集中力が切れ始めたころ、再び映し出された男の似顔絵を見て、誘拐するなんてやっぱり悪い人なんだとぼんやり思った。
拓海がシャワーを浴びて出勤の準備をしているあいだに、七海は食器を洗う。この家に引き取られたときから与えられている役割だ。といっても押しつけられて嫌々やっているわけではなく、すこしでも恩返しできるならと喜んで引き受けていた。
最初のうちは流しまで手が届かなくて踏み台を使っていたが、いつしか必要なくなっていた。四年と数か月のあいだにそれだけ成長したということだ。もっとも同じ年頃の女子と比べるとまだまだ小さい方である。
「ちゃんと勉強するんだぞ」
「はーい」
玄関で革靴を履いている拓海といつものようにそんなやりとりをして、黒いビジネスバッグを手渡す。生前の父親と同じく彼も警察に勤めている。父親によれば警官でも刑事でも官僚でもないらしいが、機密事項が多いため、家族であっても仕事内容は言えないという。なので、拓海にも仕事のことは聞かないようにしていた。
「いってらっしゃい、パパ」
ひらひらと手を振りながら冗談めかしてそう言い、彼を見送る。
パパといっても実際は父親ではない。だがおかしな誤解や詮索をされないためには、親子をよそおった方が自然だということで、外ではパパと呼ぶよう言いつけられている。家では好きに呼んでいいということで、拓海と名前で呼んでいるが、ときどき気まぐれにパパと呼ぶこともあった。
勉強もするつもりだけど、まずは――。
玄関を施錠してリビングに戻ると引き出しから鍵を掴み、大きなイルカのぬいぐるみとオルゴールを抱えて、洋間から地下へ続く秘密の階段を駆け下りていく。そして手にしていた鍵で突き当たりの扉を開け、パチンとスイッチを押して蛍光灯をつけた。
そこにあるのは広々とした射撃場だ。
マンションの地下にどうしてこんなものがあるのかは知らないが、拓海が専用で使っているようだ。父親が殺されてからは、七海もここで彼に射撃を教えてもらうようになった。一年ほど前からはひとりで練習することも許可されていた。
隅の机にイルカのぬいぐるみとオルゴールを置くと、スニーカーを履いて軽く準備運動をし、いつも使っている愛用の拳銃に装弾した。そして人間の上半身をかたどった的に銃口を向け、まっすぐ両手を伸ばして引き金に指をかけ、狙いを定める。
バァン――。
引き金を引いた瞬間、反動で手が上にはじかれてのけぞり、尻もちをつく。思わず顔をしかめるが、すぐさま立ち上がって食い入るように的を確認した。
「やった!」
顔のほぼ中央にあたる部分に小さな穴が空いていた。本当は眉間を狙ったのですこし外しているものの、十分に許容範囲と言える。実際であれば、撃たれた相手はきっと即死しているだろう。
もう一度、しっかりと丁寧に構えて同じ的を撃つ。今度はよろめいただけで尻もちはつかなかったが、銃弾は的中しなかった。ギリギリ頭の端をかすめている。これでは致命傷になり得ない。
七海はまだ子供なのであまり筋力がなく、片手で撃つことも連続して撃つこともできない。それゆえ絶対に狙いを外すわけにはいかないのだ。一撃必中。そうでなければ仕留めることは格段に難しくなる。
一発ごとに手を休めながら装弾済みの二十発を撃ち終える。そのうち十六発が狙いに近いところに当たっていた。以前と比べるとだいぶ当たるようにはなったものの、まだ心許ないので、決行の日までにもっと命中率を上げなければと思う。
ただ、数発撃つだけで手が痛くなるような有り様なので、猛練習することは難しい。拓海にも何度となく無理はするなと言われている。手や腕を痛めると完治するまで休まなければならず、かえって練習ができなくなってしまうのだ。
もどかしい気持ちはあるが、仕方がない。
ひとまず拳銃を戻し、小さく息をつきながら隅の椅子に腰を下ろした。手にはまだすこし痺れたような感覚が残っている。隣の机に置いてあるイルカのぬいぐるみにその手を伸ばすと、ぎゅっと抱きしめて頬をうずめる。
「お父さん、もうすこし待っててね」
そのイルカは幼いころ父親がプレゼントしてくれたものだ。七海はとても気に入り、当時は寝るときも抱きしめていたくらいである。父親が殺されたあのときも――血溜まりの中を引きずったせいで、尾びれから横腹にかけて血で汚してしまった。いまも大きな黒いしみがついたままである。
しかし、その血塗れの汚れがあったからこそ、あの夢でも見ていたかのような光景が現実だと確信できた。五感で感じた生々しさを忘れずにいることができた。だから常に目の届くところに置き、復讐心が薄れることのないようにしてきたのだ。
それと――。
ぬいぐるみと一緒に持ってきた木製のオルゴールに目を向け、ごくりと唾を飲むと、そっと小さな指を伸ばして繊細な模様の彫られた蓋を開ける。一拍の間のあと、優しくまろやかでありながら力強さを感じさせる音色が、興奮を掻き立てる旋律をゆっくりと奏で始めた。
ラ・カンパネラという曲が流れるこのオルゴールは、拓海のものである。お父さんの敵を取ろう――彼が言い聞かせるようにその話をするときはいつも、このオルゴールを流していた。理由はわからないし、尋ねたこともないが、彼にとって何か特別な意味があるのかもしれない。
ただ、もう言い聞かせる必要がないと判断したのか、ここ一年はめっきりそういうこともなくなっていた。それでも気分を高めたいときには、今のように自主的にこのオルゴールを聴くことにしているのだ。
胸がギュッと締め付けられ、心拍数が上がる。
曲を聴くだけで否応なく記憶が引きずり出されていく。父親を殺した男と鉢合わせたことも、遺体安置所で呆然としていたことも、その手を拓海が握ってくれたことも、敵を取ろうと言ってくれたことも、拳銃の扱いを丁寧に教えてくれたことも、初めて拳銃を撃ったときのことも。
連動するように湧き上がる様々な感情が綯い交ぜになり、じわりと汗がにじんでいくのを感じながら、イルカのぬいぐるみを抱きしめる手に力をこめる。そして目をつむり気持ちを落ち着けるようにゆっくりと深呼吸したあと、強いまなざしで真正面を向いた。
絶対にあいつを殺す――。
脳裏に浮かぶのは手を血で染めた金髪碧眼の男。その頭の真ん中に銃弾を撃ち込むことを想像する。脳内ではこれまで数えきれないほど殺してきた。それがそう遠くない未来に現実になろうとしている。いや、この手で現実にしなければならない。
曲が終わり、オルゴールが止まる。
よし! と気合いを入れて椅子から立ち上がると、再び拳銃を手に取り、弾倉を交換して新しい射撃の的を準備した。その無機質な人型に仇敵である男の姿を重ねる。それだけで気持ちが高揚するのを感じながら、その眉間に照準を定めてグッと奥歯を食いしばり、引き金を引いた。
◆目次:機械仕掛けのカンパネラ