瑞原唯子のひとりごと

「東京ラビリンス」第47話・消えゆく命を前にして

「ミサキ!!」
 甲高い悲鳴が、無機質な大広間に響き渡った。
 溝端に体を押さえつけられていたメルローズは、その腕が外されると、倒れ込むかのような勢いで美咲に縋りついた。白いワンピースが血に染まるのも構わず顔を覗き込む。鳶色の瞳からは止めどなく涙が溢れていた。米国大使館で武蔵が撃たれたときはぼんやりとしていたが、今回は怯えた顔で引きつるように泣きじゃくっている。美咲の身に何が起こっているのか概ね理解しているようだ。
「おい待てっ!」
 混乱に乗じて逃げようとしていた溝端に気付くと、武蔵は腕を引っ掴んで声を荒げた。その隙に、澪は自分を支えてくれていた彼の手を振りほどき、美咲に向かって駆け出した。遥も同時に走り出していたようだ。待て、という制止の声が背後から聞こえたが、二人とも足を止めるどころか振り返りさえしなかった。
「お母さま!!」
 澪がメルローズの向かい側に膝をついて呼びかけると、虚ろな瞳が僅かに反応したような気がした。遥は大急ぎで着ていたパーカーを脱いで、傷口と思われるところに押し当てる。しかし、ドクドクと溢れる血が止まる気配はなく、みるみるうちに濡れていくのがわかった。遥の表情は険しい。それを見て、澪は冷たい手で心臓を鷲掴みにされたかのように感じた。

「どういうつもりだ!」
 武蔵は乱暴に腕を掴んだまま溝端と対峙していた。カッと頭に血を上らせて声を荒げるものの、溝端の方は飄々とした態度を崩さない。掴まれた腕を揺さぶられても冷静に言葉を返す。
「人柱になるんですよ」
「わかるように言え!」
「そんな義務があるとでも?」
 眉ひとつ動かさない彼に、武蔵は腕を掴む手に力を込めてギリと奥歯を噛みしめる。しかし、溝端のスーツの内側に黒いものを見つけると、抵抗の隙さえ与えずそれを奪い取った。美咲を撃った拳銃である。指が食い込むほどの力で溝端の腕を掴んだまま、もう片方の手で撃鉄を起こし、彼の額にグリッと黒い銃口を突きつける。溝端は驚いた表情を見せたが、すぐさまそれは冷笑に変わった。
「こんな脅しで口を割るとお思いですか。私の役目は終わりました。殺されても計画に支障はありませんので、撃ちたければどうぞご自由に。最後まで見届けられないのは残念ですが」
 彼に臆する様子は見られない。おそらくハッタリではなく本心なのだろうと、たいした根拠もないまま武蔵は直感した。だったらどうすればいい。溝端の額を抉るかのように銃口を押しつけたまま、顔をしかめてギリと歯噛みした。

「お母さま、しっかり!」
 澪は彼女の手を取り、声を掛け続けることしか出来なかった。遥もまた傷口を押さえ続けるだけである。美咲の目はもう焦点が定まっていなかった。彼女も彼女のまわりの三人も血まみれである。それだけおびただしく出血しているということだ。わかってはいるが認めたくない事実である。
 メルローズは美咲の腕に縋りついてしゃくり上げ、うわごとのように何度も名前を呼んでいた。しかし、不意にその声が途絶えたかと思うと、泣き声までもがピタリと聞こえなくなる。気付いた澪が怪訝に振り向くと、うつぶせになった彼女の小さな身体が薄い光を纏っていた。
「メル、ローズ……?」
 気のせいや見間違いなどではない。いったい何が起こっているのだろうか。彼女は気を失っているのだろうか。澪は身を屈めて覗き込みながら、その小さな背中に手を置こうとした。が――。
「きゃあっ!!」
「澪?!」
 触れた箇所が大きく発光し、バチッと手を弾かれて後ろに倒れ込んだ。手のひらに無数の針が突き刺さったかのような激痛を感じる。目を落とすとそこは赤黒く焼けただれていた。手首を掴んで、痛みに耐えながらグッと歯を食いしばる。大きく目を見開いて振り返った遥も、美咲からは手を離せず、ただ心配そうに様子を窺うだけである。
「危ないっ!!!」
 後ろにいたはずの武蔵が、美咲の傷口を押さえていた遥を乱暴に引き倒すと、彼と澪の頭を同時に抱え込みながら覆い被さる。直後、ドンッと彼の背中越しに衝撃が伝わってきた。はみ出していた脚や身体の一部には焼けるような熱さを感じたが、耐えられないほどではない。
「ぐっ……」
 武蔵は呻き声を上げながら体を起こすと、澪と遥を立たせて一緒に後ろに下がった。
「武蔵……あの……」
 澪はそう言いながら、身を挺して守ってくれた彼をおずおずと見上げる。あれだけの衝撃を受けて何ともないのだろうかと心配になったが、彼は少し苦しげながらも「大丈夫だ」とはっきり答えた。そして、そんなことよりもと云わんばかりに澪の手をとり、焼けただれた手のひらに目を落とす。彼の顔がつらそうに歪んだ。
「ひどいな……手当は後でする。しばらく我慢できるか?」
 澪は無言でこくりと頷いた。これまで感じたことのない痛みに脂汗さえ滲むが、今は我慢するより他にないと理解している。ここには薬も包帯も何もないのだ。泣いたところで現実的にどうしようもない。
 武蔵はメルローズの方に向き直る。
 美咲の腕を抱え込んだ小さな体は、目の眩むような白い光に包まれていた。息苦しいのか背中は大きく上下している。その度に、まわりの光が少しずつ増幅していくように見えた。
「メルローズの魔導の力が暴走を始めた。こうなったら止めることは不可能だ」
 彼女の様子を眺めながら、武蔵は額に汗を滲ませてクッと奥歯を噛みしめる。米国大使館では抱きしめて抑え込んでいたように思うが、あれはごく初期段階だから可能だったのだろう。今は、あのときとは明らかに様子が違っている。
「下がっていろ」
 武蔵は駆け足でひとり前に進み出ると、両手をまっすぐメルローズたちの方に突き出し、口先で何か呪文のようなものを唱えた。すぐに薄い光の膜がメルローズたちを覆う。それは彼女を中心に据えた半球状を形作っており、半径は武蔵の身長よりやや大きいくらいで、小柄な美咲の体もすべてその内側に収まっている。
「結界の強度が足りない。澪、遥、力を貸してくれ」
 武蔵は両手を下ろして真剣な顔で振り返った。そもそも澪たちがここへ来たのは、いざというときに魔導力を使ってもらうためで、彼に請われれば力を貸すのが当然である。しかし――。
「お母さまは、どうなるの?」
「……近づけないんだ」
 苦渋に満ちたその一言だけで、何を云わんとするかは十分に理解できた。だからといって承服できるわけもない。半開きになった口を小刻みに震わせていると、遥が駄目押しのように追い打ちを掛けてきた。
「どのみち助からないよ」
「そんな……でも……っ!」
 思わず声を上げたものの、継ぐべき言葉が見つからずグッと奥歯を噛みしめる。だが、まだ何か出来ることはあるはずだ。必死に頭を巡らせてひとつの可能性を見つけると、結界の一歩手前まで駆け寄り、焼けてない方の手を胸元で握り締めて声を張り上げる。
「メルローズお願い! 正気に戻って!!」
 反応はなかった。自分の懇願したことは的外れなのだろうか。メルローズ自身が制御できなくて暴発するのだから、正気に戻るとかそういう問題ではないのかもしれない。それでも一縷の望みに懸けるような気持ちで、縋るように何度も彼女の名前を呼び続ける。ふと、大きな手がずっしりとした重みを持って肩に置かれた。
「澪、頼む……今できることを考えてくれ」
「っ……そんなの、わからないよ……」
 澪は今にも泣きそうになっていた。目頭が熱くなり、涙がじわりと滲んでくるのがわかる。しかし、武蔵は気付いているのかいないのか、後ろから澪と遥を勢いよく懐に引き入れ、二人を囲い込むような形で結界に両手を置いた。
「俺の手におまえらの手を重ねて、そこに気を集中させてくれ。俺に送るようにイメージしてみろ」
 それが、今の澪と遥にできるたったひとつのことであり、そしてやらなければならないことなのだろう。遥は請われるまま武蔵の片手に己の手を重ね、気持ちを整えるように目を閉じて浅く呼吸をする。しかし、澪は唇を引き結んだまま立ち尽くすだけだった。
「澪……!」
 促す武蔵の声には切実さが滲んでいた。
 澪は正面を見つめる。美咲の姿はメルローズの発する光に包まれて、もうほとんど見えなくなっていた。辛うじて投げ出された片手と足先が覗く程度である。それももうピクリとも動かない。まわりの床に広がるおびただしい血の跡が惨状を物語っていた。
 お母さまは、助からないかもしれない――。
 それは遥に言われずとも感じていたことだ。けれど、まだそうと決まったわけではない以上、何もしないまま諦めたくはなかった。命の灯火が消えゆくのを見ているだけなどつらすぎる。だからといって、今の自分ではどうしようもないこともわかっている。開いたままの目から一筋の涙が伝った。
「すまない……」
 武蔵の謝罪が何に対してのものかはわからない。しかし、本当に謝罪すべきはむしろ自分の方だろう。今は一刻を争う状況なのだ。澪は決意を固めると、彼の手に火傷を負っていない方の手を重ね、遥と同じように目を閉じて気持ちを集中させた。
「よし……おまえらの力が伝わってくる……」
 体から力が抜けていくように感じるのは、魔導の力が吸い取られているからだろうか。隣の遥も僅かに眉を寄せている。今まで味わったことのない感覚ゆえに不安を覚えるが、生命の危機を感じるようなものでなく、立つのに支障をきたすほどのものでもない。
「これで封じ込められるんだよね?」
「いや、さすがにそれは無理だ」
 澪の期待を、武蔵はあっさりと一蹴する。
「だが、もちろん無駄なことをやってるわけじゃないぜ。この結界は間違いなく破られるだろうが、ここで幾分か威力を削いでおけば、国を守る結界の方は破られずにすむ…かもしれない。そっちまで破られたらおしまいだからな」
 この国を覆っている結界を破損させたうえ、そこからミサイルを撃ち込んで壊滅させる、というのが溝端たちの計画だということを思い出す。武蔵はその最悪の事態を防ごうとしているのだ。だが、彼の物言いからすると絶対の自信があるわけではないらしい。
 こちらが結界を補強している間に、メルローズの体は禍々しい光の渦にのまれて見えなくなった。
 澪の心に恐怖が湧き上がる。この結界を破られたら自分たちはどうなってしまうのだろうか。焼けただれた手のひらがじくじくと痛みを訴えている。うっすらとした光でさえこの威力だったのだ。眼前でうごめく光の渦が結界を破るのだとしたら、いくら武蔵が庇ってくれても無事で済むとは思えない。次第に足がガクガクと震えてきた。
「すまない、もう少しだけ耐えてくれ」
 澪の震えを感じてそう言ったのだろうが、彼自身がひどく苦しそうな声をしている。結界の方に力を使いすぎたのかもしれない。しかし、決して気を緩めてはいないようだ。彼と接する部分から緊張が伝わってきた。
 グワッ、という音がして、光が急激に膨れあがった。
 澪は思わずビクリと体を仰け反らせるが、すぐ後ろの武蔵にぶつかって受け止められた。同時に、彼は澪と遥を脇から抱えてくるりと真後ろに向くと、二人を降ろして突き飛ばすように背中を押す。
「振り返るな! 全力で走れ!!」
 そう言われたにもかかわらず、澪は振り返ったままオロオロとしていた。しかし、遥はそんな澪の手を引いて迷わず走り出す。すぐに後方から武蔵の足音も聞こえてきた。開かれた扉を超えてさらに進もうとすると、グォォオォォォ、と大気が震えるほどの轟音が響き出した。澪だけでなく遥もビクリと足を止めた、そのとき。
 ドドドォオオォオン――!!!
 鼓膜が破れたかと思うくらいの爆音とともに視界は真っ白に染まり、背後から強い衝撃を受けて吹き飛ばされる。爆風に揉まれて天地もわからなくなるほど体が回転し、全身に刺すような激痛を感じたかと思うと、受け身さえ取れないまま石の床に激しく叩きつけられた。
 考える間もなく、澪の意識はそこで途切れた――。


…これまでのお話は「東京ラビリンス」でご覧ください。

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