「ダメ……かな……?」
澪が上目遣いでおずおずと懇願のまなざしを送ると、誠一は渋い顔を見せながら、半分ほどコーヒーの入ったマグカップを口に運んだ。一息ついても返事をせずに考え込む。レースのカーテン越しに広がる柔らかな光が、白いシャツを着た誠一の背中を照らしていた。
澪が誠一の部屋へ来てから三日が過ぎていた。
朝はテーブルで向かい合って一緒に食事をとり、それから誠一を仕事に送り出し、日中はのんびりと洗濯をして、誠一が帰ってきたら一緒に夜ごはんを食べる、という日々を過ごしている。まるで新婚家庭みたいだと密かに思ったりもしたが、家事のほとんどは誠一に任せているので、そんなふうに考えるのは烏滸がましいかもしれない。今はまだ大切にされている客人でしかないだろう。
最初の日は遥がずっとそばに付き添っていてくれたが、翌日は様子を見に来たくらいで、きのうはもう大丈夫と判断したのか来ることさえなかった。代わりに、短い時間ではあるが涼風が遊びに来てくれた。彼女の持参した有名洋菓子店のケーキを食べながら、たわいもないお喋りをして楽しく過ごした。気を紛らわせるには彼女が一番の適任だと思う。
悠人とはまだ会っていないが、きのう彼の方から電話を掛けてきた。もうしばらくここにいてほしいという話のあと、言いづらそうに言葉を濁しながら様子を尋ねてきた。おおよそのことは遥から聞いていたようだが、澪が明るく答えると、幾分か安堵したように声が和らぐのがわかった。
そうやってまわりの人に支えられつつ平静を取り戻し、足の痛みもなくなってくると、武蔵やメルローズのことを思い出すようになってきた。彼女に対しては恐怖心を抱えていたはずだが、以前ほどではなくなっていることに気付く。
今なら、気負うことなく彼女に会える――。
そう考えて、武蔵の隠れ家へ行ってみようと思い立ったのだが、誠一がいい顔をしないだろうことは予想していた。しかし、だからといって簡単に引き下がるつもりもなかった。
「武蔵っていうか、メルローズに会いに行くんだけど……」
「でも、あいつもいるんだろう?」
誠一は苦虫を噛み潰したような顔でそう言うと、頬杖をついた。
「もちろん澪のことは信じてるけどな。武蔵の方はまだ諦めてなさそうだし、万が一……」
そこで言葉を詰まらせて眉を寄せる。おそらく先日のように襲われることを懸念しているのだろうが、武蔵は決して相手の意思を蔑ろにするような人間ではない。それに――。
「遥もメルローズもいるんだから大丈夫だよ」
「まあ……それは、そうだけど……」
いくらなんでも幼い子供の前で破廉恥な行いはしないだろう。彼がそこまで非常識でないことは誠一もわかっているはずだ。渋々ではあるが認める方向に傾いているのを感じ、澪はここぞとばかりに身を乗り出して催促する。
「行ってもいい?」
「……気をつけろよ」
「うん、ありがとう」
彼が折れてくれたことに安堵し、小さく吐息を落として感謝の言葉を口にした。しかし、誠一の表情にはいまだに不安と不満が見え隠れしている。それでも会うことを了承くれた彼の信頼に報いるために、何事もなく平穏無事に帰ってこなければと、澪は大きな責任を感じてあらためて気を引き締めた。
それほど昔のことでもないのに、随分と久しぶりのような気がする。
澪は鬱蒼とした緑に囲まれた一軒家を見上げて感慨に耽った。そこは武蔵に一ヶ月ほど拉致監禁されていた場所である。家の外観をまじまじと観察したのは初めてだが、木造の小さなロッジのような雰囲気で、まわりの風景にも違和感なく溶け込んで見える。ほとんど枯れ木しかなかったあの頃とは違い、瑞々しい新緑が芽吹き、雑多な草も生い茂り、生っぽい青草の匂いがあたりに漂っていた。
何段かある木の階段をのぼって玄関の前に立ち、チャイムを押した。が、壊れているのか鳴っている気配はない。扉を強めにノックしてみても無反応だ。どうしたのだろうと思いながらドアノブをまわすと、鍵がかかっていなかったようで、そのまま何の引っかかりもなく扉が開いた。正面には毎日のように歩いた廊下が延びており、右側がお手洗いと風呂場で、突き当たりが澪の繋がれていた広い部屋になっている。
「武蔵、入るよ……?」
声を掛けながら靴を脱いで廊下を進み、突き当たりの扉をそろりと開いた、その瞬間――。
ドォオォォオン!!!
轟音とともに目の眩むような白い光が襲いかかってきた。視界のすべてが白に呑み込まれるが、どういうわけか衝撃も痛みも感じない。反射的に床に倒れ込んで身を丸めていた澪は、あたりが静まると、扉の方におそるおそる怯えた瞳を向ける。
「澪?」
そこからひょっこりと顔を覗かせたのは武蔵だった。彼は驚いたように目を丸くしていたが、恐怖に染まった澪の表情を見ると、失敗したとばかりに大きく顔を歪ませる。
「悪かった。まさか澪が来るとは思ってなくてな……今、メルローズの魔導の訓練をやってたんだよ。部屋のまわりに結界を張ってたから当たってはない、よな?」
澪はこくりと頷くと、差し出された彼の大きな手をとり、少しふらつきながら立ち上がった。いまだに心臓がバクバクと暴れている。大袈裟でなく本気で死んだかと思った。実際、美咲はあの光に呑み込まれたせいで、右腕だけを残して跡形なく消え去ったのだから。
「大丈夫か?」
「う、ん……」
気分的にはあまり良くないがそう首肯する。武蔵に促されて部屋の中に足を進めると、その中央に立っているメルローズが目に入った。黒地にピンクのラインが入った子供用ジャージを身につけ、緩くウェーブの掛かった灰赤色の長髪を後ろでひとつに束ねている。大きな魔導の力を放出したばかりのためか、少し息を荒くしながら、火照った顔にうっすらと汗を滲ませていた。
「まだちゃんと紹介してなかったよな」
武蔵はそう言いながら、澪とメルローズを向かい合わせにする。
「この子はメルローズ=パーカー、俺の姉さんの娘だ。年齢は8歳、9歳くらいだと思う。日本語の理解力はそれなりにあるようだが、喋る方はまだ苦手みたいだな。昔は人懐っこくてよく喋る子だったんだが……」
メルローズは鳶色の瞳でじっと澪を見つめていた。未就学児と言っても不自然でないくらい体が小さく、表情も無垢で、実年齢よりもずっと幼いように見える。長期にわたる監禁のせいで成長が阻害されたのだろうか。そう思うと、彼女を直視することができずにそっと目を逸らした。
武蔵は腰を屈めて小さなメルローズを覗き込み、向かいの澪を片手で示す。
「こっちは橘澪、俺の娘だ。遥と双子なんだよ。そっくりだろう?」
そう言うと、メルローズは目をキラキラさせて大きく頷いた。
武蔵は二人の手をとり半ば強引に握手をさせる。メルローズの手は小さくて柔らかくて温かかった。あんなに恐ろしい力を持っているなんて嘘みたいに感じる。ふと彼女にニコッと笑いかけられたことに気付くと、澪も若干ぎこちなくではあるが友好的に微笑み返した。
三人はダイニングの方で一息入れることにした。
武蔵はかいがいしくメルローズの汗を拭き、椅子に座らせ、オレンジジュースをグラスに入れて運んできた。あまり自分からは喋らない彼女に、何かにつけて優しく話しかけている。やはり面倒見はいいようだ。二人きりで暮らしていても心配無用だとあらためて思う。
「紅茶でいいか?」
「うん」
澪はそう答えて、テーブルに頬杖をついたままあたりをぼんやりと見回した。澪がいた頃と何も変わっていないように見える。多少の生活感を感じさせるきれいに片付けられた台所も、ほとんど物の置かれていないがらんとした部屋も、澪が手錠で繋がれていた細い金属製のポールも、いま座っているダイニングテーブルの指定席も、まるで時が止まったかのようにそのままだった。
「どうした?」
そう言いながら、武蔵が淹れたての紅茶を二つ運んできた。ひとつを澪に差し出し、もう一つを手前に置き、彼の指定席になっていた澪の正面に座る。ただ、あの頃と違って彼の隣にはメルローズがいた。
澪は目を細め、白い湯気のゆらめく紅茶に手を伸ばした。
「何か、ちょっと懐かしい」
「そうだな……」
武蔵はふっと小さく微笑んでティーカップを口に運ぶ。遠い目をして何かに思いを馳せているようだ。それが何かはわからないし訊くつもりもない。ただ、茶化されるのではないかと思っていただけに、その反応は少し嬉しかった。
紅茶を飲み終わると、武蔵はメルローズに瞑想するよう言い置いて、少し外を歩かないかと澪を誘った。メルローズに聞かせたくない話があるのかもしれない。そう考えて、澪はあえて理由を尋ねることなくついていった。
木々の隙間から、幾筋もの光が射し込んでいる。
澪は隠れ家から少し離れた林道を歩きながら、隣の武蔵にちらりと視線を送った。ここまでずっと無言で歩き続けているが、ただ散歩するだけのつもりなのだろうか。怪訝に思っていると、ようやく彼は少し緊張ぎみの声で切り出した。
「メルローズな」
「……うん」
澪は次第に鼓動が速くなるのを感じた。やや間をおいて話が続く。
「小笠原でのことはまったく覚えていないらしい。溝端に連れて行かれたことも、橘美咲が撃たれたことも、魔導が暴発したことも、きれいさっぱり記憶が抜け落ちている。美咲はどこ、会いたい、って無邪気に言ってくるからきつかった」
武蔵は苦しげに声を落とした。
澪は後ろで手を組んでそっと振り向く。
「それで……?」
「気は進まなかったが、いつまでも隠し通せるものでもないし、橘美咲が死んだという事実だけは教えておいた。二度と会えないことがわかると泣きじゃくったが、どうにか受け入れてくれたみたいだ」
そっか、と安堵の息をついたが、話はまだ終わっていなかった。
「だからな……おまえに頼むのも残酷な話だと思うが、小笠原での具体的な話は避けてくれないか。自分が起こした暴発で橘美咲の体が消し飛んだなんて、メルローズには知られたくない。あの子はまだほんの小さな子供なんだ」
「うん、わかってる」
もとより彼女を傷つけるつもりはない。遥が言ったように、美咲が亡くなったのはある意味で自業自得であり、メルローズはむしろ実験体にされた被害者なのだ。故意に撃った溝端ならともかく、実験のために暴発した彼女を恨むのは筋違いである。
武蔵はうつむいて視線を落としたまま、僅かに目を細めた。
「感謝する……勝手ばかり言うが、メルローズと仲良くしてくれるとありがたい」
「うん、私も仲良くできたらいいなって思ってる。身内になるんだもんね」
メルローズの魔導力に恐怖心を持っていたし、今でも完全に払拭できたとは云えないが、それでも仲良くしたいという気持ちに嘘はない。そう思っているからこそ、わざわざ誠一に許可をもらってここまで来たのである。
「魔導の制御の方はうまくいきそう?」
「ああ、そっちは何の問題もない」
先ほどまでの神妙さはどこへいったのか、武蔵は急に得意気になった。
「ラグランジェの血を引いてるだけあって才能がある。俺の見込み以上だった。サイファさんはそのことも見抜いてたんだろうな。まだ魔導を自在に使えるまでには至っていないが、とりあえず安定はしてきたし、近いうちに暴発の心配もなくなると思う」
「へぇ、すごい……」
そんな段階まで進んでいるとは思いもしなかった。彼も予想外に上手くいって驚いているのだろう。言葉の端々から隠しきれない興奮が窺えた。教えるのは苦手などと言っていたが、そうとは思えないくらい楽しんでいるように見える。
「澪もやってみるか?」
「えっ? 私には無理だよ」
思いがけない提案に驚き、澪は右手をふるふると横に振る。
武蔵は横目を流したままニッと口の端を上げた。
「おまえも名門ラグランジェ家の血を引いてるんだぞ。魔導の力はそれなりに持ってるんだから、単純に放出するだけなら難しくないはずだぜ。遥にも教えてるが、筋は悪くないしそのうち使えるようになるだろうな」
「遥が……?」
澪は考え込みながら顔をうつむける。興味はあるが、やはり自分にあの強大な力を扱えるとは思えない。見るだけでも恐怖心がよみがえるというのに。しかし、率直にそんな理由を言ってしまえば、武蔵に余計な心配を掛けることになるだろう。
「じゃあ、いつか気が向いたらね」
「魔導を使えて損はないけどな」
武蔵はそう言い、降りそそぐ光を仰いで目を細める。
「いざというとき護身術としても役立つし……もう少し早く教えておけば……」
ドクン、と澪の心臓は大きく跳ねた。
ザッと音を立てて足を止めると、続いて武蔵も足を止める。草を踏みしめながらゆっくりと振り返ったその顔は、怖いくらい真剣で、同時に何か言いたいことを堪えているようにも見えた。もしかして――喉がカラカラになるのを感じながら、ゆっくりと口を開く。
「……知ってるの?」
「会長秘書に聞いた」
「そう……」
澪は小さく吐息を落とし、足元を見つめて薄く自嘲の笑みを浮かべた。
「17年も積み重ねたのに、壊れるのはあっというまだね」
「これで踏ん切りがついただろう。あいつは父親じゃない」
「ん……」
不意に泣きたくなり、手の甲を口もとに当てて目をつむると、小さく鼻をすすりながら顔をそむけた。滲んだ涙が溢れないように、ゆっくりと呼吸を繰り返しながら気持ちを整えていく。ひんやりとした風が頬をかすめ、長い黒髪がさらさらとそよいだ。
「俺じゃ、駄目か?」
静かに落とされたどこか思い詰めたような声。振り向くと、鮮やかな青の瞳がまっすぐに澪を捉えていた。
「何が?」
「父親」
武蔵に冗談めかした感じはなかった。澪は濡れた目をぱちくりさせる。
「急に、どうして……?」
「放っておけないんだよ。もちろん戸籍上のことはどうしようもないし、実際に父親だとしゃしゃり出ることはないが、気持ちの拠り所になれるのならと思ってな。正直いって今のところ自覚はほとんどないが、そう思えるように、思ってもらえるように、出来る限りの努力はしていくつもりだ」
別に彼に父親を求めていたわけではなかったが、身内として思ってくれる気持ちが嬉しかった。胸がキュッと締め付けられてあたたかくなる。先ほどとは別の意味でまた少し泣きたくなった。思わず潤んでしまった目元を拭いながら、明るい笑顔を見せて言う。
「遥の父親にもなってあげてね」
「あいつの方が嫌がりそうだけどな」
武蔵は両手を腰に当てて苦笑する。思いきり嫌そうな顔をする遥がありありと目に浮かび、澪もつられるように笑った。
「あれ、そういえば遥はどこ? いなかったよね?」
今になって初めて彼がいないことに気付いた。ここに来ることを言っていなかったので、もしかすると行き違いになったのかもしれない。電話をしておけば良かったと軽く後悔していると、武蔵は不思議そうな顔をして尋ね返してきた。
「聞いてないのか?」
「何を?」
「小笠原へ行くって」
「……え?」
澪は目を見開き、息をすることさえ忘れてしまったように凍りついた。彼の目的が何なのか、誰と行くのか、どこへ行くのか、頭の中が真っ白になり何も考えられない。上空でさえずる鳥の鳴き声だけがやけに大きく聞こえた。
…これまでのお話は「東京ラビリンス」でご覧ください。
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