瑞原唯子のひとりごと

「東京ラビリンス」番外編・家族旅行

「はぁ……遥……気持ちいいな……」
「ん……」
 武蔵がうっすらと目を開けて視界に遥を捉えると、彼は白くなめらかな肌をほんのり上気させながら、目を閉じて感じ入ったように小さく息をついていた。首筋を流れる水滴が妙に艶めかしく感じる。膝の上にはさらに肌を上気させたメルローズが座り、小さな手で透明な湯をパシャパシャと跳ねさせて遊んでいた。
 ここは旅館の客室についている天然温泉の露天風呂である。
 露天といっても客室の一部として作られたもので、両側には壁があり、屋根もついていて、開放されているのは一面だけである。最上階にあるのでまず覗かれる心配はないだろう。総檜造りの風呂は三人が入っても十分に余裕がある広さだ。視界一面に広がる青空や山の景色を眺めながら、ほどよくひんやりとした風を感じながら、ゆったりと温泉につかるのはとても心地がいい。
「こんな広い露天風呂が付いた部屋なんて、贅沢だよな」
「部屋付きのじゃないとメルと一緒に入れないしね」
 まだ幼く言葉もあやふやなメルローズを一人で行かせるのは心許ない。だからといって男性側の大浴場に入れるのも不安がある。単なる贅沢ではなくそこまで考えて露天風呂付きの部屋をとったのだろう。さすがというか抜かりがない。
 旅行に行こうと言い出したのも、計画を立てて準備をしたのも、すべて遥だ。
 温泉でゆっくり骨休めしたいからと言っていたが、武蔵とメルローズを誘ったということは、メルローズとの親睦を深める目的もあるのだろう。いまは橘と武蔵の家を行ったり来たりしている彼女だが、いずれ橘の養子になることが決まっている。それゆえ遥はあれこれ心を砕いてくれているのだ。
「いろいろと悪いな」
「家族だからね」
 遥はぼんやりと空を仰いだまま当たり前のように答えた。何だかんだ言いつつ、メルローズのことも武蔵のことも家族として認識している。そのことがすこしくすぐったい。武蔵はふっと吐息を落として曖昧に口もとを上げた。
「そういや、澪は?」
「誠一と新婚旅行中」
「…………」
 まだ一緒には住んでいないが、先日、婚姻届を提出して正式に夫婦になったらしい。紛うことなき新婚だ。わかっている。わかってはいるが、その現実を突きつけられるとやはり面白くない。何を言うつもりはなくてもつい態度に出てしまう。
 そんな武蔵に、隣から無言で呆れたようなまなざしが向けられる。だが気付かないふりをして檜風呂の縁に肘を置き、ふうと大きく息を吐きながらもたれかかると、白い筋状の雲がかかる穏やかな青空を仰ぎ見た。

「遥、あつい……もう出たい」
「ん、わかった」
 遥は顔を火照らせて振り返ったメルローズにそう応じると、待っててと武蔵に言い置き、膝に乗っていた彼女の脇をかかえて檜風呂を出た。脱衣所で体を拭いたり服を着せたりしているのだろう。しばらく扉の向こうから二人の声が聞こえていたが、やがて遥が一人で戻ってきた。タオルも手にせず、全裸のまま姿勢よくスタスタと歩いている。
「メルローズひとりで大丈夫か?」
「テレビ見てるってさ」
 日本語を覚えるためにも、暇なときはテレビを見ることにしているようだ。もちろん勉強もさせている。そのうち本も難なく読めるようになるだろう。頭のいい姉の血を引いているだけあって飲み込みは早い。
 ちゃぽん――。
 遥は檜風呂の縁をまたいで透明な湯にゆっくりと体を沈めると、ふうと気持ちよさそうに息をついた。しかし隣から送られる不躾な視線に気付いたのか、じとりと横目を流し、怪訝に眉をひそめて小さな口をとがらせる。
「何? さっきからずっと僕を見てたよね?」
「いや……前、隠さないんだなと思ってさ」
「男しかいないのに隠す必要ある?」
「……おまえ、ときどき無駄に男前だな」
「無駄って失礼だね」
 そう言うと、視線を落として襟足まで湯に沈んだ。
「中学生の修学旅行で大浴場に入ったとき、一部の男子に変な目で見られてさ。多分、澪と顔がそっくりだったからだと思うけど、すぐ隣で顔を赤くして生唾を飲まれたのは、鳥肌が立つくらい気持ち悪かった。だからそれ以来あえて隠さないことにしてる」
「あー……そりゃあ……」
 今でも体つきはほっそりとしていて、骨張っても筋張ってもおらず、肌も驚くほど白くなめらかで、どう見ても男性的とは言いがたい。中学生のころならなおさらだろう。顔が澪と似ていることも差し引いても、思春期の少年には目の毒かもしれないと思う。生唾を飲んだ同級生の気持ちもわからなくはない。
「武蔵も僕に澪を重ねて見たりしないでよね」
「バッ……妄想童貞少年と一緒にするな!」
 澪の体はもう隅から隅まで見ているし、今さら遥に重ねるなんてことはしないが、同級生に若干共感したところだったので、いささか慌ててしまった。それをどう解釈したのか、遥は胡乱げなまなざしをよこして溜息をついた。
「いいかげん澪のことあきらめたら?」
 その呆れたような口調に思わずムッとする。
 澪にもはっきりと断られているのでもうとっくにあきらめている。血の繋がった父親だという事実がある以上、彼女が受け入れてくれることは万が一にもありえない。わかっていても、好きだという気持ちはそう簡単に整理がつかないのだ。胸の内で嘆息して、隣でくつろいでいる彼の横顔をちらりと窺う。
「おまえさ、好きな子いないの?」
「いないし、いたこともない」
 彼は前を向いたまま平然と答えると、すこしうざったそうに溜息をつきながら空を見上げた。嘘をついているわけではないだろう。他人に対する興味の薄さは前々から感じていたし、何となくそうではないかという気はしていた。だからこそ心配になる。
「結婚はどうするんだ? 橘の跡取り息子ならしないわけにはいかないだろう?」
「自分で言うのも何だけど、僕、条件はいいからね。相手は見つかるよ」
 高校生とは思えない醒めた物言い。
 有り余るほどの財を持つ橘の御曹司で、男性らしさには欠けるが見目も良く、頭脳も良く、将来は後継者として期待されているとなれば、確かに見合い相手には不自由しないだろう。けれど――。
「おまえはそれでいいのか?」
「良いも悪いも他にないよね」
 そう言われてしまうと返す言葉が見つからない。人を好きになるなど努力して実現できることではないだろう。もちろん見合いで結婚するのが一概に悪いわけではない。ただ、好きでもない相手と夫婦としてやっていけるのか心配なのだ。
 武蔵の両親がまさしくその失敗例だった。双方とも命じられるまま愛情もなく結婚したためか、夫婦仲は冷えきっていた。ひどく歪んでしまった母親に、知りながら放置する父親。そうなっては子供まで不幸にしてしまう。
 恋愛結婚でなくても幸せな家庭を築いている人は大勢いるが、それは相手に愛情を持つことができたからだろう。誰ひとり好きになったことのない遥には、さすがに難しいのではないかと思う。
「いつか誰かを好きになれるといいんだけどな」
「澪を見てると面倒くさいとしか思えない」
 面倒の一端を担った武蔵としては、苦笑するしかない。
 だが、恋愛は往々にして面倒くさいことが起こるものだ。遥の持っているイメージはあながち間違いとはいえない。だからといってそれだけではない。とはいえ、いくら言葉を尽くしたところで伝わりはしないだろう。やはり実際に経験してみないとわからないのである。
 ねぇ、と呼ばれて振り向くと、遥がジャバッと湯を掻き分けながら身を乗り出してきた。彼の長くはない髪の毛がさらりと武蔵の肩をかすめる。
「武蔵はさ、澪のどこが好きなわけ? 顔? 体?」
「……おまえ、さらっとすごいこと言うな」
 澪とそっくりな漆黒の瞳にじっと見つめられ、なんとなく居たたまれず逃げるように目をそらす。しかし、彼はさらに顔を近づけて詰め寄りながら、どうなの? と答えをせっついてきた。
「まあ、そりゃ顔も好きだし、体も好きだけど……いやほんとめちゃくちゃ良かったんだよな……まだあんまり慣れてなくて知識もなかったけど、素直でいろいろ教えがいもあったし、ああ見えて意外と快楽に貪欲で……」
 そこまで言うと、ふいに遥のひどく嫌そうな顔が目について我にかえった。家族である遥に聞かせる話ではない。ごまかすようにコホンとわざとらしく咳払いをして、居住まいを正す。
「でもそれだけじゃないぞ。あんま表裏がなさそうなところとか、無邪気っていうか能天気なところとか、そのくせ心配性なところとか、ちょっとバカで抜けてるところとか……とにかく一緒にいて楽しいってのがいちばんだな」
「ふぅん」
 納得したようなしていないような微妙な声音。何か考えているようだが、何を考えているのかはわからない。ジャブ、と彼は体を引いて檜風呂にもたれかかり、ふうと細く息を吐きながら空を仰いだ。
「難しいね」
「……かもな」
 もしかしたら彼なりに気にしているのかもしれない。誰も好きになれない醒めた自分のことを。だが、遥の心の問題なので武蔵にはどうすることもできない。いつか彼が誰かを好きになる日がくることを祈るだけだ。
 ぽん、と無言で彼の頭に濡れた手を置く。
 彼は一瞬だけ眉をひそめたが、文句を言うことも払いのけることもなく、すこしきまり悪そうに視線を落としてうつむいた。そのとき、彼に対してわずかに保護者めいた気持ちが湧き上がった。

「わぁ、すごい! 誠一っ!!」
 ふいにどこからかはしゃいだ声が聞こえてきた。地上ほど遠くはない。考えられるのは他の部屋の露天風呂くらいだ。それなりに壁で遮られているにもかかわらず、これほどはっきりと聞こえたということは、よほど大きな声を張り上げていたに違いない。
 武蔵はわずかに顔を引きつらせながら、隣の遥と目を見合わせる。
「ものすごく聞き覚えのある声だな」
「誠一、とか聞こえたね……」
 遥は疲れたように大きく溜息をついた。こころなしか遠い目をしている。この反応からすると彼も知らなかったようだ。
「そういえば澪も温泉にしたとか言ってたっけ」
「俺らがここに泊まることは知ってたのか?」
「さあ、僕は旅館の名前まで教えてないけどね」
 澪はあれこれ事細かに画策するような性格ではないはずだ。だからといって誠一があえて武蔵のいる宿を選ぶとはとても思えない。二人以外の誰かの仕業だろうか。もし本当にただの偶然なら奇跡のような確率である。
 骨休めに来た旅先で、好きな女の新婚旅行に鉢合わせるなんて、あまりの仕打ちに乾いた笑いしか出ない。けれど、澪の浴衣姿を見られるのなら悪くないかもしれない。そう考えるとすこし気持ちが浮上してきた。
「夜這いはさせないよ」
「は?!」
 驚いて振り向くと、遥が疑わしげにじとりと横目を流していた。
 もちろん武蔵にそんなつもりは微塵もなかった。たとえ浴衣姿に欲情したとしても行動には移さない。もうあきらめたと何度も言ったはずなのに、一向に信じようとしない彼に、そろそろ本気で腹が立ってきた。
「おまえ、俺を何だと思ってんだよッ!」
 その言葉と同時に、遥の頭を真上から勢いよく押し込んだ。
 さすがの彼も虚をつかれて一瞬で湯に沈み込む。あわててバシャバシャと武蔵の手を払いのけると、プハッと湯の中から顔を出した。頭のてっぺんまでずぶ濡れになり、派手に湯を滴らせながら思いきり武蔵を睨めつけてくる。
 その姿に溜飲を下げてニッと笑みを浮かべたが、遥はすかさず反撃に出た。素早く腕を掴み、脚を蹴ってバランスが崩れたところを湯の中に引き倒す。武蔵はあわてて手を振りほどき、鼻から入った湯にゲホッとむせながら体を起こした。
「これでおあいこだね」
 同じように頭までずぶ濡れになった武蔵を見て、遥が満足そうに口もとを上げる。しかし武蔵のこめかみには青筋が立っていた。
「テメェ……」
 ザバンと豪快に湯から立ち上がり無言で遥を見下ろす。その迫力に気おされてかじりじりと後ずさり始めた彼に、両手をわきわきさせつつにじり寄ると、水しぶきを上げながら容赦なく襲いかかっていった。

「気持ちいいねー」
「あぁ……」
 澪と誠一は檜風呂の熱いくらいの温泉に並んでつかり、眼前に広がる空と山の景色を眺めながら、両脚を伸ばしてゆったりとくつろいでいた。
 澪は長い黒髪を上の方でまとめ、湯につからないようにしている。あらわになった襟足や首筋、横顔、胸元などを、誠一がちらちらと盗み見ていたが、その視線に彼女が気付く様子はない。
「温泉旅館にしてよかったね」
「ん、ああ……直近だったのによくこんなところの予約とれたな」
「師匠にとってもらっちゃった。ここ、多少無理がきくんだって」
 澪は無邪気にそう言ったあと、ふと何かに気付いたようにぱちくりと目を瞬かせた。反対側にちらりと振り向き、見えない壁の向こうに意識を向けて小首を傾げる。
「ねぇ、隣、なんかすごい水音してない?」
「……子供が遊んでるんじゃないかな」
「そっか」
 あっさり納得する澪の隣で、誠一はわずかに顔を赤らめて目を泳がせていた。何か言いたそうにしながらも言えず、何か行動したそうにしながらもできず、そわそわと落ち着きのない様子を見せている。そんな彼に、澪はいたずらっぽい笑みを浮かべて振り向いた。
「ね、私たちもしちゃう?」
「えっ……は?!」
「お湯を掛け合ったりとか」
「あ……いや、疲れるし……」
「そっか、そうだよね」
 疲れをとるための温泉だもんね、と澪は笑って肩をすくめた。
 誠一は澪とは反対側の縁に倒れ込みながらぐったりともたれかかり、はあと大きく息をついた。その顔はゆでだこのように真っ赤になっている。まるで湯あたりをしてのぼせたかのように。

 誠一がとんでもない思い違いをしていたことを知り、元凶のふたりに八つ当たりしたい気持ちになるのは、もうすこしあとの話――。


…本編・他の番外編・これまでのお話は「東京ラビリンス」でご覧ください。

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