瑞原唯子のひとりごと

「東京ラビリンス」番外編・いつか恋になる - 思いがけない少女

 ガシャッ――。
 南野誠一はさきほど殴られた左腕に痛みを感じながらも、先輩の岩松警部補が地面に取り押さえた男の両手首に、ひとつずつ確実に手錠をかけた。暴れていた男の体からようやく力が抜ける。
「3月21日14時18分、公務執行妨害の現行犯で逮捕だ」
 岩松警部補が乱暴に男の細腕を掴んで立たせ、腕時計を見ながら言う。
「濡れ衣だ! 俺はやってねぇ!」
「話は取り調べのときにな」
 そっけなく受け流しつつも油断する様子は微塵もない。決して逃がさないとばかりにがっちりと腕を掴み、体を寄せて塀に押しつけ、いくつもあるブルゾンのポケットを探り始める。武器になるようなものがないか確認しているのだ。ただでさえ屈強な体躯の岩松警部補にそこまでされては、手錠をかけられた細身の男にもはや逃げるすべはないだろう。

 この男は、数年前の殺人事件で指名手配されていた容疑者である。
 別件で岩松警部補とともに聞き込みにまわっていた誠一が、通りかかったコンビニ店内にいたこの男に気付き、尾行して寂れた路地裏に入ったところで声をかけた。その途端に誠一を殴り飛ばして逃走しようとした男を、岩松警部補が取り押さえ、とりあえず公務執行妨害の現行犯で逮捕した――というのが事の次第だ。
 誠一は子供のころから映像や画像を記憶するのを得意としていた。文字や図形は駄目だが、顔や服装は一目で細かいところまで覚えられるのだ。警察官になってからは特別指名手配犯の顔をすべて頭に叩き込んだ。それが六年目にして初めて役に立ったのだから、自覚はなかったが浮かれていたのかもしれない。

 トゥルルルルル、トゥルルルルル――。
 ふいに岩松警部補の携帯電話が鳴った。まだブルゾンのポケットを探っている途中だったが、男を誠一に預けると、背を向けてその場から離れながら電話に出る。相手はどうやら捜査一課長のようだ。聞き込みの件に加え、指名手配の男を現行犯逮捕したことも報告している。
 誠一は岩松警部補の方に若干気を取られながらも、男の腕を押さえつけてポケットを探ろうとする。ブルゾンはほぼ岩松警部補が確認したはずなので、前屈みになってジーンズに手を伸ばした。自覚はなかったがあまりにも軽率に。そのとき――。
 ドゴッ!!
 突如下腹を蹴りつけられて後ろに吹っ飛び、とっさに受け身を取りながら地面に倒れ込んだ。アスファルトの上で下腹を押さえながら背中を丸め、くぐもった呻き声を上げる。
「南野?! おい待てコラッ!!!」
 岩松警部補はすぐさまこの事態に気付いてくれた。倒れた誠一には駆け寄らず、ためらうことなく逃走する男の方を追う。当然だ。刑事としてこんな危ない男を逃がすわけにはいかない。誠一も痛みに顔をゆがめつつあとを追って駆け出した。
 足は岩松警部補より誠一の方が速い。いつしか先行していた彼を追い越し、男との距離も徐々に縮まっていく。手錠をかけられたままでは走りづらいのだろう。再び取り押さえられるのも時間の問題と思われた。しかし――通りに出ると、男はジーンズのポケットからナイフを取り出して振りかざした。
「チキショーッ!!!」
 前方を歩いていた黒髪の少女に狙いを定めたように、両手でナイフを振り上げたまま突進していく。むきだしの刃がキラリと光った。
「逃げろーーーっ!!」
 誠一があらん限りの声で叫ぶと、ナイフに気付いた周囲の人々から悲鳴が上がり、振り向いた少女は声もなく目を見開いた。足が竦んだのか逃げる気配はない。男はすぐ目前まで迫っていた。もう間に合わない――視界が絶望に塗りつぶされるかと思った、その瞬間。
 ズドン!!
 男の体が宙を一回転して背中から地面に叩きつけられた。少女が腕を取って投げたのだ。すぐさま手首を叩いてナイフを落とし、それを素早く蹴り飛ばして男から遠ざける。瞬く間の出来事だった。そのあまりにも鮮やかな一連の行動に、誠一は唖然として思わず足を止めてしまう。
「え、何なの?」
 少女は男の喉元を押さえて組み敷いたまま、両手を繋ぐ手錠を見て困惑する。
 誠一はハッと我にかえり弾かれたように駆け出した。
「すみません! 大丈夫ですか?!」
 少女のまえに勢いよくひざまずいて顔を覗き込むと、彼女はすこし驚いた様子でこくりと頷いた。遅れて来た岩松警部補は息をきらせつつ警察手帳を見せ、少女に礼を言いながら男の身柄を引き受ける。男は意識こそ失っていないものの、ぐったりとして立つのが精一杯という感じだ。抵抗する力はもう残っていないだろう。

 しばらくして、応援に来た警察官たちに男を連行してもらった。静かに遠ざかるパトカーを見てほっと一息つく。まわりの野次馬もすぐに霧散するように消えていった。
「それじゃあ、私、もう行きますね」
「待ってください」
 誠一があわてて呼び止めると、帰ろうとしていた少女はきょとんと小首を傾げる。長い黒髪がさらりと揺れた。
「すみません、調書の作成にご協力いただきたいのですが」
「それって何をすればいいんですか?」
「警視庁の方で事件について話を聞かせていただければと」
「警視庁?! 今から行くんですか?」
「都合がつかないようでしたら後日でも構いませんが」
「今からで大丈夫です」
 彼女は笑顔でそう答えてくれた。
 こちらの失態で危険な目に遭わせたうえ、さらに時間を取らせるなど心苦しく思う。だが、それでも調書の作成には協力してもらわなければならないし、おそらく未成年であろう彼女の保護者にも連絡しなければならない。
「本当に申し訳ありません」
「そんなに気にしないでください」
 本来はこちらが気遣わなければならないのに、年若い少女に逆に気遣われるなど、大人としてどうなのかと情けなくなる。しかしながら、今の誠一には謝罪以外にできることは何もなかった。

 彼女には、誠一の運転する車で警視庁まで来てもらった。
 空いている会議室に通していちばん奥の席を勧め、その斜め向かいに岩松警部補と誠一が座る。数席離れたところには生活安全課の女性警察官もいる。対象が女性なので念のため同席してもらったのだ。調書のための聞き取りは誠一と岩松警部補が行うことになっている。
「じゃあ、まず名前を教えてくれるかい?」
「橘です」
 岩松警部補が尋ねると、彼女は凛とした声で名乗って学生証を差し出した。それは、誠一でも名前を知っている有名な学校のものだった。中等部とあるので中学生だろうか。今より若干あどけない顔写真の横には「橘 澪」と氏名が書いてある。
「タチバナ……ミオ、ちゃん?」
「レイって読みます」
 彼女は岩松警部補の読み方をそう訂正し、よく間違われますけど、と言いそえて軽く肩をすくめる。確かに「澪」はミオと読むのが一般的かもしれない。だがレイと読んでももちろん当て字ではない。岩松警部補もふむと頷く。
「なるほどレイちゃんか、いい名前だな」
「私も気に入ってます」
 彼女は嬉しそうにそう言い、エヘッと笑った。
 現場でも思ったが、あらためてじっくり観察してみてもやはりかわいい。まず顔が驚くほど小さい。肌は透けるように白くすべらかで、ぱっちりとした目は漆黒の瞳が印象的、鼻は小ぶりながらすっと筋が通っており、小さな薄紅色の唇はやわらかそうに見える。背中の中ほどまである黒髪は絹のように艶やかだ。身長は成人女性の平均よりやや高いくらいだろうか。頭は小さく、手足は長く、細身ですらりとしている。といってもファッションモデルのようなギスギスした痩せ方ではなく、全体的にしなやかで適度にやわらかそうな感じさえする。
 ひとことでいえば美少女だ。それもテレビや雑誌でさえめったにお目にかかれないレベルの。こんな子が、まさかナイフで襲いくる男を冷静に投げて取り押さえるなど、この目で見なければとても信じられなかっただろう。
「中等部ってことは中学生? 年はいくつ?」
「15歳です。中学はこのまえ卒業しました」
「じゃあ、四月からは高校生になるんだ?」
「はい!」
 黙ってすました顔をしていればもっと年上に見えるかもしれないが、素直な表情や口調はやはり年相応の中学生といった感じだ。それまで黙って岩松警部補に任せていた誠一は、話が途切れたところを見計らい、用意していた紙と鉛筆を彼女の方へ差し出した。
「澪ちゃん、これに住所、氏名、電話番号を書いてくれる?」
「はい」
 岩松警部補につられて「澪ちゃん」と呼んでしまったが、彼女は特に気にする様子もなく鉛筆をとった。しばらく黙々と記入したあと紙と鉛筆をまとめて誠一に戻す。そこにはくせのない読みやすい字で、住所、氏名、電話番号がきちんと書かれていた。
「ありがとう、ご両親に連絡したいんだけど家にいるかな?」
「えっ、どうして?」
「澪ちゃんを巻き込んだことを説明する義務があるんだよ」
 彼女の顔が曇った。まるで両親に連絡されることに不都合があるかのように。しばらく逡巡すると、ふっと何かあきらめたような曖昧な微笑を浮かべて口をひらく。
「両親はほとんど家に帰ってきません」
「お仕事?」
「はい。でも家には執事の櫻井がいるので、電話して事情を話してもらえれば、両親か祖父に話がいくと思います。本当はこのくらいのことでお父さまやお母さまの仕事を邪魔したくないんですけど、義務なら仕方ないですもんね」
 ――執事?
 その非日常的な単語にそこはかとなく嫌な予感が湧き上がる。岩松警部補も同じ気持ちだったのだろう。ちらりと物言いたげな視線を誠一に向けると、すぐに住所の書かれた紙を手にとり立ち上がった。
「南野、おまえは澪ちゃんから事件の話を聞いといてくれ」
「はい」
 ちょっと待っててな、と彼女の頭にぽんと大きな手を置いてそう言い、岩松警部補は静まりかえった会議室をあとにする。何でもないふうをよそおっているが、おそらく内心は動揺していることだろう。誠一と同じように――。

 事件の話といっても、一瞬の出来事だったので彼女から聞けることはそう多くない。
 一通り聞き終わると、人なつこい彼女に誘導されて何となく雑談の流れになった。彼女は刑事や警察のことに興味があるらしく、刑事ドラマでの描写は本当なのか、どうやって捜査して逮捕するのか、事件のないときは何をしているのかなど、目を輝かせてあれやこれやと尋ねてきた。答えられる範囲のことは答えたが、離れたところに座っている女性警察官のあきれたような咎めるような視線が痛い。はしゃぐ女子中学生に笑顔で応じたのがいけなかったのだろうか。別に浮かれているわけでも下心があるわけでもないんだけどな、と胸の内で独りごちる。
 そのとき、カチャッと扉が開いて岩松警部補が顔を覗かせた。彼は会議室には入ってこず、無言のまま戸口で顎をしゃくって誠一を呼びつける。誠一は緊張しながらも顔には出さずに立ち上がり、すこし待っててねと彼女に言い置くと、女性警察官にあとを頼んで会議室を出た。
「あの子、どえらいところの御令嬢だったぞ」
 人通りのない会議室前の廊下で、岩松警部補は疲れたように小さく吐息を落とし、くしゃりと頭をかきながらそう前置きした。予想していたことなので驚きはしなかったが、やはり緊張は高まる。固唾をのむ誠一に、彼はちらりと視線を流して静かに口をひらいた。
「彼女の祖父は橘財閥会長の橘剛三氏、母親は天才科学者の橘美咲女史だ」
「…………」
 想像をはるかに超える名前に、声も出ない。
 橘剛三は、その方面に疎い誠一でも名前を知っている財界の大物である。警察庁の幹部と懇意にしているとも聞いている。そして、橘美咲は次期ノーベル賞候補と噂されているほどの人物だ。研究者としては異例の若さで成果を上げている。橘剛三の娘ということもあり大きな話題になっていた。
 もちろん逮捕した犯人に逃げられるなど大失態であり、そのせいで少女を危険にさらしたのも事実なので、相応の処分を受ける覚悟はしていた。しかし、もはや相応の処分ではすまない事態になってきた――誠一は顔をこわばらせてうつむく。その頬にはついと一筋の汗が伝った。


…本編・他の番外編・これまでのお話は「東京ラビリンス」でご覧ください。

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