「ふざけんな!」
七海は新鮮な空気を吸い込むと、トランクを開けて真上から覗き込んできた男に思いきり食ってかかった。顔に陰が落ちているので表情まではよくわからないが、うっすらと不敵な笑みを浮かべているように見える。その背後にはどんよりとした鈍色の空が広がっていた。
おそらく目的地の近くに着いたのだろう。
誘拐犯のところに連れて行ってくれるというので頼んだら、手足を縛られたまま車のトランクに放り込まれ、ひたすら二時間ほど走ってここまで連れてこられたのだ。手厚くもてなされることを期待していたわけではないが、まさかこんな非人間的な仕打ちを受けるとは思わなかった。
トランク内には一応やわらかい毛布が敷かれていたが、それでも何度も体をぶつけるとけっこう痛い。特に最後の方は傾斜はあるしガタガタだし散々だった。手足を縛られているため身を庇うこともできず、為すがまま打ちつけられるしかないのだ。
「こんなところに放り込むなんて荷物扱いかよ!」
「君は拳銃所持で不法侵入した不審者だよ。自覚ある?」
そう言うと、彼は七海を米俵のように肩に担ぎ上げた。彼の背中側に七海の頭が逆さ吊りになる。
「ちょ……落ちるっ! 落ちるから!!」
「そう思うなら暴れないで」
怯える七海に冷たく言い放ち、そのまま歩き始める。
最初は無理だと思ったが、しっかり腰と脚を抱えてくれているので意外と安定している。おとなしくさえしていれば落とされることはなさそうだ。この運ばれ方については甚だ不本意だがあきらめるしかない。
あまり顔を動かさないよう横目でちらちらとあたりを窺う。鬱蒼と茂る木々や草花、舗装されていない細道くらいしか目に入らない。その細道を、彼は躊躇のない足取りでずんずんと進んでいく。後ろからは執事の櫻井が無表情でついてきていた。
しばらく木々のあいだの細道をたどっていくと、山小屋が現れた。
彼は七海を担いだまま鍵を開けて勝手に入っていく。そして突き当たりの扉を開けて中に進むと、七海を板張りの床に下ろした。転がされたのではなく座らされただけ、今までよりも丁寧な扱いといえるだろう。
七海はぐるりと見まわす。
すっきりとしたシンプルな部屋。ダイニングテーブルと椅子、ソファくらいしか目立つ物はない。テレビすら見当たらない。ただ隅の台所だけは充実しているようだ。七海のいるところからすべてが見えるわけではないが、それでも食器や食材、こまごまとした道具などが小綺麗に置かれているのがわかる。
窓の方に目を向けるとベランダに人影が見えて息を飲んだ。後ろを向いているので顔まではわからないが、すらりとした背格好は父親を殺した男にとてもよく似ている。頭は金髪ではなく黒髪だが染めているのかもしれない。
きっと、あいつだ――。
ドクドクと痛いくらいに鼓動が速くなる。まともに息もできない。
こちらに気付いたのかベランダの男が振り向いた。その顔を見て七海はごくりと唾を飲んだ。間違いなくあのとき脳裏に焼き付いた顔だ。すっきりとした輪郭、精悍な目元、まっすぐ通った鼻筋、薄い唇、そして鮮やかな青の瞳。すべてが一致する。
「わざわざ来てもらって悪いな、遥」
「この子だよ。武蔵のことお父さんって」
ベランダの男はガラス戸を開けて部屋の中に入り、七海をここに連れてきた若い男と言葉を交わすと、七海の前で片膝をついた。宝石のような青の双眸が真正面から七海を捉える。
瞬間、吐き気のするような血の匂い、なまぬるいべとりとした感触、底冷えするような鮮烈な青の瞳、どす黒い血に濡れた大きな両手――五感を伴う記憶が脳裏を駆けめぐった。体の芯が冷たくなりゾクリと身震いする。
「おまえ、俺が父親だっていう根拠は何かあるのか?」
「お……おまえなんか父親じゃない! 父親なもんか!」
「は??」
「おまえはお父さんのカタキだ!!」
ぶわっと涙をあふれさせながら身を乗り出して突っかかるが、手足を縛られていたためバランスを崩してしまい、みっともなく倒れかかったところを彼に受け止められる。カッとして思いきりその手首に噛みついたものの、致命傷どころか血のにじむ程度の傷にしかならなかった。
「拳銃返して! こいつ殺さなきゃ!!」
「違法なものを返せるわけないでしょ」
七海をここに連れてきた若い男――遥に振り向いて訴えたが、彼は冷ややかにそう答えるだけだった。その後ろに控えている執事も無反応である。
「じゃあ台所からナイフ持ってきて!」
「残念だけど殺人も違法だからね」
「こいつが先にお父さんを殺したんだ!」
「江戸時代なら仇討ちできたけどさ」
激昂する七海とは対照的に、遥は何を聞いても動じることなく淡々と言い返す。
くやしい、くやしい、くやしい!!!
長年、殺してやろうと思っていた男が目の前にいるのに何もできない。顔をぐちゃぐちゃにしてただ見苦しく泣いているだけだ。あまつさえその男に抱き留めてもらっているなど、屈辱で頭が沸騰しそうになる。
ごめん、拓海――。
こんなはずではなかった。いったいどこでどう間違ってしまったのだろう。勝手な行動はするなと散々注意されていたはずなのに、言うことをきかずに突っ走ってこんな結果になるなんて、あまりに申し訳なくて彼に顔向けできない。
「なあ、遥……この子の名前、なんて言ったっけ?」
「坂崎七海。自称だから本名かどうかはわからない」
「坂崎……」
二人が自分について話すのを、七海はぼろぼろと涙を流してしゃくり上げながら聞いていた。正直に本名を答えたのに信じられていなかったようだが、口を挟む気にはなれない。泣き疲れたせいか心も体もぐったりと憔悴していた。
ふいに、七海を抱く手に力がこもる。
怪訝に思って彼を見上げるとひどく険しい顔をしていた。ゾッとするくらいに。忘れていたわけではないが、この男は殺人犯なのだとあらためて認識させられて、いまさらながらすこし怖くなる。
「遥、来たばかりなのに悪いが櫻井さんと帰ってくれ」
「どういうこと?」
「この子と二人で話をしたい。事情はあとで話す」
「……わかった」
この殺人犯と、二人きり――?
七海は青ざめる。そういえば、父の敵として命を狙っていることを本人の前でぶちまけてしまった。冷静に考えればあまりにも軽率だ。このまま何事もなく解放してくれるとはとても思えない。
救いを求めるように遥を見上げたが、彼は本当に七海を置いて帰ろうとしていた。当然ながら執事も一緒である。二人とも七海に声をかけようともしない。
「じゃあ、何かあったら必ず連絡して」
「ああ」
遥は軽く右手を上げ、執事の櫻井を従えて部屋から出て行く。
「ちょっと待って、置いてかないで!!!」
七海は懸命に叫びながら、体をむちゃくちゃに捩って武蔵の手を振りきり、板張りの床を芋虫のように這いつくばっていく。しかし遥たちが戻ってくることはなかった。無情にも玄関の閉まる音が遠くに聞こえ、絶望して動きを止める。
「そんな……」
眉根を寄せておそるおそる背後の武蔵に振り向く。彼は噛まれて血のにじんだ手首をじっと無言で見つめていたが、ふいに七海を一瞥すると、ジーンズのポケットから細長いものを取り出してシャキッと開いた。
ナイフだ――!
露わになった銀色の刃が鈍い光を放った。彼はそれをちらつかせながら七海の方へと足を進めてくる。あのときの父親と同じように、七海もナイフで刺し殺すつもりなのかもしれない。
逃げたいのに凍りついたように体が動かなかった。それでも必死にふるふると首を振って拒絶の意を示すが、彼の動きが止まることはない。ナイフを構えて、七海に跨がり覆いかぶさるように身を屈めてくる。
「うわあああああああ!!!」
七海の絶叫が、他に誰もいない二人きりの山小屋に響き渡った。
◆目次:機械仕掛けのカンパネラ