瑞原唯子のひとりごと

「機械仕掛けのカンパネラ」第13話 ただひとりの親友



「拓海っていい名前だね」
 まだ肌寒さの残る四月上旬。入学式が終わり教室でホームルームを待つあいだ、決められた席で頬杖をついて窓の外の桜吹雪を眺めていると、ふいに同級生と思われる男子が隣から話しかけてきた。
 何だこいつ、と怪訝に思いながら横目で睨むが、彼はニコニコと人なつこい笑顔を崩さない。名前に海が入ってるなんていいね、うらやましいな、などと聞いてもいないのに声をはずませる。
 それが坂崎俊輔――後に七海の父親となる男だった。

 拓海と俊輔はともに孤児だった。
 すこしずつ話をするようになってわかったことだが、二人とも生まれてまもないころに捨てられ、養護施設で育てられていた。いまも各々の養護施設からこの公立高校に通っている。
 拓海はこれまで生い立ちのことでからかわれたり、いじめまがいのことをされてきたため、自分からまわりと距離を置くようになっていた。おかげで友達と呼べる存在はひとりもいない。
 俊輔の方もやはりからかわれることは少なくなかったらしい。ただ、拓海と違ってまわりに溶け込もうと努力をしていたようだ。実際、この高校にも中学時代の友達が何人かいる。
 それでも同じ境遇の存在というのはやはり特別なのだ。生い立ちや施設のことも気兼ねなく話せ、変に憐れみの目を向けられる心配もなく、わかり合える。二人が親しくなるのに時間はかからなかった。

 きっかけは境遇だが、もちろんそれだけではない。
 気が合わなければ、共感はしても親友にはなれなかっただろう。寡黙で愛想のない拓海と、人なつこくお人好しな俊輔。正反対なのがかえってよかったのかもしれない。歯車が噛み合うように気負わず自然体でいられて、とても心地がよかった。
 ただ、二人ともアルバイトをしていたので、いつも一緒というわけにはいかなかった。それでも互いに都合が合うときは、図書館で勉強したり、街を歩いたり、公園で話したりして同じ時間を過ごした。

「なあ、海を見に行かないか?」
 ある夏の日、俊輔が何の脈絡もなくそう誘ってきた。拓海自身はそれほど海に興味はなかったが、俊輔が海を好んでいることを知っていたので同意した。彼が喜んでくれるならそれでよかったのだ。
 俊輔に連れて来られたのは、海水浴のできるような砂浜ではなく、客船ターミナルもある埠頭の公園だった。特にここが好きなわけではなく、単にいちばん近くて行きやすかったというだけの理由らしい。
 全体的な風景としては遠くのビル群と海が調和していて悪くないが、海を覗き込んでみるとゴミが浮いていたりしてあまりきれいとは言いがたい。海が好きだという人間が好むようなところとは思えなかった。
「おまえ、こんな海でもいいのか?」
「海は海だよ」
 俊輔は軽く笑ってそう答えると、柵に腕をのせて細波の立つ海原を眺める。
「自然のままのきれいな海はもちろん好きだけど、人の生活の中にある海も好きだよ。南国のエメラルドグリーンの海も、このきれいじゃない淀んだ海も、日本海の冷たく荒れた海も、マグロが捕れる遠洋の海も、どの海も全部ひとつに繋がってるんだって思うと不思議だよね」
 やわらかく目を細めて海を見つめる横顔に、潮風が吹いた。茶色がかった柔らかな癖毛が揺れる。じっと見ていると、視線を感じたのか振り向いてニコッと笑った。
「拓海も好きだよ」
「……海扱いか」
 あきれたような様子を見せながらも口もとが緩む。単なる冗談であることはわかっているが、彼が好きだという海の一部に挙げられたことは、特別な存在だと認められているようで嬉しかった。
 結局、拓海には海の良さが今ひとつ理解できなかったが、それでも彼と海を見ることは素直に楽しいと思えた。海というより、それを眺めている彼を見るのが好きだったのかもしれない。
 それからは、拓海の方からもたびたび海に誘うようになった。時間的な問題で同じ埠頭に行くことが多かったが、たまに遠出をして別の埠頭へ行ってみたり、砂浜の海岸に出かけたりもした。
 二人にとって、海は特別な場所となっていた。

「真壁拓海君だね」
 高校三年生の梅雨入り間近のある日、アルバイトを終えて施設へ帰る途中の路地で、スーツを着た見知らぬ男に呼び止められた。穏やかな表情に見えるが、底知れぬ威圧感のようなものを感じてゾクリとする。
「すこしだけ時間をもらえるかな」
「どうして俺の名前を……」
「君のことは調べさせてもらった」
「あなたは誰なんですか?」
 怪訝に問いかけると、彼は思わせぶりにニッと口の端を上げた。
 頭の中で警鐘が鳴り響く。しかし有無を言わさぬ雰囲気で肩を抱かれてしまい、すぐにでも逃げ出したかったがそうする勇気もなく、促されるまま足を踏み出すしかなくなっていた。
 連れて行かれた先にあったのは黒いセダンだった。車には詳しくないが、確かそれなりに高級な国産車ではないだろうか。運転席には、やはりスーツの若い青年が座っているのが見える。
「さあ座ってくれ。中で話をしよう」
「話なら他の場所でもできますよね」
「人目を避けたいのだよ」
 こんな得体の知れない男の車に乗るなど危険すぎる。だからといって逃げ切れるとも思えない。おそらく名前だけでなく高校も住所も把握されている。たとえここで振り切ったとしても、待ち伏せされて強硬手段に出られたとしたら。
 二進も三進もいかず立ちつくしているうちに、男に扉を開けられ、半ば強引に後部座席へ押し込まれてしまった。隣には男が座る。
 行ってくれと重量感のある低い声で男が命じると、運転席の青年がエンジンをかけて車を走らせ始めた。車の中で話をするだけではなかったのか。拓海は顔からうっすらと血の気が引くのを感じた。
「どこへ行くんですか?」
「ドライブだよ」
「ふざけてるんですか」
「話が終わったら送ろう」
 男は愉快そうに微笑を浮かべながら軽く受け流し、警戒する拓海の隣でゆったりとシートに身を預け、本題に入った。

 警察庁の楠――街を走行する車の中でそう名乗ったこの男は、国のために働く気はないかと真面目な顔で尋ねてきた。公安部で潜入捜査や国家機密に関わる仕事をさせたいらしい。
 拓海に目をつけたのは、成績や適性など様々な要因を考慮した結果らしいが、前提としてあるのは孤児という身の上のようだ。天涯孤独であれば使い捨てにしやすい。楠の口ぶりからそういうことなのだろうと理解した。
 正直なところ国のためといわれても心は動かなかった。愛国心などない。ただ、将来の夢や希望といったものもないので、求められるところへ行くのもいいかもしれない。たとえ捨て駒だとしても。
 考えさせてください。
 このときはそう答えて持ち帰らせてもらったが、他言無用ということなのでひとりで考えるしかなかった。なかなか気持ちは固まらない。一か月後、再び接触してきた楠に流されるような形で了承の返事をした。

 俊輔にはそういう打診は来ていないようだった。彼本人にそのことを尋ねたわけではないし、素振りがないだけで来ている可能性もあるが、たとえそうだとしても断っているだろう。
 なぜなら、彼は高校卒業後に結婚するのだから。
 相手は同じ養護施設で育った同年齢の子だと聞いている。紹介したいと言われているものの、あれこれ理由をつけてずるずると機会を延ばしていた。どういう子なのか知りたい気持ちはあるが、会いたくはなかった。
 写真は何枚か見せてもらったことがある。目がくりっとした元気の良さそうな子だった。写真の中で俊輔も彼女もいい笑顔を見せていて、きっとお似合いなのだろうと素直に思えた。
 拓海が公安で働くことが内々に決まったころ、俊輔が就職活動を始めた。できれば海に関係する仕事がしたいと、民間の海洋調査会社の求人を見つけて願書を出し、採用試験を経て秋頃に内定をもらっていた。
 結婚して二人で生活していくには、きちんと就職して働かないとね、などと幸せそうにはにかむ姿は、夢も希望もない拓海とは対照的である。友人として彼を祝福しながら、同時に一抹の寂しさを感じていた。

 卒業式は、ちらちらと雪の舞う薄曇りの日だった。
 ありきたりな形ばかりの式が終わると、教室で担任から卒業証書を受け取って解散する。名残惜しそうに校内にとどまる生徒が多い中、拓海と俊輔はすぐに高校をあとにした。
「雪降ってるけど行くよね?」
「ああ」
 卒業式が終わったら海を見に行こうと約束していた。拓海としては吹雪だろうと豪雨だろうと行くつもりだった。幸い、傘が必要なほどでもないので問題はないだろう。俊輔もやめるつもりはさらさらないようだった。
 雪のせいか埠頭の公園にはほとんど人影がなかった。まるで貸し切りのようだ。柵にもたれて愛おしげに海を眺める俊輔の横顔を見ながら、この季節外れの寒さと雪にひそかに感謝した。
「ありがとう、拓海」
「…………?」
 俊輔の口から白い吐息まじりに紡がれた言葉を聞いて、怪訝に眉をひそめる。なぜ礼を言われたのかわからない。そんな疑問に答えるように、彼は横目を流したままくすりと笑って言葉を継いだ。
「おかげで高校生活が楽しかったから」
「それなら礼を言うのは俺の方だ」
「あ、最初に声をかけたのは僕だっけ」
「覚えてるのか?」
「うん、拓海の名前にも感謝しなきゃ」
 俊輔は懐かしそうに目を細める。
 つられるように、拓海の脳裏にこの三年間の出来事が次々とよみがえった。長かったようで短かったような三年。もっと早く出会えていればよかったのに、などと詮無いことを考えてしまう。
「僕さ」
 その声で我にかえると、彼は顔ごと柵にもたれて微笑んでいた。
「子供が生まれたら名前に海を入れようと思うんだ。里奈に言ったら気が早すぎるって笑われたけど、賛成してくれた」
「おまえらしいよ」
 里奈というのは結婚相手の名前だ。二人で幸せな未来について話している姿が目に浮かぶ。彼女のことは知らないが、俊輔にはそんなあたたかい幸せがよく似合うし、彼ならば間違いなく築いていけるだろうと思う。
「そういえば、住むところはまだ決まらない?」
「ああ……いま上司になる人が探してくれてる」
 本当はすでに用意されているにもかかわらず、嘘をついた。慣れないことに表情が硬くなったのが自分でわかる。しかし、幸いにも俊輔はまったく気付かなかったようだ。
「じゃあ、僕の住所を教えとくよ」
 そう声をはずませると、生徒手帳にさらさらと書き付けてそのページを破いた。
「きのう新居のアパートを決めてきたところなんだ。電話番号はまだ決まってないから住所だけなんだけど……拓海の連絡先が決まったら絶対に教えに来てよ。また一緒にどこか行ったり話したりしたいし、里奈も紹介したいし」
「わかった」
 押しつけられた紙切れに目を落とす。そこには、彼らしいのびやかな字で隣県の住所が書いてあった。アパート名から察するに昔ながらの古びたところのようだ。高卒の会社勤めではさほど給料も良くないのだから、仕方がないだろう。
「あと、これもらって」
「…………?」
 今度は茶無地の紙袋が差し出された。もちろん紙袋だけでなく、中には何か重量感のあるものが入っているようだ。卒業式なのにやけに大荷物だなとは思っていたが――怪訝な顔をしていると、彼はくすりと小さく笑って付言する。
「オルゴールだよ。このまえ拓海が物欲しそうに見てたやつ」
 拓海はハッと目を見張る。
 俊輔と街中を歩いていたとき、どこかの店頭で鳴らしていたオルゴールに惹かれて足を止めたことがあった。深みのある音色でなめらかに奏でられるその旋律に、いつになく心が昂ぶっていく。オルゴールなんておもちゃという認識しかなかったので、とても驚いたのを覚えている。
 物欲はない方だが、そのオルゴールはめずらしく手に入れたいと思った。しかし値札を見た瞬間にあきらめた。そして数週間後に来たときには店頭から消えていた。そのあたりのことは心に秘めたまま誰にも言っていない。ただ、一緒にいた俊輔なら察していても不思議ではないが――。
「いや、だからってどうしてこんな……」
「拓海が何かに興味を示すって結構めずらしいからさ。卒業したら毎日は会えなくなるし、何か形に残るものをあげたかったっていうか……まあ僕のわがままだよ。もう買っちゃったんだからもらってくれないと困るけど」
 俊輔はいたずらっぽく肩をすくめた。
「……大切にする」
 拓海は目を伏せて静かに答える。自分自身にしかわからないくらいだが、声がかすかに震えていた。受け取った荷物の重みを感じながら、紙袋の紐を握る手にゆっくりと力をこめた。

「ごめん、じゃあまたね」
 しばらく埠頭で過ごしたあと、俊輔は転居の準備があるからと申し訳なさそうに帰っていった。いつもなら一緒に帰るのだが、拓海はもうすこしここにいたかったので残ることにしたのだ。
 気のせいか、俊輔がいなくなってから鉛色の雲が厚くなり、冷え込みが厳しくなった気がする。風も幾分か強くなったのではないか。頬の熱がみるみる奪われていくのを感じながら、白い息をついた。
 ずっと手に持ったままだった小さな紙を見下ろす。あまり見つめていると住所を覚えてしまいそうで、くしゃりと握りしめる。できることなら卒業してもずっと親友でいたかった。けれど。
 ビリビリ、ビリビリ――。
 無表情のまま、手の中の小さな紙をひたすら細かく破いていく。判読できなくなったその紙片を両手にのせて掲げると、風に煽られて空に舞い上がり、やがて細雪とともに海に消えていった。
 拓海は柵の上に顔を伏せ、ひとり静かに涙をにじませた。





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