瑞原唯子のひとりごと

「東京ラビリンス」番外編・青い炎 - 男同士なんて冗談じゃないと

「ごめんね、誰にもあげないって決めてるから」
 この学校では、卒業式のあとに好きな人からネクタイをもらうのが恒例行事となっている。
 卒業式を終えて帰る途中、大地は教室から校門に至るまで何人もの女子にネクタイやボタンを求められていた。今現在、大地には彼女がいないので希望を持っているのかもしれない。付き合うことは叶わなくても、もしかしたらボタンのひとつくらいならもらえるのではないかと。
 しかしながら大地はすべて断っていた。希望者の人数を考えると全員に渡すことは不可能であり、渡す相手を選ぶというのも角が立つ。先着にしても不公平感は否めない。ならばすべて断るのが賢明だろう。渡したところで大地には何の利もないのだから。
「悠人、おまたせ」
 校門の外で待っていた悠人のもとへ、大地は右手をあげながら軽い足取りで駆けてきた。後ろから女子二人組が追いかけてきているのが見える。
「もういいのか?」
「きりがないからな」
 小さく苦笑しながら肩をすくめてそう言うと、早く逃げようと耳打ちし、悠人とともに近くの駅を目指して走り出す。二人のスクールバッグからは卒業証書の入った筒がはみ出していた。

 電車と地下鉄を乗り継ぎ、志望大学の門をくぐる。
 今日の午後から大学入試の合格発表があるので見にきたのだ。まわりにもそのために来たと思しき人たちが大勢いる。悠人たちのように高校の制服を着ていれば、あるいは親子連れであれば、合格発表を見に来たと考えて間違いないだろう。
 悠人と大地は同じ大学を受験している。ふたりともA判定なのでおそらく大丈夫だろうと思っているが、それでも若干不安な気持ちになるのはどうしようもない。何においても絶対ということはないのだから。
「おまえ、緊張してるのか?」
「……すこしはするだろう」
「出来は良かったんだろう?」
「多分な」
 それでも解答用紙に氏名や受験番号を書き忘れたり、解答を書く場所がずれていたり、そういうミスをしていないとは言い切れない。何度も確認はしたつもりだが。
「落ちたら承知しないからな」
「……どうするつもりなんだ」
「さあ、どうしようかな」
 大地は歩みを止めることなく悠人に視線を流し、ニッと口の端を上げる。自分が落ちることは微塵も頭にないようだ。腹立たしいがその自信には悠人も納得している。彼が大事な局面で実力を出せないはずはないし、ましてやつまらないミスをするなど考えられない。不合格になることは想像もつかないのだ。
 しばらく歩くと前方に黒山の人だかりが見えてきた。その向こうには木製の掲示板が立てられている。すでに合格者が張り出されているようだ。歓喜の声があちらこちらで上がっており、運動部のユニフォームを着た在校生たちによる胴上げも行われていた。
 ふたりは人混みを縫いながら掲示板の前に進み、理科二類の合格発表を探していく。
「あったぞ」
 大地が指さした方を見ると、ふたりの受験番号と氏名が近い位置に書かれていた。ほっとして体から緊張が抜ける。けれど落ち着く間もなく強く手首を掴まれて、人だかりの外まで引っ張っていかれた。
「合格おめでとう」
 大地は微笑を浮かべて言う。それを聞いて悠人はわずかに目を見開いた。そしてふと気まずげに視線をそらすと、ぶっきらぼうに口を開く。
「おまえもな」
 その一言で大地は嬉しそうに破顔した。
「これからも一緒だな」
「……ああ」
 彼が悠人を手元に置きたがるのは中学のころから変わらない。けれど、これからもずっとそうだという保証はない。彼のためだけに彼に指示されるまま進路を決めたのに、在学中に関心をなくされたらどうすればいいのだろう。そんな不安がちらりと頭をよぎった。

 昼は大学の学食でとることにした。
 春休み期間に入っているからかあまり混雑はしていない。席は半分ほどしか埋まっておらず、注文もほとんど並ばずにできた。大地はA定食、悠人はB定食だ。取り立てておいしいとは言えないが、まあ普通に食べられる、というのがふたりの一致した評価である。四月からこの学食にお世話になるかもしれないので、とりあえず不味くはないことに安堵した。

 ようやく受験から解放されたことだし、久々にのんびりしよう――。
 大地の思いつきで、ふたりはほとんど人通りのない川沿いの道を歩いていた。高校入学のときにも来た桜並木のあるところだ。あのときはちらほらと咲き始めていたが、今はつぼみも固く、春めいた雰囲気はほとんど感じられない。それでも穏やかな陽射しの中を静かに歩くと、のどかな気持ちになれた。
「おまえ、夕方に佐藤と待ち合わせしてるんだっけ?」
「学校でネクタイを渡す約束をしている」
 由衣はそれほど物に執着する方ではないし、行事にも関心がない方だと思っていたが、めずらしくネクタイは欲しがった。付き合っているのだから断る道理はない。あまり気乗りはしないものの素直に了承した。
 卒業式が終わってすぐに合格発表を見に行く予定だったので、彼女とは夕方からの待ち合わせにした。場所は学校の校庭だ。そのあとどこかに出かけることになるだろうし、何もわざわざ学校でなくてもいいと思うのだが、彼女としては譲れないらしい。
「おまえら何だかんだ長続きしてるよな」
 言われてみれば、かれこれもう二年近く付き合い続けている。怪盗ファントムだと疑われて追いつめられつつ、よく続いたものだと思う。それも、すべてはこいつが――無言でちらりと隣の大地に目を向ける。彼はニコッと屈託のない笑みを見せた。
「感謝しろよ。僕が付き合えって言ったんだからな」
「……好きで付き合ってるわけじゃない」
 答えた声がわずかに震えた。
 そう、大地が付き合えと言ったから仕方なく付き合っているのだ。好きでもない相手と。にもかかわらずいったい何に感謝しろというのだろうか。体の横でひそかにこぶしを握りしめながら、うつむいて唇を引きむすんだ。
「照れ隠しか?」
 不思議そうに覗き込みながらそんなことを言われ、カッと頭に血がのぼる。
「ふざけるな! 無理やり付き合わせたのはおまえだろう。僕は彼女を知らないし断るつもりだったのに、付き合わないと絶交するとか脅してきて」
「え、そんなこと言ったか?」
「っ……!」
 悠人はずっとその脅し文句に雁字搦めになっていたのに、言った本人はとっくに忘れていただなんて。あまりの衝撃に頭がまっしろになり返す言葉もない。
 しかし、大地は悪びれもせず淡々と言い返す。
「言ったにしても、しばらく付き合ってみて好きになれなければ別れろよ。おまえ好きでもないのに二年近くも付き合い続けてたのか? 何もずっと付き合えとは言ってないだろう」
「…………」
 確か別れたら絶交するとも言われていたはずだが――あらためてじっくりと思い返してみると、大地と一緒にいたいから、という理由を咎められたのではなかったか。由衣と向き合っていないことを窘められたのだ。なのに、悠人は間違った強迫観念にとらわれてしまった。彼女に自分から別れを切り出してはならないのだと。
「そんなに僕に絶交されることが怖かった?」
 そう言い、大地は挑発するように目を細めて視線を流す。
 瞬間、目の前が赤く染まった。
 気付けば大地の胸ぐらを掴んで桜の木に叩きつけていた。ギリと奥歯を食いしばると、困惑したように表情を曇らせている彼を激しく睨みつけ、そして――半開きになっていた彼の唇に自分の唇を押しつける。今までひた隠しにしてきた気持ちをぶつけるかのように。
 唇を離すと、大地は唖然としていた。
 その表情を見て、取り返しのつかないことをしてしまったと一気に青ざめる。もう何もかもおしまいだ。大地との思い出が走馬燈のように脳裏を駆けめぐっていく。いつまでも彼のそばにいられるとは思っていなかったが、まさかこんな終わり方をするなんて――。
 冷や汗をにじませながら硬直していると、勢いよく腕を引っ張られて体がぐるりとまわり、いつのまにか大地と立ち位置が入れ替わっていた。肩に掛けていたスクールバッグは途中で落ちたようだ。足元に固い筒が当たっているのを感じながら、大地にネクタイを掴まれ、痛いくらいの力で桜の木に押しつけられている。
 ゾクリと背筋が震えた。
 大地は悠人の頬をかすめながら桜の幹に手をつき、無表情のまま顔を近づけると、怯えて息を詰めていたその唇をためらいなく奪う。由衣のとはまったく違う肉厚の舌が口内に入り込み、舐めまわし、ねっとりと器用に舌を絡め取りながら吸い上げる。悠人は何が起こったのかわからずパニックになりながらも、そのあまりの気持ちよさに脳天まで痺れ、何も考えられないまま全身の力が抜けていくのを感じた。
 やがて銀色の糸を引きながらゆっくりと唇が離れていくと、膝から崩れるようにずるりとその場にへたり込んだ。肩で息をしながら、いつのまにか潤んでいた瞳でこわごわと見上げる。大地は目を細め、艶めかしく濡れた唇にうっすらと蠱惑的な笑みをのせた。
「どうせやるならこのくらいやれよ」
 挑発的にそう言うと、悠人を見下ろしたまま意味ありげに口もとを上げる。
「男同士なんて冗談じゃないと思ってたけど、案外いけるもんだな。もしかしたらキスだけじゃなくその先も…………ま、やらないけどな」
 何を言い出すのかとびくついて顔を紅潮させた悠人は、最後の言葉にほっとしつつ、同時に心のどこかですこし残念に感じていることを自覚した。ますます頬が熱くなるのを止められず隠れるようにうつむく。すぐ隣でさくりと草を踏みしめる音が聞こえて大地が腰を下ろした。そのとき、互いの腕と脚が軽くぶつかり無意識に鼓動が跳ねる。
「……由衣とは別れる」
「好きになれなかったなら仕方ないさ」
 淡々としながらも思いやりを感じるその声音に、すこし背中を押してもらえたような気がした。だが――。
「素直に別れてもらえるかわからない」
「正直に話して納得してもらうしかないだろう」
「……怪盗ファントムのことで脅してくるかも」
 自惚れではなく、彼女にどれだけ執着されているかは理解しているつもりだ。簡単には別れてくれないかもしれない。彼女は怪盗ファントムの正体が悠人だと思い込んでいるので、そのことを暴露すると脅してくるのではないだろうか。今まで言い続けてきたのも牽制だったのではないかと思えてくる。
 しかし、大地は平然としたまま口を開く。
「それは気にしなくていいんじゃないか? おまえ自身は一度も認めてないんだろう? 他に証拠なんてないはずだし、誰も彼女の妄言になんか耳を貸さないよ。笑って聞き流されるのがオチさ」
 そう言われても不安は拭いきれなかった。みんなが笑って聞き流してくれるとは限らない。もし誰かが疑念を持って調べ始めたとしたら――うつむいたまま、表情を硬くこわばらせて考え込む。
 穏やかな風がそよぎ、沈黙が続いた。
 しかしふいに大地が立ち上がったかと思うと、シュッという音とともにネクタイを抜き去り、無言で隣に放り投げる。座っていた悠人の脚にオレンジ色のそれが落ちてきた。いったい何のつもりだろうか――怪訝に彼を見上げ、答えを求めるようにじっと視線を送る。
「やるよ、おまもり代わりだ」
 大地はどこか遠くを見やったまま真面目な顔で言った。悠人はその意味を測りかねて眉を寄せながらも、自分の脚に掛かった彼のネクタイをそっと手に取る。気のせいか、まだすこしぬくもりが残っているように感じた。

 校内はだいぶ静かになっていたが、まだ名残惜しそうにしている卒業生たちがちらほら目についた。
 悠人は校舎には向かわず、人気のない広い校庭を淡々とした足取りで横切っていく。由衣との待ち合わせ場所は、校舎の陰にひっそりとたたずむ桜の木の下だった。ここは最初に彼女に呼び出された場所でもある。彼女にとっては大切な思い出の場所になっているのだろう。
 由衣はすでに桜に寄りかかりながら待っていた。悠人が足を進めると、体ごとこちらに向きなおりニコッと笑う。
「大学、どうだった?」
「合格していた」
「良かった、おめでとう」
 由衣は穏やかに微笑みながら祝福の言葉を述べる。前々から合格すると信じて疑わない様子だったので、反応も落ち着いたものだ。ちなみに、彼女自身も一足先に第一志望の美大に合格している。
「由衣……話がある」
「何かしら?」
 彼女は肩よりすこし長い黒髪を揺らしながら、不思議そうに小首を傾げた。まっすぐに悠人の目を見つめて返事を待っている。悠人はごくりと唾を飲むと、ズボンのポケットに収めたネクタイの存在に意識を向け、平静を装いながらも緊張を隠しきれない硬い声で告げる。
「別れてほしい」
 由衣は小さく息を飲んでわずかに目を見開いた。それでも視線は外さず、心の奥底まで探るようにじっと見つめてくる。やがて悠人の方が耐えきれず目をそらしかけた、そのとき――。
「わかったわ」
 理由も聞かず、ほんのり寂しげな笑みを浮かべて了承してくれた。
 抗われることもなく、詰られることもなく、脅されることもなく、あまりにもあっさりと話がついて拍子抜けする。もしかしたら彼女はとうにわかっていたのかもしれない。悠人の気持ちが自分に向いたことなど一度もなかったのだと。
「いろいろとすまなかった」
 恋愛感情はなくても、二年近くも付き合っていればそれなりに情は移る。彼女には申し訳ないことをしたと心から思っている。こんな言葉だけで許してもらえるなどとは考えていないが、それでも謝罪する以外にない。しかし、彼女はゆるくかぶりを振ってやわらかく微笑む。
「怪盗ファントムの方も頑張ってね」
「……だから、あれは僕じゃない」
「誰にも言わないから心配しないで」
「…………」
 じわじわと追いつめられるようないつものやりとりだ。困惑する悠人に、彼女は肩をすくめてクスッと笑ってみせる。相変わらずどういうつもりなのかよくわからない。けれど、何となくだが口外することはないような気がした。
「ネクタイ、もらってもいい?」
 彼女はまっすぐ悠人を見つめながら、そう尋ねてきた。
「ああ……約束だからな」
 別れた男のネクタイなどもらってどうするのか疑問だが、約束は約束なので、彼女が望むのであれば渡すことに異存はない。ネクタイを外して抜き取り、それを無造作に何度か折りたたんで手渡した。
「ありがとう」
 彼女は受け取ったネクタイを大事そうに胸元に抱え、ふわっと笑って礼を述べた。そして丁寧に一礼し、ほんのりと微笑を浮かべたまま悠人を見つめると、黒髪をさらりとなびかせながら歩き去っていく。さよならの一言さえ口にしないまま――。


…本編・他の番外編・これまでのお話は「東京ラビリンス」でご覧ください。

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