瑞原唯子のひとりごと

「東京ラビリンス」第9話・喪失

「まだ宿題終わらないの?」
「えっ?」
 シャープペンシルを握ったまま動きを止め、ぼんやりと考えごとをしていた澪は、不意に声をかけられて反射的に振り向いた。絹糸のように艶やかな黒髪がさらりと頬にかかる。
「そろそろ寝たいんだけど」
「あ、うん……」
 遥は学習机に広げてあった教科書やプリント類を片付けている。上の掛け時計に目を移すと、針は11時半を指していた。もうこんな時間だなんて――澪は寝そべっていたベッドから起き上がり、教科書とノートを閉じた。けれど、ベッドからは降りようとせず、軽く握った手を膝に置いてうつむいた。

 ここは遥の部屋である。
 澪は、宿題をするという名目で押しかけて、彼のシングルベッドを占領していた。さすがに毎日というわけではないが、わりとよくあることで、二人にとってはごく日常的な光景である。だが、これほど遅くまでいることはあまりなく、そういう意味では非日常的な状況ともいえるだろう。
 宿題はとうに終わっていた。
 それでも自分の部屋に戻らずここに居続けたのは、他にもうひとつ別の目的があったからである。それを切り出せず悩んでいるうち、いつしかこんな時間になっていたのだ。どちらかというと今日の目的はそちらの方で、宿題はただの口実といっても過言ではない。だから、このまま、すごすごと帰るわけにはいかなかった。

 澪はようやく決意を固めると、ベッドの上で正座して上目遣いで切り出した。
「あのね、遥、相談っていうか聞いてほしいことがあるの」
「そんなことだろうと思ったよ」
 遥は事も無げにそう言うと、椅子を回して澪の方に体を向ける。
「で、何?」
「うん……ちょっと言いづらいんだけど……」
「昔からそんな話はさんざん聞かされてるよ」
 何を今さらと言わんばかりの呆れ口調だが、確かに彼の言うことはもっともである。両親や友人に言えないようなことでも、遥にだけは話すことができた。誠一を好きになったときも、悩みを聞いてもらったり、アドバイスを求めたりしていた。けれど、今回はその遥にも言いづらい。なぜなら、それは――。
「師匠のことなんだけどね」
 二人にとって悠人は親も同然の存在であり、その認識を崩しかねない話をすることは、遥に対して申し訳ないという気持ちが少なからずあった。しかし、自分の胸の内だけにとどめておくのは苦しく、身勝手かもしれないが、誰かに話して少しでも楽になりたいと思ったのだ。そして、その「誰か」は遥しか考えられなかった。
 澪は、堰を切ったように話し出した。
 天野俊郎の『湖畔』を娘のもとへ返却に行ったときのこと、中堂家のパーティでのこと、悠人の部屋で報告書を作成したときのこと、誠一と別れたら師匠と結婚すると約束したこと――澪自身の感情は挟まずに、できるだけ事実のみを述べていく。しかし、客観的に話せば話すほど、現実感が乏しくなっていくように感じられた。
「ふーん……師匠がね……」
 ずっと真剣な顔で聞いていた遥は、澪の話が終わると、吐息まじりにそうつぶやいた。反応に困るのも当然だろう。澪自身でさえ受け止めきれていない話を、いきなり信じろという方が無理である。
「やっぱり信じられない?」
「にわかには信じがたい話だけど」
 彼はそこでいったん言葉を切り、椅子の背もたれに身を預けて溜息をついた。
「澪がそんな嘘をつくとは思えないしね。それに、実はちょっと気になってたんだよ。ここのところ様子がおかしかったから、もしかしたら何かあったんじゃないかって。まさかそこまでとは思わなかったけど」
「おかしかったって、私が?」
 澪はきょとんとして小首を傾げる。
「師匠と結婚すればって母さんが言ったときの反応は過剰だったよ。それに、たまに思い詰めた顔で師匠を見てるしね。師匠の方も、澪と幹久の話になるとあからさまに機嫌が悪くなったりして、なんか嫉妬でもしてるみたいに見えたんだよね」
 言われてみれば、確かに悠人のことを意識していたような気がする。ただ、彼の方はどうなのかよくわからない。遥が指摘したように嫉妬だったのだろうか。しかし、それしきのことで彼が感情的になるなど、澪にはとても信じられなかった。
「でも、それを言ったら遥だっておかしかったよ? 幹久さんに指輪を返しに行ったとき普通じゃなかったもん。やっぱりどう考えても顔を蹴りつけるのはやりすぎだよ」
「結果的にはあれで良かったよね」
「それは……そうだけど……」
 顔面を蹴りつけられたことが利いたのか、幹久は怪盗ファントムと澪は別人という結論に達したようだった。数日後に橘家へやってきて、剛三と澪に勘違いしていたことを白状して詫び、そしてあらためて澪に結婚を申し込んできた。驚くべきことに、この短期間で新たに作り直したという指輪まで用意してきていた。が、剛三は認められないと一蹴し、澪も心苦しく思いながらもやんわりと断った。これで幹久が本当に諦めたのかはわからないが、とりあえず一段落ついたといえるだろう。
「師匠もずいぶん安心してたよ」
「そう……」
 それ以外に言葉が見つからず、澪はゆっくりと目を伏せた。意味もなく手元を見つめる。その様子を、遥は椅子の肘掛けに左腕を置いて、無表情で眺めていた。
「師匠と結婚すればいいんじゃない? 僕は賛成」
「ちょっと、遥、いきなり何?!」
 澪は手をついて身を乗り出した。
「師匠だったらファントムのことを隠さなくていいし、じいさんも、父さんも、母さんもそのつもりなら何の問題もないよね。みんなが幸せになってすべて丸く収まるんじゃない?」
「私の幸せは無視?!」
「何が不満なわけ?」
 遥はじとりとした目で尋ね返した。澪は当惑して顔を曇らせる。
「不満とかそういうことじゃなくて……師匠のことは好きだけど、それは家族みたいなものだし……。第一、私には誠一がいるもん。遥だってわかってるでしょう?」
 恨めしそうにそう訴えかけると、遥は真顔でじっと考え込んだ。
「誠一、ヤバいんじゃない?」
「……え?」
「誠一と別れたら師匠と結婚する、って約束したんだよね? だったら誠一の方に圧力をかけるんじゃないかな。澪に別れるつもりがなくても、誠一が別れるって決めたらどうしようもないし。同じ高校生ならまだしも、大人相手なら容赦しないだろうね。ありとあらゆる手を使って潰しにかかると思うよ。ま、誠一ひとりくらい赤子の手をひねるようなものだろうけど」
 澪は困惑ぎみに眉を寄せて、口をとがらせた。
「師匠はそんなことする人じゃないよ」
「師匠じゃなくてじいさんだよ。じいさんも澪と師匠を結婚させたがってるって話だし」
 それを聞いて、澪の中で先ほどの推論が急に現実味を増した。剛三ならば本当にやりかねない。澪は弾かれるようにベッドから飛び降りると、教科書もノートも残したまま、短いスカートをひらめかせて一目散に遥の部屋を飛び出した。

 悠人の部屋からは細く光が漏れており、微かに物音も聞こえる。どうやら彼はまだ寝ていないようだ。澪は表情を硬くして唾を飲み込むと、コンコンと遠慮がちに扉を叩く。
「はい」
 中から悠人の声が聞こえた。
 ややあって、カチャリと扉が開き、彼が無防備な姿を現した。着替えようとしていたのか、シャツの胸元が大きくはだけており、顔には疲労が色濃く滲んでいた。澪と目が合うと、その目を大きく見開いてぱちくりと瞬きをする。
「夜這い?」
「違います」
 澪は冷ややかに答えた。それから少し顔を曇らせて切り出す。
「師匠にお話があって来たんですけど……」
 疲れているようなのでまた後日にします――そう続けるつもりだったが、言いよどんだきり曖昧に目を伏せる。後日なんて悠長なことを言っているうちに、剛三が行動を起こしてしまうかもしれない。そう思うと、遠慮している場合ではない気がしてきた。
「入って」
 悠人はそう言って大きく扉を開いた。
 まるで心情を察したかのような申し出に、澪は素直に甘えることにして、促されるまま彼の部屋に入ろうとする。が、途中でピタリとその足を止めた。不思議そうにしている悠人を上目遣いで窺いながら、おずおずと念を押すように言う。
「あの、何もしないでくださいね?」
「何もしないよ」
 悠人は噴き出しながら答えた。扉を開けたまま部屋の中に戻り、シャツのボタンを下から留め始める。
「安心していい、僕の理性は鉄壁だ」
「……ずいぶん脆い鉄壁ですね」
 澪はこれ以上ないくらいの低い声で嫌味を落とした。先日ここで強引に唇を奪ったばかりなのに、よく臆面もなくそんなことが言えるものだと思う。しかし、悠人はシャツの裾をズボンに入れると、顔だけ振り向けてくすりと笑った。
「この前は澪が地雷を踏んだからいけないんだよ」
「それって、由衣さんのこと?」
「もうその話はするんじゃないぞ」
 彼は疲れたように息をつき、どっかりと椅子に腰を下ろした。そして、ちらりと澪に横目を流して言う。
「キス、初めてじゃなかったよね?」
 その無遠慮な質問に、澪は頬を染めながら眉を寄せる。
「……だったら何ですか」
「だいぶ罪悪感が少なくてすむよ」
「はあっ?」
 思わず素っ頓狂な声が口をついた。詫びるどころか正当化しようとするなんて――そのあまりにも勝手な言いように、開いた口がふさがらなかった。両手を腰に当てると、少し前屈みになってしかめ面を見せつける。
「初めてじゃなければいいってものじゃないです。ちゃんと反省してください。だいたい、あのときはまだ彼氏がいるなんて言ってなかったですよね? もし初めてだったらどうしてくれたんですか」
「むしろその方が嬉しかったけど」
「罪悪感ドコいったんですか!」
 カッとして責めるように言い募っても、悠人は悪びれもせずニコニコしている。澪の口から大きな溜息が漏れた。横柄に腕を組んで扉にもたれかかると、うさんくさそうな視線を彼に投げかける。
「鉄壁の理性も嘘八百ですよね」
「そんなことはないよ。ハンググライダー特訓の山ごもりのときだって、澪が裸で出てきても平静を保っていられたし、二晩一緒のベッドで寝ても何もしなかっただろう? 澪がやたらと煽るから大変だったけどね」
「あっ、煽ってなんかっ……!」
 そのときはまだ悠人の気持ちなど知らず、随分と無防備に振る舞っていた記憶がある。裸で出てきたというのは少し語弊があり、シャワーを浴びたあとでバスタオルがないことに気づき、悠人に取ってきてもらっただけのことだ。一緒のベッドで寝たというのも事実ではあるが、彼のベッドがあまりにも粗末だったので、なぜかダブルベッドだった澪の方で一緒に寝ようと提案しただけのこと。今にして思えば剛三の策略だったのかもしれないが……。
「入らないの?」
 悠人の声で、澪は現実に引き戻された。戸口に立ったまま、軽く口をとがらせる。
「本当に何もしないでくださいね。師匠に本気出されたら、私じゃ敵わないんですから」
「わかってるよ」
 クスクスと笑う悠人を横目で睨みながら、澪はわざと足音を立てて中に入ると、荒っぽくベッドに腰を下ろして彼と向かい合った。そのとき自分の脚があらわになっていることに気づき、自意識過剰かもしれないが、こんなときに短いスカートをはいてきてしまったことを少し後悔した。

…続きは「東京ラビリンス」でご覧ください。

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