瑞原唯子のひとりごと

「東京ラビリンス」第36話・遠い約束

「南野さん、ビンゴだぜ」
 剛三の書斎に入るや否や、弾んだ声が誠一の耳に飛び込んできた。
 隅にある打ち合わせスペースに目を向けると、パイプ椅子に座った篤史が、上半身だけ振り返って親指を立てていた。篤史だけでなく、剛三、悠人、武蔵、澪、遥がそこに集まっており、中央の机には資料のようなものが大量に散らばっている。メルローズが連れ去られた一件について、みんなで話し合っていたのだろう。
 誠一が橘家に戻ってきたのも、そのためである。
 出来るならもっと早くに来たかったのだが、勤務中だったため、定時になるまで帰るわけにはいかなかった。ただ、大地の取り調べで掴んだいくつかの手がかりは、すぐに電話で報告しておいたので、調査の方はもう進められているはずだ。気持ちが逸るのを感じながら、打ち合わせスペースへと足を進めていく。
「では、やはり国立医療科学研究センターに?」
 ビンゴというからにはそういうことだろう。空いていた篤史と遥の間のパイプ椅子に座りながら尋ねる。剛三と悠人はそろって真剣な面持ちで頷いた。それを受けて、篤史が散らばった紙を選び取りながら答える。
「今朝メルローズを攫ったあと、車はまっすぐ国立医療科学研究センターの方へ向かっている。主にNシステムの情報だから、実際にそこへ行ったかどうかまでは捉えられていないが、状況と合わせて考えるとほぼ間違いないだろうと思う」
 誠一の前にいくつもの紙が無秩序に置かれていった。一枚の地図と複数の画像だ。それぞれ赤文字で対になる番号が書き込まれている。地図上の番号は橘家付近から国立医療科学研究センター付近まで続き、それらに対応する番号の画像にはすべて同じ車が写っていた。その意味するところを理解して頷くと、悠人が静かに補足を入れる。
「国立医療科学研究センターは昨年末に地下を改装し、新しいベッドや医療器具、実験設備などを一気に揃えている。おそらく、我々怪盗ファントムにメルローズを奪わせて、そちらに移すつもりで準備をしていたのだろう。大地の証言とも一致する」
 公安の目的はもとよりメルローズの方さ――その一連の発言が、誠一の脳裏にまざまざとよみがえる。美咲に実験を継続させるつもりでいるなら、新たに設備を整える必要はないはずだ。やはり美咲は切り捨てられたと考えるのが妥当だろう。
 篤史が画像の車を指さしながら、言葉を継ぐ。
「で、同じ車がまた国立医療科学研究センターへ行って、警察庁に戻ってきた。ついさっきのことだ。多分、大地さんが国立医療科学研究センターの名前を出したから、大急ぎでメルローズを連れ帰ってきたんだろう。警察庁の方が断然安全だろうしな」
「せっかく、お父さまが教えてくれたのに……」
 澪は落胆の吐息を落とすが、武蔵は腕を組んでフッと笑う。
「いや、無駄じゃなかったぜ。警察庁にいると判明したのはそのおかげだからな。それに、メルローズを警察庁に幽閉している限り、人体実験を進めることは出来ないだろう。つまり、当面メルローズの無事は確保されたってことだ」
「でも、いつまでもこのままじゃないよね」
 遥は頬杖をつき、悠人や剛三に視線を送りながら問いかけた。
「国立医療科学研究センターのセキュリティを強化するか、他の研究施設に変更するか、あるいは警察庁内部に設備を整えて実験を進めるか。あやつらが取り得る方法はそのあたりだろうな」
 剛三の答えに、各自が思案を巡らせる。
 誠一には、他の方法は何も思い浮かばなかった。挙げられた中で最もありえそうなのは、他の研究施設への変更ではないかと思う。セキュリティを強化するにしても限度があるし、警察庁内部で実験というのはあまりにも危険すぎる。どのような実験を行うつもりかは知らないが、高エネルギーを取り扱う以上、失敗すれば大爆発が起こるかもしれないのだ。
「南野さん」
 誠一はその声で現実に引き戻される。顔を上げると、真剣な眼差しで見つめる悠人がいた。
「メルローズが警察庁内のどこにいるか、探せませんか」
「探してはみますけど……自分にはほとんど何の権限もありませんし、協力を頼める仲間もいないので、発見の可能性は低いのではないかと思います。いまだに橘大地さんの拘留場所さえ把握できていませんし……あ、そういえば」
 瞬間、まわりの皆が一斉に振り向いた。誠一はビクリとして少し上体を引く。
「あっ、いえ、メルローズの話とは全然関係ないんですけど、大地さんから伝言を預かっていたことを思い出しまして……その、楠さんへの……」
「大地から、僕に?」
 悠人は見当がつかないとばかりに眉をひそめた。
 誠一は小さく頷いたあと、あたりに目を配りつつ声を低める。
「でも、ここではちょっと……」
「構わないから言ってくれ」
 強い口調で促されるが、それでも踏ん切りは付かなかった。どういう意味があるのかは知らないが、あんなことを本当にみんなの前で言ってもいいのだろうか。後悔するのではないだろうか――そんな心配をよそに、悠人はますます苛立ちを募らせて声を荒げる。
「変にコソコソすると、またみんな疑心暗鬼になるだろう」
「それは、そうかもしれませんが……」
「大地に言われて困るようなことは何もない」
 躊躇う理由をわかっているとは思えないが、ここまで言われては仕方がない。意を決して顔を上げると、集まっていた皆の視線を敢えて無視し、彼の目をじっと見つめて言葉を落とす。
「愛してるよ、って……」
 ピキッ、という音が聞こえそうなくらい、悠人は一瞬のうちに表情を凍りつかせた。無言のまま手元の紙をぐしゃりと握り潰す。誠一は思わずビクリと身をすくませるが、剛三はさすがに動じることなく、訝しげに眉をひそめて尋ねかける。
「どういう意味だ?」
「意味なんてあるわけないじゃないですか。私をおもちゃ代わりに弄んで面白がっているだけです。大地は昔からそういうヤツでしたから……いつだって、人の気も知らないで……」
 悠人はどうにか理性を保ったままそう答え、奥歯をグッと食いしばった。しかし、剛三はその話を鵜呑みにしていないようで、頭に血を上らせている悠人を刺激しないように、めずらしく遠回しな言い方で聞き出そうとする。
「この状況で言い出したのは、何か意味があると思うが」
「そんなものありませんよ。大地はただ……あっ……」
「どうした?」
 悠人は遠い目をして動きを止めていた。ふと真剣な顔になると、ゆっくりと顎を引いて静かな声で言う。
「大地は、自分を救出しろと言っているんだ」
「えっ?」
 話の飛躍に、澪は目をぱちくりさせて戸惑いの声を上げる。
 しかし、悠人はすっかり決意を固めたように、曇りのない眼差しで前を見据えていた。
「大地を警察庁から救出する」
「あの、どうしてそうなるんです?」
「遠い昔の約束だ」
 彼の答えは要領を得なかったが、じっと物思いに耽るような表情を見ていると、それ以上は踏み込めない気持ちにさせられる。澪も薄く口を開いたまま何も訊こうとしなかった。しかし、悠人はその場の微妙な空気に気付いたのか、急に背筋を伸ばし、取り繕うかのように端然とした口調で続ける。
「大地が今になってそれを望むということは、何か重要な情報を掴んだのかもしれないし、美咲のことで何か話したいのかもしれない。メルローズ救出の手がかりになる可能性も大いにある。どういうつもりにしろ、大地がその気になったのなら救出して損はないはずだ」
 後付けに感じたが、その理由は十分納得のいくもので、誰も異を唱えはしなかった。ただ、武蔵はあからさまに眉をしかめていた。救われるべきメルローズを放置したまま、元凶の一人である大地を救出するなど、彼からすれば不快に感じるのも当然である。それでも、メルローズ救出の突破口になるのであれば、反対することはできないだろう。
 悠人はやにわに覇気を取り戻し、迅速に仕切り始める。
「篤史、警察庁の見取り図は手に入れられるか?」
「やってみる」
「他にも使えそうな情報を出来るだけ集めてくれ」
「わかった」
 篤史は手元に置いてあったノートパソコンを開き、キーボードを打ち始めた。
「南野さんもどうかご協力をお願いします」
「自分に出来ることなら協力はしますけど……」
 誠一はそう答えながら、無意識にうつむいて顔を曇らせた。もっと慎重に事を進めた方が良いのではないか、いくら何でも無謀すぎるのではないか、不安が次から次へと波のように押し寄せてくる。そんな心中を見透かしたかのように、篤史は手を止めてニヤリと口の端を上げた。
「俺たちは怪盗ファントムだぜ?」
「……ですが、警察庁のセキュリティは美術館とは比べものになりません。それに、たとえ証拠も残さず完璧に救出できたとしても、犯人が橘の人間であることはほぼ特定されます。大地さんが拘留されていることさえ、私たち以外はほとんど誰も知りませんから」
 彼らが数々の盗みを成功させてきたのは事実であり、それに関して誇りと自信をもっていることは理解できる。だが、今回の件についてはこれまでとあまりにも勝手が違うのだ。誠一の冷静な指摘に、篤史は虚をつかれてぱちくりと瞬きをしたが、剛三は少しも動じることなく鷹揚に言い返す。
「もともと不当に勾留されているのを返してもらうだけだ。もちろん奪おうとすれば阻止しに掛かるだろうが、我々がやったとわかっても逮捕したりはせんだろう。あちら側も表沙汰にしたくないことだからな」
 表沙汰にしたくないというのはその通りだが、それでもみすみす見逃してくれるとは思えない。正式な逮捕でなくても拘束する手段はいくらでもあるのだ。どちらにしろ、付け入る理由を与えることになるのは間違いない。
「心配するな。警察をクビになったら雇ってやるわい」
「あ、いえ……それはもう覚悟していますから……」
 誠一が案じているのは自分ひとりのことではなく、橘財閥への影響と、このことに関わる各個人の身の安全である。公安も橘も次第に手段が強硬なものになってきており、このままでは取り返しの付かない事態になりかねない。しかし――。
「ならば、快く協力してくれるな」
「……はい」
 態度も口調も決して威圧的ではないのだが、どこか抗いがたいものを感じ、胸につかえを残したままそう返事をした。もう少し慎重に進めてほしい気持ちはもちろんあるが、こうなってしまったからには腹を括るしかないだろう。こちらの様子を覗っていた悠人に真剣な眼差しを返し、ゆっくりと頷いて見せた。

 ノートパソコンの打鍵音が軽快なリズムを刻む。
 まず最初の標的は警察庁内部の見取り図である。それを手に入れなければ計画を立てることさえできない。手伝う技量のない誠一たちは、篤史のハッキングをおとなしく待つしかなかった。時折、壁にぶち当たったような難しい顔を見せていたが、悠人との会話からすると、今のところは大きな問題もなく進んでいるようだ。

「澪、君はもう部屋に戻って休んだ方がいい」
「そんな、まだ寝るには早いです」
 悠人が腕時計を確認して退出を促すと、彼女は不服そうに抗議の声を上げた。まだ九時をまわったばかりであり、確かに高校生が寝るには早い時間だ。しかし――。
「倒れたばかりなんだから無理をしては駄目だよ。田辺医師にも十分な休養をとるよう言われている。澪の気持ちもわかるけど、ここで無理したらまた倒れかねないからね。いつものように、計画については僕たちに任せておいて」
「……わかりました」
 もうずいぶん前のように感じるが、澪が倒れたのは今朝のことである。次から次へと事が起こり、落ち着いて寝られる状況ではないかもしれないが、せめて体だけでも休めておくべきだと誠一も思う。
 ガシャリ、とパイプ椅子が耳障りな音を立てた。
「ねえ、誠一?」
「ん?」
 澪は立ったその場で深くうなだれたまま、動きを止めていた。漆黒の髪がカーテンのように降りているため、誠一から表情を窺うことはできない。ただ、落とされた声はとても繊細で、心なしか震えているような気がした。
「私たちのことについて、お父さまと何か話した?」
「あ、ああ……」
「お父さま、何て言ってた?」
 落ち着いて話そうとしているようだが、逸る気持ちは隠せていない。彼女の鼓動は早鐘のように打っているだろう。同様に、誠一の鼓動もうるさいくらいに騒いでいる。それでも、外野からの刺すような視線を受け流し、声が上擦らないよう慎重に答えを紡ぐ。
「二人とも可愛いと思ってるって、可愛がってきたつもりだって」
「そう……」
 薄い唇から、消え入りそうな吐息まじりの相槌が零れた。安堵したような、落胆したような、信じ切れないような、不安定に揺らいだ複雑な感情がそこから見え隠れする。誠一はどんな言葉を掛ければいいかわからず、ただそっと口を引き結んだ。
「澪が会いたくないのなら、大地と顔を合わさずにすむよう配慮する」
 不意に、悠人が提案する。
 同じ家で顔を合わさないなど不自然ではあるが、それが現実的に可能な唯一の対処法かもしれない。しかし、澪はうつむいたままゆっくりと首を横に振ると、ニコッと小さく微笑んで彼に振り向いた。
「大丈夫。むしろ会って話をしたいから」
「……わかった」
 無理して明るく振る舞っていることは一目でわかった。だが、会って話をしたいというのも、彼女の本当の気持ちではないかと思う。悠人もそう感じたからこそ、気遣わしげに表情を曇らせながらも、否定の言葉を呑み込んだに違いない。
 遥が机に両手をついて立ち上がった。
「行こう、澪」
「うん……」
 そんな言葉を交わすと、当たり前のように自然に澪の手を取って歩き出す。彼の彼女に対する無条件の庇護と、彼女の彼に対する絶対的な信頼が、二人の様子からありありと伝わってきた。それは、二人が過ごしてきた17年の年月が培ってきたものである。
 いつか、遥の役割を担えるときがくるのだろうか――。
 手を引かれて書斎をあとにする彼女を見送りながら、誠一はそんなことを考えた。疼くような胸の痛みは、その難しさを自覚しているからかもしれない。それでも、諦めるなどという弱腰の選択をするつもりはなかった。

 二つの足音は次第に遠ざかっていく。
 打ち合わせ机の人間は誰も口を開くことなく、じっと耳を澄ましてそれを確認していた。やがて、聞こえるのが微かな空調音だけになると、武蔵は腕を組んでパイプ椅子にもたれかかったまま、誠一にゆっくりと険しい視線を流して問いかける。
「本当は、何て言っていた?」
「嘘は言っていません」
 誠一は前を向いてきっぱりと答える。
「愛する美咲の遺伝子を継いでいるから可愛いと思うのは当然だろう、と大地さんはそういう言い方をしていました。ただ、実験を行ったことへの後悔や、澪と遥への申し訳なさは、彼の言動や態度からは何ひとつ感じられません。二人のことを人間だとも認めていないようです」
 父親がこのような考えであるなど澪には知られたくない。しかし、彼女が直に会って話をすることを望んでいる以上、無理に会わせないようにしても不信感を募らせるだけだ。これは澪自身が向き合うべき問題かもしれない。悠人も武蔵も同じ意見なのか、口を閉ざしたままやるせなさを滲ませていた。
「おい」
 武蔵は顔を上げ、そのやるせない気持ちをぶつけるように剛三を睨めつける。
「大地ってのはあんたの息子なんだろう」
「ああ、そうだ」
 剛三は平然と返事をする。その微塵も責任を感じてなさそうな態度に、武蔵は顔をしかめて不快感を露わにした。しかし、すぐに落ち着きを取り戻して真顔になると、固く握ったこぶしを見せる。
「あいつ、一発殴ってもいいか?」
「殺さん程度にな」
 会話する二人の間で、悠人は机に置いた両手を重ねてグッと力を込めていた。無表情ではあるが、それでも激しい感情を押し殺しているのが見てとれる。気持ちは誠一にも理解できる。大地の友人として、美咲の友人として、そして澪と遥の親代わりとして、このまま黙ってはいられないだろう。
「……殺すなよ」
 剛三は低い声でそう牽制する。しかし、聞こえているのかいないのか、悠人はうつむいたまま何の反応も返さない。ただ、机に置いた両手だけが微かに震えていた。


…これまでのお話は「東京ラビリンス」でご覧ください。

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