瑞原唯子のひとりごと

「東京ラビリンス」番外編・青い炎 - 永遠に(最終話)

 凍えるような北風が吹きすさぶ薄曇りの中。悠人は小さな公園の薄汚れたベンチに座り、ぼんやりと鈍色の空を見上げていた。ふいにこぼれた溜息が白い靄となる。こんなところで無為に過ごしている男が、ロングコートの下にシルバータイの礼服を着ているなど、誰も思わないだろう。
 今日で美咲は十六歳になり、大地と結婚する。
 本日身内のみの小さな結婚式を挙げ、春に披露宴を催す予定になっている。美咲の誕生日に結婚したい、結婚式を挙げたい、という大地がわがままでそういう形になったのだ。披露宴の方は親戚一同や会社関係者なども招待し、後継者である大地のお披露目も兼ねて、盛大に行うと聞いている。
 悠人は身内ではないが、身内同然ということで結婚式に参列するよう言われている。当初は剛三や瑞穂とともに式場へ向かうことになっていたが、用があるからと断りを入れて先に出てきたのだ。
 本当は用なんかない。ただ気持ちを落ち着けるための時間がほしかっただけだ。
 自分の往生際の悪さには呆れかえる。希望など微塵もないと頭では理解しているはずなのに、心の片隅ではもしかしたらという気持ちを捨てきれずにいた。しかし、そのなけなしの希望も今日で完全に潰えるのだ。大地と美咲は互いを永遠の伴侶に選び、法的に夫婦になる。悠人が二人の一番になることは決してない――。
「おじちゃん」
 トタトタと駆けてきた小さな女の子が可愛らしく声を張るのを聞いて、悠人はぼんやりとあたりを見まわした。だが自分以外には誰もいない。怪訝に思ったそのとき、彼女の目がまっすぐこちらに向けられていることに気付いた。まさか二十代前半でおじちゃんと呼ばれるなど普通は思わない。
「泣いてるの?」
「泣いてないよ」
 にっこりと人当たりのいい笑顔を作ってそう答えながらも、ドキリとする。そんなに泣きそうな顔をしていたのだろうか。自分では感情を表に出していないつもりだったのに。
「これあげる」
 彼女は唐突にそう言って小さなこぶしを突き出した。端からセロファン紙のようなものが覗いている。何だろうと思いながら手のひらを上にして差し出すと、カラフルな包み紙にくるまれた飴玉がひとつ落ちてきた。
「ありがとう」
「元気になってね」
 彼女は真顔で言い、すこし離れたところにいた母親のもとへトタトタと戻っていく。彼女と手をつないだ母親がこちらを見てやわらかく会釈してきたので、悠人も微笑を浮かべながら会釈を返した。
 こんなふうに見ず知らずの人に愛想笑いができるようになったのは、剛三の下で鍛えられたからである。仕事で考えなしに生の感情を晒すのは愚か者のやることだ、相手にどういう印象を与えるべきか考えて態度を決めろ、と日々言われてきた。そして、どんなときでも笑顔を見せられるようにと求められてきた。
 本来、本社の秘書はすべて秘書課の所属になるのだが、悠人だけは社長直属である。剛三には他にも二人の専属秘書がついており、彼らから秘書課の規則など必要事項を教えられたりはしたが、基本的に悠人は剛三のみに従うことになっているらしい。
 仕事内容も他の秘書とは違う。スケジュール調整や電話の取り次ぎなどは他の秘書が行っており、悠人はただひたすら剛三の行く先々に付き従わされている。取引相手のことを癖や雰囲気も含めてすべて記憶しろという。新人だからかと思ったが、先輩秘書から聞いたところによるとやはり異例らしい。
 採用、配属から処遇に至るまで何もかもが剛三の独断で、おまけに彼の自宅に住んでいるということもあり、いつしかおかしな噂が囁かれるようになっていた。悠人は橘社長の“お気に入り”なのではないかと。一部の社員には陰で小姓と呼ばれているらしい。剛三に相談したら「放っておけ」の一言で片付けられた。大地に言ったら「ひどい災難だな」と大笑いされた。完全に他人事だ。
 そんなことを考えながらぼんやりしていると、さきほどの母娘が手をつないで公園を出て行くのが見えた。何となく目で追っているうちに、娘がその視線に気付いたのか小さな手を振ってきた。悠人もにっこりとして手を振り返す。
 すこし、美咲に似ていたな。
 彼女の幼少期の姿は見たことがないが、控えめながらも黒目がちな目、どちらかというと薄めの顔立ち、透明感のある白い肌、絹のように艶やかな黒髪など、系統としては似ているのではないかと思った。漠然と思考をめぐらせたまま、さきほどもらった飴の包み紙を開いて中身を口に放り込む。静かに舌で転がすと甘ったるいオレンジの味が広がった。

「悠人さん」
 ノックをして花嫁の控え室に入ると、純白のウェディングドレスを着た美咲が振り返り、ふわりと花がほころぶような笑顔で声をはずませた。衣装のチェックをしていたのだろうか。傍らにいたスーツ姿の女性が、絨毯の床に大きく広がった裾の位置を直している。
 ウェディングドレスは腰からふんわりと広がる可愛らしくも上品なデザインだ。胸元は大きく開いておらず、肩には丸みのある袖がついており、胸元には花のコサージュがあしらわれている。小柄で幼い顔立ちの彼女にはいい選択ではないかと思う。
「似合っている」
「本当?」
 美咲はすこし照れたようにはにかんだかと思うと、パッと顔を上げて言葉を継ぐ。
「悠人さん、私と写真を撮ってくれる?」
「ここで?」
「いま外に出るわけにはいかないから」
「まあ、構わないが……」
 気乗りはしないものの断る理由がなく、曖昧に返事をする。
 美咲は傍らの女性に写真撮影をお願いして悠人を隣に呼び、控えめに腕を組んだ。女性の掛け声とともにシャッターが押される。美咲は微笑んでいたようだが、悠人はどうすればいいかわからず真顔になってしまった。不自然にこわばっていないことを祈るしかない。
「写真、出来たら悠人さんにも渡すわね」
「……ああ」
 彼女とふたりきりの写真はこれが初めてである。きっと最初で最後になるだろう。それが他の男に嫁ぐためのウェディングドレス姿とは、悠人でなくても複雑な気持ちになるに違いない。そんな心境を知ってか知らずか、美咲はニコニコと愛らしい笑みを浮かべている。
「久しぶりね、こうやって二人で話をするなんて」
「そうだな」
 大地を交えて三人では普通に話をするようになっていたが、二人だと挨拶程度しかしていない。そもそも二人になる機会自体が滅多にない。せいぜい屋敷の中ですれ違うくらいだ。
「最近ますます忙しそうだが、大丈夫か?」
「自分で決めたことだから頑張らないと」
 美咲は肩をすくめる。
 無理に高校進学しなくてもいいのではないかという話はあったが、彼女自身の希望により有栖川学園高等部に進学した。私用での欠席を許されるなどかなり融通されていると聞いている。実際、出席日数が足りないのではないかというくらい欠席しているが、進級には支障がないという。
 もちろん欠席して遊んでいるわけではない。かねてより計画していた美咲のための研究所が完成し、少数精鋭のスタッフとともに本格的に研究を始めているのだ。まだ未成年の彼女に代わって大地が所長を務めており、彼も研究所に顔を出すなど忙しそうにしている。戦友――彼が二人の関係をそう表現していたことを思い出した。
 最近では結婚式や披露宴の準備にも時間を取られていた。細かいことは母親の瑞穂や式場の人に任せているようだが、それでもドレスを決めたり、サイズを測ったり、衣装を合わせたりというあたりはどうしても美咲本人が必要になる。忙しい中、瑞穂や大地に連れられて何度も打ち合わせに出かけていた。
 自分で決めたことだから、と彼女は言っていたが、悠人には大地の意向に従っているだけにしか見えなかった。高校進学は彼女の希望にしても、美咲のための研究所を作ろうと言い出したのは彼であり、美咲の十六歳の誕生日に結婚すると駄々をこねたのも彼だ。
 結婚自体についても美咲が喜んで了承したとは限らない。フェリー事故で助けてもらったことに恩義を感じていたら、そこにつけ込まれて体を奪われ、逃げられなくなっただけではないだろうか。穿った見方かもしれないがずっとそう感じていた。今まで言う機会はなかったし、言うつもりもなかったが――。
「本当にいいのか? 大地と結婚して」
 そう尋ねると、彼女はきょとんと目を瞬かせて小首を傾げた。
「今ごろどうしたの?」
「今ならまだ間に合う」
「心配いらないわ」
 笑いながら答えているが本心かどうかはわからない。
 自分の往生際の悪さにはほとほと呆れかえるが、これが最後の機会なのだ。彼女に後悔させたくないし、悠人も後悔したくない。ただ、間に合うとは言ったものの実はあまり自信がない。剛三はかねてより美咲の意思を尊重するという考えなので、彼女が訴えれば何とかなるかもしれないと望みは持っている。
「感謝の気持ちだけで一生を捧げるつもりか?」
「お兄ちゃんが好きだからよ……誰よりも」
 彼女はまっすぐ射るように悠人を見据えて真剣に告げた。まるで引導を渡すかのように。説得になびく可能性はほとんどないだろうとは思っていたが、まさかこれほどまで明確に態度で示されるとは予想外で、口を半開きにしたまま絶句してしまう。
「でもありがとう、心配してくれて嬉しかった」
「…………」
 一転してはにかんだ表情に、ほんのすこし陰を感じたのは気のせいだろうか。悠人の往生際の悪さが見せた幻影だろうか。逡巡しながらも口を開くことができずにいると。
「美咲、準備できた?」
 ノックもなしに扉が開き、すっかり衣装を整えて新郎らしくなった大地が入ってきた。純白のウェディングドレスに身をつつんだ美咲を目にすると、一瞬で顔をほころばせて極上の甘い笑みを浮かべる。
「やっぱりいいね……とてもきれいだよ、美咲」
「ありがとう、あとはベールをつけるだけ」
 二人は見つめ合いながら話をする。気付いているのかいないのか悠人の存在など完全に無視だ。もう黙って退出した方がいいのだろうかと悩んでいると、ようやく大地がこちらに振り向いた。まるで非難するかのような冷ややかなまなざしで。
「ところで、なんで僕のところに来ないで美咲のところにいるわけ?」
「おまえのところには剛三さんと瑞穂さんがいたから遠慮しただけだ」
「遠慮、ねぇ……」
 じとりと視線を流しながら含みのある物言いをする。
 だが、それが嘘偽りのない事実なのだから仕方がないだろう。結婚式前に親子三人がそろっているところへ邪魔する勇気はないし、邪魔していいとも思えない。結果的に美咲と二人で話ができて良かったとは思うが、決して狙ったわけではないのだ。
「あの、そろそろお支度の仕上げをしたいのですが」
 妨げにならないよう隅に下がっていたスーツ姿の女性が、遠慮がちに声をかけてきた。腕時計を見るとあと二十分ほどで結婚式の開始時刻だ。
「おまえはチャペルの方に行ってろよ」
「ああ」
 もちろん準備の邪魔をするのは悠人の本意ではない。言われるまま素直に出ていこうとするが、ドアノブに手をかけたところでふと動きを止めた。そしてゆっくりと呼吸をして意識的に力を抜くと、わずかに振り返る。
「結婚おめでとう。良かったな、運命の相手が見つかって」
「ああ、美咲にもおまえにも出会えて本当に良かった」
「……は?」
 なぜそこに自分が入っているのかわからず、思いきり怪訝な顔をするが、大地は面白がるようにくすっと笑った。
「悠人と出会ったのは最初から運命だと思っていたよ」
 運命だと思ってあきらめて――出会ったころ、勝手にしつこく付きまとってきたあげく、きれいな笑顔でそう言い放ったことなら覚えている。悠人のことなど暇つぶしの飼い犬としか思っていないくせに、甘言で懐柔しようとするのは今も昔も変わらない。これまでは一喜一憂してきたが、もういちいち振りまわされたりしないと心に決めた。
「これからもよろしくな、永遠に」
 そう言った彼の口もとが意味ありげに上がる。
 悠人はグッと唇を引きむすび、返事の代わりに一睨みすると勢いよく控え室をあとにした。

 チャペルの扉がゆっくりと開き、白い光が広がる。
 そこから和装の瑞穂にエスコートされて美咲が入場してきた。なぜ父親の剛三ではなく母親の瑞穂なのかは知らないが、おそらく大地の意向ではないかと思う。穏やかな笑みを浮かべてエスコートしている瑞穂とは対照的に、美咲はひどく緊張しているようだ。一歩一歩、ぎこちない足取りで祭壇にいる大地に向かって歩いていく。
 裾を引きずるほどのドレスなので歩きづらいだろうし、そもそもそういう歩き方をする決まりなのだろうが、悠人の勝手な気持ちとしてはさっさと行ってほしかった。さっさと終わらせてほしかった。時間をかけられるだけ息が詰まって苦しくなる。
「悠人、しっかり見ておけ」
 隣の剛三に小声でそう言われて、いつのまにか視線をそらしていたことに気が付いた。明確に言葉にされたことはないが彼は間違いなく察している。悠人が大地にどういう気持ちを向けているのかを。どんなにつらくても逃げることなく最後まで見届けて、気持ちにけじめをつけろ――そう叱咤されている気がした。
 祭壇の前に並んだ二人を見つめる。
 皆で賛美歌を歌い、聖書が朗読され、祈りが捧げられる。結婚の誓いを問われると二人ともためらいなく「誓います」と答えた。指輪を交換した二人はこのうえなく幸せそうに見えた。誓いにしては長すぎるキスはまるで見せつけるかのようだった。
 じりじりと胸が焦がされていくのを感じる。笑顔で祝福しなければならないのに笑うことができなかった。感情とは無関係に愛想笑いができるようになったと思っていたのに。
 気持ちにけじめをつけなければならないことは理解しているが、だからといって簡単に切り替えられるほど器用ではない。そんなことができるならここまで引きずってはいなかった。きっとこれからもこの想いを燻らせていくのだろう。仲睦まじい二人を誰よりも近くで見守りながら。


…本編・他の番外編・これまでのお話は「東京ラビリンス」でご覧ください。

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