世界中の”いのちの水”を巡る旅

世界中の旅を通して、癒し、浄化、変容、開運方法を紹介しています。

癒しの街 チェンマイ その①

2023-07-05 09:48:53 | 旅行

 前回のブログに書いた、亡くなった友人と出会ったのがタイの古都チェンマイ。当時彼は奥様と、一年半の間世界中を旅していて(なんと50カ国)、最後に辿り着いたのがチェンマイだったという。

 そして、あまりの居心地の良さに2ヶ月間も滞在し、奥様がわたしと同じ歳だったこともあって、意気投合し、お互いに同じチェンマイのマッサージの学校で学び、近隣の様々な観光地にも一緒に訪れた。

 もう10年以上も前の話だけど、思い返すと、改めてチェンマイは不思議な癒しの街だったと感じる。

 これは意外と他の国の人には驚かれることだと思うけど、タイでは、子どもの頭を決して触ってはいけない。それがたとえ、親や親しい間柄であっても、だ。

 つまり、他の国では日常的に行われている、赤ちゃんや小さな子に、可愛いね、と言って頭を撫でたりするということは、決してしてはいけないのだ。

 タイでは、頭は精霊と繋がっている神聖な場所だと考えられているから、ということなのだけど、つまり、子どもが神聖な存在であり、尊厳を持って対するべきだという意識の表れなのだと思う。

 

 考えてみれば、赤ちゃんや子どもの頭を撫でる行為は、彼らより体が大きな他の人間にしかできない。その時点で、こちらから一方的に頭を撫でるという行為が、それがたとえ愛着からであっても、身体的な優劣を感じさせる行為であることは間違いないと思う。

 

 赤ちゃんも幼い子も、まだ自由に動けないのに、勝手に抱っこされたり頭を撫でられたりキスをされたりするのは、彼らの人権を尊重している行為とは言い難いことだと思う。

 わたしは、2歳くらいの頃に、親の知人だけど、何度か知らない人に突然抱っこされて頬にキスをされたりしたことがあり、それがすごく嫌だったという記憶が鮮明にある。

 大人の状況や心理をまだ理解できない幼児にとって、そのようなスキンシップを取られることは、どのような影響があるのだろう。そもそも幼児期は、この世界のあらゆること、自分の身に何が起こっているのかも、理解することができない。

 そのことを考えると、幼児のわたしにとっては、その体験はただ不快なだけでなく、同時に大きな恐怖も伴って、トラウマになってしまったのではないかと思う。

 この体験を鮮明に覚えてはいるけど、当時の自分の心理状態は今でも言葉で説明することはできない。ただ、名前をつけることができない無数の感覚や感情の渦の中に自分が飲み込まれているような感じ、だ。

 こういう体験を子どもがした場合、その体験を理性で理解をして、時間と共にそれを癒すということができない。

 わたしはその後の成長過程で、同じような状況や場面に出会うと、嫌悪や恐れを感じるようになってしまい、それをどうすることもできないと思っていた。(そしてそれが幼少期の体験のせいかもしれないと気づいたのも、大人になってからずいぶん後だった)

 だから、このタイの人の子どもに対する尊重や尊厳の仕方、在り方というのは、とても素晴らしいことだし、子どもの情緒の形成にとっても、とても重要なことだ思う。

 チェンマイにいると、知らない人たちが周りにいても、なぜかのんびり心地よくいられる。人疲れや気疲れすることが、圧倒的に少ない。

 日本や他の国の常識になっているような、心理的な社交辞令や、サービス精神やお義理の習慣が、タイではほとんど省かれていると思う。

 例えば、英語圏では、How are you?と挨拶をして、その後何かしら気の利いた会話をしなければならないようで、それが相手に対する礼儀のようだ。(How are you?と挨拶をされて、例えば正直に、最悪の気分だ、などと答えることは許されないだろう)

 日本でも、お辞儀をしたりお礼を言ったり、不確かな次の約束をしたりなど、様々な社交辞令や作法は日常的にたくさんあると思うけど、タイに行くと、お店だけではなく、ある程度顔見知りになり親しくなったりしても、お礼の言葉だけではなく、ちゃんとしたあいさつ自体を全くしない感じなのである。

 だからと言って、冷たい感じは無いし、無視してる感じでもない。子どもが普通に、子ども同士で接するのに近い感じなのだ。(子どもが友達に社交辞令などはしないように)

 

 もちろん、途上国では一般的にこのように社交辞令などの習慣は少ないと思うし、それは教育のレベルも大きく影響していると思うが、その中でもタイの人は敬虔な仏教徒で、生きとし生けるものを慈しむ精神や、仏や神に祈ること、お金があまり無くても日常的に寄付をし、助け合いの精神がとても強いことなど、コミュニティの中で、信仰による人々との繋がりや信頼はとても強い。

 

 とにかくタイでは、今この瞬間を生きているという意識が強いのだと思う。例えば、過去のことを話したり、そのお礼をしたりなどということがないのか、わたしがたまに「この間はありがとう」などというと、怪訝な顔をされたことが何度かある。覚えていないわけではなく、そのようなことをする習慣がないのだ。

 

そしてなんと、タイ語には時制がない。つまり動詞に変化がなく、昨日、とか明日、などをつけて表現する。このことも、彼らが今の瞬間を生きているように見えることと、関連があるのではないかと思う。

 

 余計な気を使わず、極力無駄なことをせず、今の瞬間を生きられる、というのは、とても合理的に幸せになれる生き方ではないかと思う。そんな風に生きられるなんて日本ではなかなか体験できなかったわたしとしては、滞在していてほんとうに自由で楽だった。

 

 こんな風にタイの人は、ただ心地よいか、良くないか、の感覚を基盤に生きているように見えるけど、その根底には、子ども時代の環境で培われた、健全な自己尊重があるからではないかと思う。

 

 チェンマイにはトータル2年ほど滞在したけど、親や大人が子どもを叱っている場面は、一度も見たことがない。どんな人混みで、子どもが泣いたりぐずったりしていても、だ。

 そして、皆とても子煩悩。タイの人はとにかく可愛いものが大好きで、大人でも、おじさんでも、タイの人自体が皆とても可愛らしい。いつも子どものようにはにかんで、ニコニコしている。

 

 それにそもそも、大きな声を出す子どもも大人も見たことがない。チェンマイは大きな街だし、人混みも騒音もあるのに、本当に見たことがない。怒鳴るなんていう言葉は、タイの人の辞書にはないのではないかと思うほどだ。

 わたしは、ふつう子どもは大きな声を出すものだと思っていたけれど、それはやはりそのようにしなければならない環境下で起こることなのだと思う。周りの大人を模倣して。

 

 また、タイ語は、ミャオミャオ、という猫のような発音をしているのだけど、タイの人の話し方はソフトでささやくようで、その発音も相まってか、まわりでタイの人が話をしていても、まるでBGMの音楽のように聴こえる。(タイ語がわからないので、さらにそのように感じるのかもしれないけど)

 

 チェンマイは音楽スポットとしても有名で、夜になると様々なレストランやバーなどで生演奏が行われているのだが、選曲にしても演奏技術にしても歌にしても、とにかくとてもレベルが高くて驚く。素人だからうまく説明できないけど、全てのサウンドが心地良い。アップテンポの曲であっても、疲れず、うるさいと感じることもない。チェンマイの人は、音楽やサウンドに関してもとても敏感で、繊細な感覚、感性を持っているのだと思う。

 また、演者の気負いやプレッシャーのようなものがまったく無く、ただただ本人たちも心地よく楽しそうにマイペースに演奏をしていて、こちら側もそれを感じてリラックスでき、いつまでも聴いていたいと思える。

 

 そしてチェンマイには様々な素敵なお店や宿泊場所がたくさんあるのだけど、やはり同じように、心地よい癒しの空間で、アートや内装のセンスも、ホッとできるような可愛らしくて笑えるものなどがあったりして癒される。

 

 また、熱帯モンスーン気候で雨も多く、街中に様々な植物、樹々、花々が咲き乱れていて、スコールの時も、植物や街が綺麗になり、潤って美しい。果物や野菜が豊富で、古くからの食養生の文化や、植物を使った代替療法、マッサージセラピーが多様にあり、それらセラピーを受けたり学びに来る人たちでも溢れている。

 

 彼らの提供するあらゆるサービスから感じられる、ただ、心地よいか、心地よくないか、という感覚。

 

 シンプルに、どんな物事にもこれを当てはめてみると、自分が正しいと頭で考えていたことが、実は違っていたり、それは過去では通用したけど、今の自分の感覚には微妙に合わないなど、様々な発見がある。

 

理屈や理論よりも、感覚の方が嘘がない。

 

何事も感覚に従うことで、必要なことがインスピレーションとして降りてくる。

 

 外国に滞在すると、自分が長年生活をしてきた場所で当たり前にしていたことや生き方が、本当はどれだけストレスを感じていて無理をしていたのかとか、自分が真に求めていたことを見えなくさせていたのかを、頭ではなく体感して理解できる。

 

 癒しを求めている人たちには、セラピーも豊富にお手軽にあり、食事も美味しいチェンマイは、本当におすすめできる場所。

 

 最近は、断捨離やソロ活やミニマリストなどが注目されているけど、同じ場所に生活しながらそのような変化をすることに難しさを感じる人がいたら、やはり一度環境をガラリと変えて、外国を旅をすることが一番だと思う。何の努力をすることなく、意識や考え癖の断捨離が一瞬で起こるのだから。

 

まずは心の断捨離から。それができたら、現実はあとから勝手についてくるものだと思う。

 

ほんとうは、私たち一人一人の意識が、目に映るもの全てを創造しているのだから。

(写真はチェンマイにあるFern Forest Café)