コペペ スタイル

コペペさんと言う先人のライフスタイルを想像し、小笠原のネイティブになるためのライフスタイルを伝えていきます。

アイランドカルチャー

2012年07月27日 | 報告書

何日も雨が続いたあと、いきなり夏の陽射しが地面を照らすと、「もあー」
っとした暑い大気が辺り一面に漂ってくる。そんな日の夕方、森の中から「カラカラカラカラ」という鳴き声が聞こえてくる。オオヒキガエルの喜びの歌だ。
ベランダから森を見ると、一面から、フワフワと煙のように湧いてくるものがある。
生命の爆発、シロアリのニンフ、羽アリの乱交パーティーが始まる。
 沖縄、九州が梅雨入り宣言をすると小笠原は、いよいよ本格的な夏のシーズンが始まる。
何度か生命の爆発を体験したあと、7月に入れば蒸し暑さから心地よい乾いた暑さへと変化していく。
7月21日小笠原神社の例大祭の出し物、アウトリガーカヌーレースの日が今年も近付いてきた。小笠原は、日本でただ一箇所ポリネシア文化が伝わった場所、アウトリガーカヌーもハワイから伝わってきたものだ。アウトリガーカヌーとはアマというフロートを自転車の補助輪のように繋げた船のことで、太平洋の多くのエリアで使われていた乗り物だ。この船と伝統航海術の進歩によりポリネシア人は見えない島を見つけることができたのだと私は思っている。だから、ハワイのフラもイースター島のモアイ像もこの船がなければこの地球上に存在しなかったかもしれない。
今年で14回目になるこのレースにアウトリガーカヌー部門を5年前に作ってからウナギ登りに参加者が増え今年は選手だけで300名を超える勢いとなっている。
人口2000人の島では脅威的な数字といえる。
7月に入ってPカンべた凪の日が続く扇浦に朝の5時から、なんと100人近い人たちが集まり21日のレースに向けてアウトリガーカヌーの練習をしている。
 いよいよ小笠原発見人力レースの当日がやってきた。
65チームが予選タイムを計測し、男子混合部門上位8チームと女子上位4チームが決勝トーナメントに進む。
4人の漕ぎ手にもそれぞれ役割があり、一番前に乗る人が全体の漕ぐペースを決めて漕ぐ、二番手は、一番手の反対側を漕ぐ、三番手は一番手と同じ側を漕ぎチームの状態を見て左右をチェンジする掛け声をかける、ある意味ムードメーカーという存在。もちろん2番3番手は推進力としてのパワーも必要となってくる。そしてしんがり4番手はステアマンとしてカヌーの舵を取る。ただ四番手が舵とりだけをしていたのでは、レースに勝てない。できるかぎり舵とりの時間を少なくして推進力として漕がなければならない。もちろん4人のリズムをあわせることがカヌーのスピードを上げる一番の要因だろう。
 今年は特に小学生のチームが6チームも出場し、大会を盛り上げてくれた。そして決勝トーナメントも接戦が続き熱い戦いを繰り広げてくれた。
島という限られた世界で永続的に生きていくには、心の問題が大きいと思う。閉鎖された島から出ていけないと思うと島の社会が元気をなくす。
自分たちの島のもので自分たちの技術で、船を造り、別の島へ渡れる力を持ち続けること、化石燃料がなくとも外洋に出て魚を捕ってくること、それが島で永続して生きていく上で重要なことだと思う。
 このアウトリガーカヌーはこの島の文化のなかでまさに大きな役割を担っている乗り物だ。なぜなら島の社会を別の世界へ繋げ人と人を繋げる道具だから。
                                                 この島の木でカヌーを作りたい男より



朝5時ウミガメの足跡が残るビーチで練習開始!!

小学生のチームがなんと6チーム





大会当日、準備万端

1番手はビーチにあるフラッグを取る役目



4人の力を合わせてスタート






勝利の美酒 レディース優勝「ボブマーリーの嫁」

淵野辺高校の修学旅行!!

2012年07月08日 | カヌー カヤック
久々高校生らしい子達でした。


南の島のジューンブライド

2012年06月26日 | 日記


プーラン村に1年前から住んでいる、イギリス人のマークは、サーファーでアメリカにあるナロパ大と言う大学でエコサイコロジーをインターネットで勉強している。小笠原では、英会話の先生をしている。ホンジュラス出身のソリエは、おとうさんが日本人お母さんがホンジュラス人の情熱的美人でスペイン語、英語、日本語を自由に操ることができる。
この二人が遂に、結婚を決意した。「6月にネイチャーウェディングをやりたい」とソリエから相談され、なぜ6月なのかを聞くと「6月の花嫁は幸せになれるという言い伝えがあるからよ!」との答え、まさにジューンブライドなのだ。このジューンブライドはギリシャ神話から始まるそうで梅雨のない西洋では、まったく問題はなさそうだが、日本でこの言葉を聞くと結婚式場の閑散期対策のように聞こえるのは、私だけなのだろうか。
特にプーラン村では、あらゆるところが泥だらけになりすべてのものがカビてしまう。そして、たとえ、梅雨が開けたとしても一年の内でもっとも蒸し暑く、もっとも蚊の多い季節で、さらに私にとっては、忙しい夏の季節の始まりを表す気の重い時でもある。
そして当然ネイチャーウェディングとなれば、屋外が会場となる。
それでも、ソリエの意思は固く6月10日に結婚式を執り行うことになった。
 いざやることが決まると島の母ちゃん達のネットワークは、すごい力を発揮し、二人がイメージする結婚式を作り上げていく、プロデューサーは、内のかみさんの千花ちゃん
とにかくこういうことをやらせたら右に出るものはいないだろう。そして式を取り仕切りインタープリターとなるのが豆腐屋の那須くん、おもしろまじめな彼のやる式はとても楽しみだ。
 いよいよ式の当日台風2号がとおり過ぎ梅雨前線を内地へつれて行くかに見えたが、朝起きるとプーラン村は雲の中、不思議なことに木魔王という木の周りだけが雨になっている。式場は、小港海岸のビーチと森の間、その近くにいる友達に電話で聞いてみると、プーラン村の山だけに雲がかかっていて下は大丈夫そうとのことだ
午前8:00ころからテーブル、いす、お酒、DJ機材などを運び11時30分新婦がイルカ?にひかれ入場!!霧のかかった白い小笠原は、とても幻想的、とにかく主人公の二人が決まっているので、すべてが絵のようだ。




そして料理は小笠原スタイルで一品持ち寄り、
これが、どんな高級レストランでもまねできない品数と心のこもった料理が集合する。
なんてったって参加者の数だけ料理が集まるのだから。

生花はもちろん小笠原産 料理は一品一品手作り!!

 とにかくこの日のパーティー中、雨も降らず、暑くも寒くもない快適な、そして幸せな時を過ごすことができた。ただしその日の夜の2次会では土砂降りの雨となったが、建物の中のどんちゃん騒ぎ、雨もきにせず盛り上がりまくったのでした。
 たくさんの人が応援し二人の強運も手伝って、すばらしい結婚式だった。
地域社会が元気な小笠原でやる結婚式は、お金が掛からずほとんどの場合プラスになりハニームーンの費用になる。結婚資金がなくてもすぐに結婚できるのが小笠原スタイルと言うわけだ。
まさに「雨降って地固まる」と言った感じでジューンブライドも悪くないね!!


二人のダンスは最高!!

大人達は、いつも陽気!




二人の幸せを心から祈る男より

ボニン コーヒー

2012年05月18日 | 料理 暮らし

雨に降られることの多い季節

大陸からやって来る低気圧がだんだん日本の北を通るようになると、湿った南風の吹く日が増え、その空気が冷たい海水に冷やされ、ガスが発生する。こういう状態を島の漁師達は、亀陽気と呼ぶ。実際この白っぽい景色の海で海亀がアツアツのカップルとなり、あっちでもこっちでも子作りに励んでいる。湿った空気は森の中でも冷やされ霧となり植物達は生き生きと新緑を伸ばしている。この雨の多い季節、ぷーらん村で可憐な花を付ける植物がある。みなさんもよく知っていてよく飲んでいる植物、それは、コーヒーの木だ。

可憐な花の寿命は短い

 1879年(明治12年)にインドネシアから移入し日本で最初にコーヒーを栽培した場所が小笠原だそうだ。プーラン村のまん前にもコーヒー山と言う山があり戦前コーヒーが栽培されていたそうだ。コーヒー山のジャングルの中で人知れず生えているコーヒーを一度だけ見たことがある。そんな歴史もありプーラン村でもコーヒーを栽培している。
 実は、私たち夫婦は、コーヒーを普段ほとんど飲まない。飲まないと言うより買わないと言った方が正しいのだろうが。その理由の一つとして、商品作物であるコーヒーは、本来、自給自足をしていた土地でコーヒーを大量に作るようになり、世界的経済システムの中、貧富の差を大きくした要因の一つと考えられるからなのだ。世界では1日に5万人から10万人の人が餓死していると聞く、その原因が貧富の差だと知るとコーヒーを飲まなくてもいいかなと思っている。そんな私たちも最近、自分の庭にコーヒー豆が生るようになり1年に何回か自分で焙煎して飲んでいる。焙煎の仕方や入れ方をいろいろ調べ、チャレンジしているのだが、入れる度に味が違うのにびっくりする。コーヒーの奥の深さにはまりそうな感じもする。そしてもう一つビックリしたのは、コーヒーを飲まない夫婦の間に生まれた現在7才の息子がコーヒー好きなのだ。
5才くらいの時から砂糖をいれないコーヒーを「おいしいおいしい」と飲んでいる。
 世界の中では問題もあるコーヒーだが、プーラン村の中ではコーヒーの白い花を味わい、赤い実を食べ、ベージュの生豆を乾燥させ、金網に入れ炭火で焙煎し、手回しのミールで粉にし、ようやく、コーヒーのなんとも言えない香りを楽しむことができる。その過程で人が集い、手作りのスウィートと共に憩いの時間を楽しめる。
ほんのり甘いコーヒーの実
炭火で焙煎
みんなで薄皮をむく

ここまで来るのに1時間

 自然農法を小笠原でしている中、コーヒーの木は反日陰でもすくすくと育ち、なにもしなくても、コーヒー豆が収穫できるので小笠原に非常にあった植物なのだろう。
 今年も雨の中、なんとも言えない清楚で爽やかな匂いを放ちながら可憐な白い花をたくさん咲かせていた。コーヒーのイメージからは到底、想像のできない花が見れる時間はほんの2、3日、小笠原のコーヒーを飲むより、希少価値のある花見は、とても幸せな気持ちになれる瞬間でもある。

プーランで採れたスターフルーツのパイと一緒に飲む自家製コーヒーは格別!!
              自分で育てたコーヒーを飲む男より

南島へGO!!

2012年05月01日 | 報告書
梅雨に入ってしまった感じのボニングレーな景色


















ゴールデンウィーク2日目

2012年04月30日 | 報告書
扇浦からコペペビーチ経由 小港ビーチへ

トーチカの中

プーランにはまりまくるムランコ

赤ブイビーチ上陸

カヤックだけの参加のエミちゃん

ユージ&加ト吉10年ぶりの再会

今シーズン最後のクジラに遭遇写真撮れなかったけどブリーチングしまくりでした。

コペペビーチの万象


2012ゴールデンウィーク プーランツアーの報告

2012年04月29日 | 報告書
4/29ゲスト到着


プーラン名物チラシ寿司でお昼

ジャングルトレッキングへ、ワラビをゲット

巨大ガジュマルい登る

ガジュマルの枯れ枝にきくらげ発見

夕食プーランオリジナルカレーときくらげの炒め物で乾杯!


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2011年07月31日 | 報告書

 小笠原神社例大祭及び貞頼杯小笠原発見レース報告と御礼   
平成23年7月27日
                         扇浦青年団 要会 一同
7月26日に貞頼さんがこの島を発見したと言う伝説のもと毎年この日に例大祭を開催しておりましたが、この日がおがさわら丸の入港日と重なりレースは24日(日)そして例大祭は、27日にとり行いました。当初台風6号の影響が懸念されていましたが、レースも例大祭も無事、盛況のまま終えることができました。
レースについては過去最多の300人を超える参加があり大変盛り上がりました。
例大祭の神事とお神輿にも入港中の平日にも関わらず多数の参加がありました。                              
これも村民の皆様の温かいご支援のたまものと深く感謝しております。賞品賞金を提供していただいた皆様、ご協力をいただいた皆様、また例大祭、レースの準備を手伝っていただいたスタッフの皆様、本当にありがとうございました。謹んで御礼申し上げます。運営にあたっては至らぬ部分も多々あったかと思いますが、貞頼さんに免じお許し下さい。下記にレースの結果をご報告致します。
これからも小笠原の誇る文化として夏の始まりを楽しむ祭りとして村民の皆様にますます楽しんで頂けるよう要会一同がんばっていく所存です。今後ともよろしくお願いいたします。

開催日時   2011年7月24日(日)9時より
参加者数  アウトリガーカヌーレース46チーム182名
オープン要岩一周レース        68名 
こどもレース             59名
参加総数             305名
レース結果 
  ☆アウトリガーカヌー部門 男子混合 
優勝 マークⅡ     2分00秒53
          選手名   伊関毅 マークストーン 安西進一 小池諒宜    
      準優勝 メタBボーイズ 2分00秒85 
          選手名   藤永一郎 杉浦泰朗 小森谷和良 那須直也
      3位 ヤング要会    1分59秒
          選手名   高橋伸明 山口真 杉原将人
     決勝トーナメント出場チーム 4位 ダッツ 2分02
 5位 まだまだ青年隊2011 2分10秒 6位 総合事務所星野組 2分14秒
7位 診療所B2分39秒    8位 興洋保健所パパスCATS4分56秒
    ☆アウトリガーカヌー部門 女子 
優勝  44マグナム   2分27秒
          選手名    清水千花 藤永法子 菅原智恵 金子啓子 
      準優勝 波乗り娘    2分31秒
          選手名   平井春香 塩田友紀 織田和恵 杉浦智穂
      3位  ちびっこママ 2分29秒
          選手名 緒環桃世 小笠原由紀 吉田昌恵 小林佳
      4位 クロマニヨン,S  2分36秒
5位 スイートフェアリー2分27秒
      6位 とりあえずビール 2分33秒
   
    ☆オープン要岩一周レース
男子総合優勝 かいろうまさあき まついひろし12分08秒 カヤックOW
   準優勝 伊関 毅  13分15秒    SUP
女子総合優勝 金子啓子  12分30秒(3連覇)シーカヤック
   準優勝 菅原智恵 内田美和13分42秒 シーカヤックOW
       部門別優勝者
       混合二人乗りオープンデッキカヤック 横谷こうじ横谷むつき14分12秒    
   男子スイム(フィンなし)    やのたかひろ   29分38秒
   男子スイム(フィンあり)    岡崎よしあき   29分09秒
   女子スイム(フィンなし)    こばやしよしこ  51分22秒
   女子スイム(フィンあり)    熊本まいこ    26分19秒
   女子サーフボートショート    川越みな     36分42秒
    Kid`s 男子 神埼寧音(SUP)         22分22秒
       女子 杉浦夏空(サーフボート)      25分20秒
                     
   賞金賞品協力提供者
マルヒ 小笠原建設 チャーリーブラウン茶里亭 ジンベイ庵 クレヨン
田代美穂  生協 波食波食 海上自衛隊 武ZEN  ボニーナ 五六助弁当 
ビーチコマ 支庁土木保健所農業センター 農協 フリッパーズイン かなめ
こうもり亭 海渡 コモ ハートロックカフェ ラドフォード 
総合事務所 笹本 チャンプ バンガロウル O.O.C.C. サンダルショップマール てつ家 観光協会 商工会 バウンティラボ小笠原新聞 七島信用組合 郵便局
ラオ 佐藤ひろ子 シャンティーバンガロー パイナップルカンパニー ソルマル 
警察協力三団体 島富屋 ロックウェルズ OCF 塚本 フローラ 
ペンションJIGGER アサヒ薬局 バリトンすがちえ ふくちゃん 森の喫茶店
ブルームサービス ヤンキータウン 青灯台 西本誉 藤永家 プーラン       
     
 心より感謝、来年もよろしくお願いいたします。



父島母島間アウトリガーカヌーによる航海の報告書

2011年07月14日 | 報告書

はじめに
 本報告書を作成するに至った経緯は、2010年11月に大出慎太郎、清水良一、那須直也、両角健太の4名が父島から母島にアウトリガーカヌーで横断した際に、通信手段の不備に端を発する「捜索騒ぎ」を引き起こしたことによります。本報告書の内容は以下の4点です。
・航海計画
・航海直前から終わりまでの実際
・クルー達の今航海への思い。
 前述の捜索騒ぎにより、多くの人に多大なご迷惑とご心配をかけました。
そこで、本文が、今後カヌー等を用いて外洋を航海したいと思っている者(本件の当事者も含めて)の役に立つことを期待します。  2011年5月

航海の背景
 本航海は、OOCC (小笠原アウトリガーカヌークラブ、代表:大出慎太朗)の元に計画されました。また、本航海の参加者は、全員が扇浦青年団要会 (団長:清水良一) の団員であったため要会の協力も得て行われました。
戦前、小笠原において、アウトリガーカヌーでの帆走は島民に根付いており、日常的な交通手段でした。しかし、現在ではアウトリガーカヌーは存在こそしますが、その大半が船外機を用いて利用するものであり、帆走を利用することは皆無です。そこで、小笠原の伝統であるカヌー文化を復興する一端として父島から母島への帆走により航海することを目的としました。また、母島へアウトリガーカ
ヌーを頂いた感謝の意を表したいという思いがありました。

航海直前から終わりまでの実際
・2010年11月20日以前の計画
2010年11月22日早朝:父島扇浦出港
2010年11月22日夕方:母島沖港到着
北東の風4~5m吹けば5knot (時速約8km) 程度の速度で走ることが可能であると練習で実感出来ていたため、8時間前後で母島へ到着出来ると予想していた。
クルーの那須、両角は翌日11月23日の母島丸で父島へ帰る予定であった。大出、清水は11月23日のお祭りに要会として参加して、25日の母島丸でカヌーと共に帰る予定であった。

・2010年11月10日頃(保安署への1回目の事前連絡)
 那須が、母島航海の主旨と概略を保安署へ連絡し、必要な書類、備品等を聞きに行った。Eパブ、衛星携帯電話、救難信号、発煙筒等を装備し緊急連絡先、救命艇、地上での定期連絡場所の設置などの条件が揃っていれば、併走船を付けずにカヌー単独での航海は可能であることを確認した。後日、クルーにその旨を伝えた。

・保安署への2回目の事前連絡
ラフの航海計画書を作成し、保安署へ提出した。具体的なカヌーの大きさ、人数、食料の量、緊急時の装備(衛星携帯電話、Eパブ) 等を指摘された。

・保安署への3回目の事前連絡
衛星携帯電話のレンタルが確定し、保安署へ電話番号を報告した。使い慣れておくようにと指摘を受ける。前回に提出した計画書よりも詳細なもの(食料の量、クルーの連絡先・住所を明記した)作成するようにと指摘された。※保安署に提出した装備のリストは以下の通りです。


表-装備リスト
品名 備考
食料 水 26リットル(2リットルペットボトル13個)
  おにぎり 約20個
  カロリーメイト 12箱
  チョコレート 板チョコ*5枚
  飴  
  防水バック 装備を入れる
  パドル 各自一本+予備2本
  発煙筒  
安全備品 緊急信号弾  
  セーフティーアマ用の予備の竹  
  ロープ  
  イリジウム衛星携帯電話 1台 IRIDIUM9505A
  救急セット  
  アカ汲み  
個人装備 ナイフ  
  雨具  
  ウェットスーツ  
  ヘッドライト  
  デジタルカメラ  
  防寒着  
  携帯電話 大出と両角が各自1台

※上記の他に、着替え、財布等は母島の宿泊先へ郵送しておいた。

・2010年11月21日夕方
 クルー4人の最終打ち合わせを実施した。
 22日の天気予報の情報では、北東の風6m前後、波高が3~4mであった。また、宿泊を依頼しようとしていた母島での宿泊先が断られてしまい、宿泊場所が決まっていなかった。この時点で、22日の出港は4名の総意の上で中止した。
 保安署へは、「天候不順のため明日(11月22日) は行きませんと連絡した。最終的な航海計画書を保安署へ見せに行った(この計画書には出発の日付が22日と記載したままであった。)
 この時点で保安署から救命艇サザンクロスが故障中のため、救出に行くことが出来ないので、漁協・観光業などの救助の出来る船に緊急時のために連絡しておくように伝えられる。
 この時点では、那須はどこにも連絡していない。今からではとても間に合わないと判断した。また、イリジウム電話が那須宅に到着し、携帯から自宅、定時連絡先であった清水宅にそれぞれ送信、着信のテストをした。

・2010年11月22日昼
 23日のポイント天気予報の情報では、1時から南東の風3~4m、7時から南南東から南の風に変わる予報であった。波高は、1.5~2.0mであった。
 また、母島観光協会から母島での宿が確保できたことが確認された。明朝(11月23日) 2:00 に扇浦集合、出港することを決定した。

以降,11月23日に出港してから、母島北港に到着するまでを時系列に沿って表で表します。
時刻 風向風速 カヌー 父島待機班
2:40 3:00    南東 2.3m 扇浦出港 マストを立てずにパドリングで野山羊山沖を目指す。  市野が見送りに行くも、既にだれもいなかった。
3:13 4:00  南東 4.4m マストを立て帆走&パドリングで軽快に走る。月の明かりを頼りにコンパスを200度程度にして進路をとる。上げ潮流の影響でかなり西に流れていたと推察される。  
6:00 5:00
南南東 4.4m  

6:00  南南東5.0m 1回目の定時連絡を試みる。イリジウム電話でプーランに 連絡。千花さんと通話成功。通話を終了後、千花さんからもイリジウム電話へかけてもらい通話成功。航海が順調であることを伝えた。イリジウム衛星携帯電話は電源をONにしたまま防水バックに入れシートの下においた。 1回目の定時連絡。那須、千花さんが通話した。「順調に進んでいる」(那須) 「10回コールが鳴った」(千花)「コール3回で切ったけど」(那須)  ※ウェザーステーションから双眼鏡で探すがカラマ号見えず。        
6:05   日の出  
7:30 7:00  南南東4.8m 風が南に周り、向かい風のため帆走が困難と判断。マストを倒しパドルのみで進むことにした。進路を南に進路を取る。  
7:46   クロアシアホウドリ飛来。  
8:00 8:00  南南東5.1m 2回目の定時連絡を試みるが通話不可。呼び出し音も鳴らず事前にインターネットで調べておいた、他の番号での掛け方も試みたが交信不可。2つの方法で約5回交信を試みたが通話不可。 2回目の定時連絡 帰宅が5分遅れてしまい交信の有無不明。8:05に通話を試みるも通話不可(呼び出し音にならず掛けなおすというアナウンスが流れる。母島さんの宮城さんから電話がある。状況を報告した。
8:33   虹が北西にかかる  
10:00 10:00  南南東5.0m    

11:00  南西
2.4m 3回目の定時連絡を試みるも通話不可 3回目の定時連絡の時間。着信無し。2回の定時連絡が無かったことにより心配し始める。宮城さんより電話がある(カラマ号の所在を確認する方法を提案してくれる。)           小笠原海運にユリ丸の船舶電話の番号を聞き、所在を目撃したか聞くが、目撃はしなかったとの返答。ユリ丸によると海はそんなに悪くない(ワントネはすごく悪いが)。・佐藤さんに電話し状況を説明。漁業無線で状況を確認出来ないか試みるが、「漁協としては、保安署からの依頼が無ければ動けない」と返答。漁業無線を保安署も聞いているので保安署にも連絡した方がいいと判断。

12:00 12:00
南西4.2m 4回目の定時連絡を試みるが通話不可。風が南西に変わったと判断。マストを立て帆走&パドルリングに切り替えた。進路は風に対して遡れるギリギリを狙って進路をとった。方角は南東であった。 4回目の定時連絡時間。着信無し。昼くらいに母島につくと予定と聞いていたが?引き返しているかも?思いウェザーステーションから南西方向を双眼鏡で探す。 宮城さんが夕日が見えるヶ丘から双眼鏡で探す(西側のみ)
13:00 13:00
南南西5.1m 下げ潮流も重なり鬼岩の東にいることに気付いた。マストを倒しパドルのみに変更した。当初の予定の沖港を目指すのは、日没の時間等を考慮したら、無理だと判断し北港を目指すことを決定した。 宮城さん、梅野さんから捜索依頼した方がいいと提案される。(佐藤さんも同意)
14:00 14:00
南2.6M 上げ潮流による離岸流が激しく鬼岩の横を全力でパドリング 保安署へ初めての連絡。状況を報告する。保安署より「保安署のサザンクロスが壊れているので自分たちで捜索船を手配しいくと言っていたのでやってください朝出港するという連絡をもらっていない」と返答。シートリップに連絡するも、「聞いていない、出港は出来ない」と返答。佐藤さんより漁協に確認してもらう。漁協「そういう話は聞いていない、保安署からの連絡が無いと動けない」と返答。
14:30     保安署へ再び電話する。捜索依頼をする。保安署「安全対策に不備がある。2度と出港させません」「捜索費用は実費になるかもしれません」と返答。
15:00   北港到着。イリジウム電話、携帯電話で連絡を試みるも通信不可。 市野、杉原、伊関、小野寺、那須理恵、プーランに集まる。保安署より電話「父島から3隻、母島から2隻が捜索のため出港した。(保安署からそれくらいの規模でという提案があった。)市野「母島の近くにいるだろう」りえ「海は思ったよりそんなに悪くない」
15:30   警察の方が北港にやってくる。捜索されていることを知らされる。警察の携帯電話で通信を試みるも使えず清水が警察と沖港へ向かう。  
16:00   携帯電話で父島プーラン市野に連絡した。関係機関に連絡を依頼した。梅野さんに連絡して車を借りた。 清水より電話。母島北港に到着したことを聞く。関係各所に連絡。保安署、小笠原島漁協にお礼とお詫びに行く。
17:00   北港に戻り、大出、那須、両角をピックアップ。  
18:00   月ヶ丘神社の例大祭へお参りに行った。心配、ご迷惑をかけた方へあいさつをした。  


・2010年11月24日
 宮城さんに整備工場の高橋さんを紹介して頂き、2tトラックを借り、北港にあるカヌーを運搬した。村役場、警察、母島漁港へ捜索のお礼とお詫びに行った。漁協から捜索のため出港して頂いた船の名簿をもらい、母島漁協理事の築館氏と平賀氏に捜索のお礼に行った。午後3時より、漁港にて捜索に捜索して頂いた船主の方15名に捜索のお礼とお騒がせしたお詫びをした。
 
11月25日
 午前    ユリ丸で来島された保安署の署長にお詫びした。
 午後 カヌーをユリ丸に載せる手続きをするが、
      見積もりの7倍以上の金額を請求されため、急遽
      共勝丸で運ぶことに変更した。沖山さんに連絡し 
      お願いする。
14:00   母島沖港出港
16:10   父島二見港入港
    小笠原島漁協、村役場、警察、保安署へお礼とお詫び   
      に行 った。漁協より捜索に参加された人と船を教えて  
      いただきお礼とお詫びに行った。

・クルー達の今回の航海への思い

母島遠征を終えて。
大出慎太郎
 母島へのセーリングは、1年くらい前から構想を練り、セーリング用の大きなステアーパドルを作るなど準備を始めた。
 OOCCの活動理念は、かつての小笠原におけるアウトリガーカヌーを復元すること、そして島から島へという航海を目的としている。その理念が要会のものと一致していた。そのため、清水さんの好意により要会の後援という形をとらせてもらった。
 母島は肉眼で見える島である。見える島へ行くことは冒険では無いと思っている。冒険とは、成功するか失敗するか、生死の瀬戸際のところで行うことだと私個人は認識している。父島母島間をカヌーで行ききすることはかつては日常的に行われてきたことだから、「ちょっと隣の島まで」という感覚でいたし、冒険にはしたくなかった。
 母島への道中で恐怖を感じることは無かった。沖港ではなく、北港へ入ったこと以外はほぼ計画通りだし、想定内であった。もしも、あのまま夜通しでも航海は続けられたとは思う。そういう意味ではいい自信になった。
 だが、このたびの騒動で悔やまれるのは明確な意思、モチベーションを持ったうえでのサポート班を設定しなかったことである。今回は成り行きで千花ちゃんに定時連絡等をお願いすることになった。しかし、定時連絡は機能せず千花ちゃんには自分たちには想像を絶するストレスを与えた。今騒動の最大の被害者は彼女だと思う。元々、遊びで好きでやっていることである。誰かに頼まれたから、ヒーローになりたいからやっていることではい。カヌー、海が好きなクルーが集まって、自分たちのためにやっているのである。だから、誰かに頼んだりということは避けていかなくてはいけない。出かけていく側、送り出す側も同じクルーなんだという気持ちでいないと上手くいかないのは当然である。今後はそういうつもりでことに当たりたいと思う。これからさらに遊びのレベルが上がっていく。今回の件を良い糧としたい。

清水良一
 今回、OOCCの大出君が企画したこの航海への参加は、かなり楽しみなことでした。この航海への大出君の情熱は熱く毎日のようにカヌーを改造し、帆走の練習に励んでいた姿に、私自身も感じるものがありました。要会の目的の一つでもある、アウトリガーカヌーの伝統の復活に大きな意味のあることと思い、要会からの予算提供を考えました。
 当初、カラマ号での帆走はかなりのリスクがあると感じました。しかし、大出君の情熱による船と帆走システムの改造改良により日々違う乗り物に変わっていきました。また、今回参加したクルーのチームワークも向上し、出発前の最終練習ではかなりのコンディションまで対応できることを確認しました。そして、この船とクルーで母島へ行くことはコンディションさえ整えば可能だと確信しました。
 また、4人のクルーの関係の中でステアマンとしての大出君に遠慮が無いようにと、私の立場は1クルーとして参加をしていこうと考えました。
 以下に今航海で私が感じた問題点、原因を列挙します。
問題点
1 この航海をサポートする人が家族しかいなかったこと。
2 サポートする家族とのコミュニケーション不足。
3 携帯電話という物の機能と責任義務の欠如。
4 航海及びもしもの時の自分たちの対処に集中しすぎて、家族の対処の仕方を考えていなかった。
5 母島のサポートしてくれる人を確定していなかった。

原因
1 周りの家族仲間たちとのコミュニケーション不足
2 今回の航海に対する難易度の評価をクルーとサポートする家族と周りの仲間の意識がずれていた。
3 冒険には二つのタイプがあると思う。一つは、オープンに情報を共有していくタイプ。もう一つはクローズにして秘密にやるタイプ。この島に住みこの島をフィールドにする場合は後者のタイプは不可能になりつつあることを気付いていなかった。

対策
コミュニケーションの回復。今回の報告書の作成はこのことを意味する。
今回の航海に関わり捜索、ご心配をかけた皆様に感謝とお詫びを申し上げて私の感想と致します。
今回の母島航海について
那須直也
 はじめに、私は今回のこの個人のレポートを書くつもりはありませんでした。今回の航海についての記述、事件についての多方面からの事実、見解、今後の対策を載せるものだと考え、クルー個人の感想等を言えた立場ではないと解釈したからです。報告書はあくまで報告書、それ以外は別書にするべきだと思っておりましたが要望がありましたので、ここに感想を交えたレポートを書かせていただきます。
 率直に申し上げれば、急ぎすぎた、と思います。
 自分個人もしくは、自分個人だけの視野で見える範囲だけでしか判断する能力が無い、ということなのだと思います。今回の様な活動、大小組織編成を纏めるだけの能力が弱小だということです。仮に私自身が1人で行動するのと、数人で行動する場合の違いの難しさです。一人であれば何かあった場合に叱咤でも誹謗中傷でもすべて自分で受けることができます。しかし大抵の活動というものは複数行動になるわけで、その組織の中だけの人間でもその数だけ頭脳があります。そのそれぞれの世界感を1つの方向性に統一するのは口で言うほど簡単ではありません。100%は必ず無理としても60%くらいの互換性が限界だと思います。その中でも前に進みたいというのであれば、自分ができる以上の事前活動をしなくてはならない、それがまったくいい加減であったということなのだと思います。主観でものを言えば“やったつもりだと”と片付けてしまう、結局自己満足、知識、経験はもちろん“才能”も大きな要素としてでてくるものです。正直、いつか良い意味で大きな失敗できるといいな、と思っていました(今回とは思っていませんでしたが)。カヌーに限らず扇浦の祭りでも、自分が見た範囲でうまくできたと勘違いしながら進んでいるだけで、いつも反省していても喉元過ぎれば忘却してしまうという事実が変わらないからです。
 それでも良い、と言うのであれば本当に内輪だけで行動すること、それでもかける周囲への迷惑は顧みず、誰にも頼らず生きて行くこと。ほとんどの人間が出来ない筈ですが。
 でなければ、自分の力を過信せず、周りの全てにリスクペクトしながら広い視野と感情を日々養う努力を忘れないこと。私も含め皆、口で言うほど言動が一致していないのが現状です。
 私自身は、今後も継続的にカヌーの活動をしていきます。今回はそういう意味でものすごく多くものを一遍に学んだ機会でした。唯一プラスになったものです。言う立場に無い私ではありますが、全ては失敗からしか学べません。そして恐れてもいません。怪我の功名はいいとして、当たり前の話をさせていただきます。

集団活動には確固とした 目標
            計画
            計画を遂行できるクルーの選出
            全てを完遂できるリーダー

 特に外部の資金を必要とするのであれば一つでも弱いところがあれば前に進むべきではない。自分にそう言い聞かせられた、事件でした。
 最後にご迷惑をおかけした皆様に深くお詫び申し上げます。


・佐藤氏 (小笠原島漁業協同組合)と話して
今航海での遭難騒ぎの際に、清水千花ら(父島待機班)の小笠原島漁協との窓口となった佐藤氏と当時のことをお話しする機会を頂きました。以下に佐藤氏にお答えいただいた内容を列挙していきます。

① 最初に千花さんから話を持ちかけられた時はどうでしたか?

「とにかくパニックになっていた。あるはずの連絡が無く、あのような状況だったらしょうがないと思う。暗くなる前に探さなくては、見つけなくてはいけないと思った。」

② 今回のようなケースでは漁協はどのような対応となるか?

「例えば、小笠原島漁業協同組合の遊漁部に所属している船が遭難した場合は、漁協が無償で全面的に捜索する。その際には、指揮系統を確立し、出港可能な船は全て捜索のために出港する。」
「漁協は、基本的に海上保安署からの正式な要請が出なければ何も出来ない。漁協独自での捜索はしない。それは、二重遭難、さらには闇雲な捜索は効果的では無いから。まずは、正確な情報が必要である。今回のケースではなにも知らないから最初は動き様が無かった」

③ 漁協の捜索までの流れは?
 「保安署からどれくらいの規模(何隻出すか)どのように(場所)捜索するかの指示がでる。今回の場合は、父島から3隻、母島から2隻出港するようにと指示がでる。そして組合長の決裁を仰ぎ、指揮者を決定する(今回は副組合長の石井勝彦氏)。次に、出港可能でなるべく大きな船を手配する(当日は時化ていたし、一隻に多くの人員を載せられる等の理由から)。漁業無線で捜索に迎える船に呼び掛けた。」
「早朝、早い段階で転覆したことを想定して北は兄島瀬戸まで捜索に行った。早朝(5時くらい)南に漁に向かった優漁丸からはそれらしきものが見えていたらしい。南島を交わしたくらいでしょ波を食らって転覆した可能性が考えられていた。そして、西に流されているのではないかと思いその周辺を捜索していた。また、捜索にでた漁船には海上保安署の署員も同乗していた。捜索に出たのは大体3時くらいだった。発見の連絡を聞いて帰港したのは6時くらいだった。」

④ 今後どうすればいいか?

「今後、このような航海をやるときは、漁協を始め関係各所に文書を提出する。夏の祭りのカヌーレースでも提出している。その方が無難。事前に知っていれば動きやすい。漁船も遊漁船でも万が一の時に動ける船を確定させておく。」
「実績を積むことが大事。謙虚になること。自分たちの中でルール作りをする。今回は、いきなりステップアップしすぎたかもしれない。自分たちではそんなつもりでなくても漁師も含めて周囲は今回の海況は決して容易くはないと思っている。カヌーのことを知らない人からしたら想像を絶する話なんだから。日本人はハワイやポリネシアみたいな海洋民族ではない。カヌーや海に対する考え方も違うんだから。」
「今回のクルーは止めても聞かないだろうけど、もう少し周りのことを考えて行動するように」
 清水千花

 今回の遠征について何回かの打ち合わせ会を我が家でやっていた為、計画からずっと関わってきました。
 打ち合わせ会の中で、事故、遭難、捜索などについても話し合っていましたが一応
 「暗くなっても到着の連絡が無かったら海保 (海上保安署)」
となっていました。
 しかし実際、朝の6時に定時連絡が取れなくなり、2時の時点で8時間経過し、日没まで3時間…
 「手遅れになったら、取り返しがつかない」という思いで捜索依頼の決断に至りました。
 今まで、何回かカヤックやアウトリガーカヌーの母島遠征の待機班を経験してきました。しかし、前回までは通信手段を装備せず、到着の一報が来るまでひたすら祈って信じて待つのみでした。
 いつも、良い通信手段があればと模索をしていました。そして、今回、イリジウム携帯電話をレンタルして使用することになり安心感を覚えていましたが、起こり得る状況の想定が出来なくて逆に大きな落とし穴になってしまいました。
 とにかく、今回の件で大勢の方に多大なる迷惑、心配をかける事態にしてしまった事に対し、私の感じた (問題点、原因、改善点) については以下の表にまとめましたが、クルーの近くにいた者の1人としてもう少し早く色んな事に気付き準備したり、話し合えていたらという送り出す側の責任というものもあると感じました。

問題点・改善・
問題点 原因
定時連絡 ・定時連絡が機能しなかった。 
・通信手段、現在位置の連絡手段がイリジウム携帯電話しか準備していなかった。                         ・初めてのイリジウム携帯の使用で理解が不十分だった。          
・連絡内容を決めていなかったので、必要なことを聞かないで通話を終了した。          
・3回コールで切れば無事という約束事になっていた。       
・イリジウム携帯電話さえあれば大丈夫という認識。
・もし携帯電話が使用できない場合を想定していなかった。
サポート班 サポート体制の不備。                 一人では、定時連絡等の時に負担がかかりすぎた。また、母島側にも、事前の依頼が無いまま、成り行きでサポートしてもらう事態を招いた。
サポート班 ・サポート側の計画の理解が不十分だった。
・どのような航路をとるか?    
・出港を決断した根拠?
・タイムスケジュール。
・保安署、母島との話し合いはどうなっている?              
・装備何をもっているのか? 
捜索について ・捜索の決断が困難。     
・ユリ丸から見えなかったという船長からの情報が捜索を依頼するという原因になった。 ・計画についての理解が不十分。 
・経験、知識が不十分。 
・相談出来る人と連絡体制がとれていなかった。 
・周囲 (今回はユリ丸)からどの程度見えるのか分かっていなかった。  ・計画についての理解
・経験、知識ある人がサポート隊に入るべき。           
・起こりうる事故のパターン等シュミレーションしておく。
・何時までに決断するか決めておく。
・捜索についての知識
計画 ・天気、海況、力量等から周囲の人が不安になる。                                   ・周囲が計画についての理解が不十分。
・何故この時期に実施すのか?
・祭りに参加するためと無理していないか。
・カヌーの力量を知り、海の知識を持った人が説明できるか?
・周りの人が納得するほど、練習は十分だったか? ・引き継ぎを十分にしていくこと。                    
・計画に十分時間をかける。        
・イベント事と重ならない日程にしたほうが無難?(なにかあった時に普段よりも迷惑がかかる。)
コミュニケーション クルー(行く人)、サポート側 (送り出す側) のコミュニケーションが円滑ではない。 ・夫婦、友人、知人間でのコミュニケーションのトラブルが起こりがち。        
・言っても聞かないだろうとあきらめムードになる。
・遠征に対する盛り上がりの温度差。
・切羽詰まった計画で話し合う時間、余裕が無い。 ・お互いに理解しあえるまで話し合う。
・計画に時間をかける。
宮崎雅司氏 からのコメント
今騒動において、多岐に渡り御尽力、御配慮頂いた宮崎雅司氏(母島在住)から今航海へのコメントを頂きましたので列挙させていただきます。

・母島としては梅野さんをはじめ事前連絡が急すぎました。計画は かなり以前からあったはずなので、宿泊先としてはもっと前もって話してほしいとの事でした。
・本来、天候に合わせて航海するはずが、祭りに合わせて急いで出た為に、今回の騒ぎに繋がったと思います。しっかりとした計画、サポート側、受け入れ側の準備ができて、さらに祭りではなく、天候に合わせて航海しましょう。実際、楽しい祭りの最中も心配で楽しめなかった人がいました。
・母島で無事集落に戻って、各所挨拶に周ったのは良かったと思います。やりたいほうだいができない田舎なので、こういったことはとても大事です。ですが、信用をなくしたのもまた事実。しばらく、母島へはカヌーでは来ないほうが無難です。

こんな感じです。
少々辛口ですみません。
今後の活動に期待します。
お疲れ様でした♪
最後に 両角 健太

 シンタローから、今回の航海に誘われた時はとても興奮していました。島に来て2年が経ち、サーフスキーで父島、兄島、弟島は回ったし、次は母島かケータか?へという思いがあったからです。私が漕いできたのはあくまで岸沿いであり、陸から最大で25km離れた所ではどんな風景が見れるのか?どんなうねり、風を感じられるのか?そのような思いで当日までを過ごしました。
 当日、月明かりを頼りに扇浦を出発して、西に月を見送りながら、東から太陽を迎えた感動は実際にその場にいたものでしか分からないと思います。南島を超え、島影に隠れていたから感じなかったうねりを感じるようになり、日が昇るにつれ母島の姿が見えるようになるにつれ、自然と「今度は1人でここに来たいな」と思っていたような気がします。
 また、道中パドリングしていて、母島で状況を知らされてからの行動も含めた上で、改めてシンタロー、清水さん、那須さんの性格が少し理解出来たと思うし、私自身の性格もさらけ出した思う。今後、このグループにおいて私が担っていけるポジションというものも分かったような気がしました。今後、より強固なクルーワークが求められる時に今回の経験は大きな糧になるだろうと思います
 
 遠征では様々な問題が噴出しました。しかし、この時点で諸問題が明るみに出たことは良かったことだと思います。今後、より遠くの場所へ、よりハードなシチュエーションの中で出かけていくことがあるもしれません。それは、硫黄島へなのか、ハワイへなのか、ヤップへなのかは分かりませんが、その時への良い糧になるであろうとクルーは思っています。
 
 最後に、今回の遠征では多くの人に多大なご心配とご迷惑をおかけしましたことを、謹んで謝罪を申し上げると同時に感謝の意を表します。今後も同様のチャレンジを計画するかもしれません。ですが、このような騒動を引き起こさないように物理的に精神的に万全の準備をしてから事に臨む所存です。どうか御高配を賜りますようによろしくお願います。
                                            
                     2011年5月



                      










冒険するってこと

2011年05月16日 | カヌー カヤック





2010年11月23日 2時50分 4人のクルーはアウトリガーカヌーに乗り暗闇の海を静かに漕いでいた。時より雲が流れ満月が顔を出すといつも見慣れた父島の輪郭がはっきりと浮かび上がり鏡のような海面を滑るようにカヌーは進んでいた。
この冒険の結末がどんなことになるのか知らず、期待と不安を胸に、一かき一かき味わいながら4人の男は漕いでいた。
アウトリガーカヌーとはカヌー本体とアマという補助輪のような浮きをヤクという腕木でつなげた太平洋の島々に住むネイティブな人達の作る船、このカヌーがこの島で文化として根づいている。歴史の資料によれば1830年に欧米人4名と20数名のカナカ人(ハワイの人)がこの島に初めて住んだと言われている。欧米人の名前は全員わかっているのだけれどカナカ人の名前はどこにも記述がない。名前を残さなかった彼らがこのアウトリガーカヌーを残してくれたわけだ。つまり日本で唯一ポリネシア文化が根付いている島が小笠原ということになる。
しかし、現在アウトリガーカヌーを帆走したり漕いだりする人は皆無に等しくほとんどのカヌーには船外機が付いているのが現状だ。そこで扇浦の近辺に住む私達はアウトリガーカヌーの伝統航海を復活させるべく扇の要という意味で要会という会を3年前に発足させていた。2008年6月小笠原返還40周年の企画に乗って私達は小笠原のアウトリガーカヌーを使い父島母島間、往復120キロを漕ぎ25時間で渡った。そしてそれを映画にした実績もあった。



3時13分 べた凪の二見湾を抜けて野羊山の沖に出たころいよいよ南東の風が入る外洋へ出る。その前に私達はいよいよ今回のメインテーマである帆走のためのマストを上げることになる。何度も練習した成果が問われる時だ。各自持ち場に着きカヌーをひっくり返さないようにマストを立てセールを貼った。月の光でセールに浮かび上がるシーホースが南東の風を受け胸を張っている。南南西200度の方向にコンパスを会わせ暗闇の中を軽快に疾走する。帆走とパドリングを同時に行う。パドルは軽くカヌーは水を切り飛ぶように進む。
「これがやりたかったんだよな、真太郎!!」ステアマン(舵をとる男)の真太郎に声をかけると満面の笑顔で彼はうなずいた。



4時30分暗闇の中、南の方角を母島が見えないかと目を凝らすが水平線と雲だけが月明かりに照らされうっすらと見えている。そして少し東側を眺めた時、虹のようなものが見えて来た。おそらくあれがムーンボウ!月の明かりでできる虹なのだろう。50年以上も生きて来てはじめて見るものがまだまだあるのだなと関心する。
とにかく目標となる島が見えないため月との角度、風との角度、そしてうねりとの角度を利用して進路を保持していく。クルー全員の五感が研ぎ澄まされ、まさに伝統航海の端っこを感じさせてくれるひと時だった。
ポリネシアの民は見えない島へ渡る航海術を持っていたという。これは、航海士と呼ばれる人の総合的自然観察力に裏打ちされたものだと思う。だから航海士は航海中絶対に眠ってはいけないそうだ。
 戦前、母島へ帆走して渡ったという人がいた。ネケジーと呼ばれている名物じーさんだ。
彼の言うには、「上げ潮は西に流れ下げ潮は東に流れる。だから母島へ行くには上げ潮に乗って南西に行き島が小さくなるまで走り、下げ潮になったらタキシップ(タッキング)して東に流れて行けば母島にはすぐ着くよ!簡単ですよ。」という話だった。このことも実践してみたかった一つだ。
今日は満月の大潮周り、6時31分まで上げ潮流、まさにネケジーの言った通りのコースを南西に走っていることになる。ただし天気予報では東よりの風が吹くのは、日の出ころまで、その後は南風に変わるということだった。このアウトリガーカヌー カラマ号はVボトムでもなくキールもついていないため風に対して登って行くほどの性能は持っていない。つまり南風が吹いたらひたすらバドルで漕ぐ事になる。風が東よりのうちにどれだけ母島に近づけるかが到着時間に大きな影響を与える要因となるだろう。


 6時00分東の空が赤く色づき夜明けが近いことを知らせてくれる。
定時連絡の時間だ。那須が防水バックからイリジウム衛星携帯を出して電話をかけ3回呼び出して切る。しばらくして私の愛妻からこのイリジウム携帯に電話がかかって来た。
航海が順調なことを伝える。
今回の航海では保安署の指導によりイリジウム携帯を持っていくことが伴走船なしで母島まで行くための大きなファクターとなっていた。
しかし、この携帯がこの後起きる事件の立役者になるとは、誰も気づかなかった。
 6時05分 日の出、雲の合間からオレンジ色の光がカラマ号にあたる。4人のパドルはリズミカルに海の水をキャッチしカヌーは軽快に南西の方角をひたすら走り続けていた。




月夜の幻想的な夜の海は太陽の圧倒的な明るさによりリアルな昼の世界へと変わっていく。
帆走とパドリングの両方を使って4人の男は雲だけの見える大海原を走り続けていた。南東の風に吹かれかなり西の海上を走っているのだろう。すると雲が切れようやく目指す母島を拝むことができるようになった。
7:30 風が南よりに変わりこれ以上南を目指すには帆がいよいよ邪魔だと判断しマストをしまうことにする。もともと漕ぐことの方が得意なメンバーではあるが到着時間はかなりおそくなることをこの時覚悟する。



 大海原をひたすら漕いでいるとありとあらゆる方向からうねりや波がこの小さなカヌーにぶつかって来る。時より波長の長い巨大な北東からのうねりがやって来る。
これは、おそらく遥か北東アリューシャン列島で3.4日前に吹いた風でできた波、そして南の方からやってきた波長の短いうねりは、昨日の夜に南海上で吹いていたであろう南風のうねりだろう。こうやって考えて見ると太平洋という海で起きているいろいろな情報が(例えば誰かがどこかの海でおしっこをしたとか)縦横無尽に伝わっていることになる。もしそれを理解できる能力のある人がいたらの話ではあるが。
そんなことを考えていると西の海上に巨大な虹がかかり、なぜか大きな鳥がカヌーを目指し飛んできている。クロアシアホウドリだ!!すぐ近くまでやって来て私達の様子を見に来ている。小笠原に住んでいてもめったにお目にかかれない鳥だけれどなにかの力が4人の男と小さなカヌーと風とうねりと朝日と虹を今この場所に集わせてくれる。偶然のような必然のような大自然の中を私達は漕いで行く。

8:00定時連絡の時間、担当の那須が何度も掛けているのだけれども通じる気配がない
うねりという情報はあらゆる方向から届いているのだけれど宇宙からの電波はこの携帯に同調してくれないようだ。とにかくイリジウム携帯なるものがどんなものかも知らずにこんなものだろうと理解し、父島から母島の半分以上は来ていることをからとにかく進路をひたすら南に向け母島を目指した。この時連絡が取れなくてまずいんじゃないということを思ったメンバーがいなかった事の方がなぞかもしれない。とにかく4人の男の小さな能力はすべて、母島に到着するためだけにつまりパドリングだけに使われていた。
この後10:00、12:00の定時連絡もまったく同じ状態が続いたわけだ。
12:00微妙に風は南西に変化したことを感じマストを立て南東に進路をとることにする。帆走とパドリングによりカラマ号は軽快に走った。下げ潮流にも乗っていたのだろうあっという間に鬼岩の前までやって来てしまう。ここから沖港まではまだかなり距離がある。南風も考えれば4時間近くはかかってしまうかもしれない。そこで急きょ北港上陸に進路を変更する。ただし上げ潮流に変わり北港の入り口に恐ろしく早い離岸流が発生しておりなかなか北港に近づくことができない状況になっていた。そしてなぜか苦しくなった時、力を出し4人の力が一つになるための掛け声「どっこい!どっこい!」の掛け声が始まった。「どっこい!どっこい! どっこい!どっこい!!」



14:30 バリ漕ぎ1時間30分の後静かな北港の湾の中に入りゆっくりとパドルを合わせて漕いでいた。
15:00北港到着 最後の力を振り絞りゴロタ浜の北港にカラマ号を持ちあげ上陸、
自然界とのコネクションそして無事母島へ着けたことに感謝!!



しかし人間界とのコネクションはいまだに繋がらない。何度イリジウム携帯をかけても普通の携帯をかけても音信普通の状態が続く。母島北港はもののけのエリアなのだろうか。そんなことをしているうちに母島の警察の方がやって来て捜索願いが出され大変なことになっていることを聞く。パトカーからイリジウム携帯らしいものを出してくるがバッテリーが3本とも上がっているとのことでつながらず。衛星携帯とはそういうものかとあらためて納得してみるが、とにかく私が警察の車で町まで行くことになる。
 町の中に入りようやく借りて来た携帯から、自宅に連絡をとる。そして母島の友人に連絡をとり無事を伝え、車を借りて3人を迎えに行く。
 常日頃からカヤックのツアーに行くに当たり五つの感覚そしてともすれば第六感も交えて判断をして来ているが、携帯という7番目の感覚機についても普段から使いこなしていなければいざという時に役にたたないものなのだろう。
月ヶ岡神社という神社のお祭りということもあり、神社へ参拝に行きご迷惑をかけた方達にあいさつに回る。
翌日から捜索に関係した。村役場、保安署、警察、母島漁協、船主と理事のみなさん達をひたすらまわってお礼を言う。そして二日後定期船に乗り父島へ、もちろん父島でもひたすらお礼の行脚は続くのだけれど。4人の母島遠征はこうして終わりを迎えた。
この場を借りて捜索をしていただいた、母島漁協 父島漁協の皆様、北港からカラマ号を運ぶトラックを貸してくれた整備工場の高橋さん、捜索の船をすぐにだしていただきまた、カラマ号父島搬送に出港ぎりぎりで対処していただいたオキミツさん。その他いろいろバックアップしてくれたジャイアン、梅野さん、終始温かかった母島の人達ほんとうにありがとうございました。また応援サポートしてくれた父島の仲間たちそして家族の皆様大変ご心配をおかけしました。謹んでお詫び申し上げます。
最後に海の遭難はお金がかからないというのはうそで漁協の船が出ればチャーター料がそれなりにかかります。だいたい一日一隻十五万円程度で計算すればいいようです。
いけいけ中年パドラーにとってかなり安くしていただいた捜索費ではあるが高い授業料とたくさんの教えのあった冒険であった。
                      大航海時代に生きたかった男たちより


なぞの帆走アウトリガーカヌー!!空馬号 KARAMA

2010年11月21日 | カヌー カヤック


11月23日母島遠征に向けて最終練習フル装備にしてメンバー集結
かなり父島を離れ大きなうねりの中で帆走練習
海上でマストを立て帆をはったり、たたんだりとクルーの役割分担を確認!!
帆走という武器が見方になるか敵になるか?海の状況次第だね。



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10月11月のスケヂュール

2010年11月17日 | スケヂュール
10月31日ハロウィーン



大神山神社例大祭

11月1日 子供相撲
11月2日 相撲大会
11月3日 お神輿
11月3日 夜 カラオケ大会
11月13日 ONE LIFE ミーティング
毎週基本は土曜日  チカちゃんのヨガ教室 場所 コペペビーチOR交流センター時間14:00~

11月22日 チーム要 母島遠征 OOCC カラマ号
        メンバー(シンタロ、ナス、ケンタ、リョウ)
11月23日 マハロ ラドフォードナイト
       18:00~24:00
       場所 ラドフォード
       チャージ1000円ワンドリンク付き
       飲み物ALL500円

11月23日 月ヶ丘神社例大祭 13:00よりお神輿
       みんなでお神輿を担ぎに行こう!!
       

山の中のハロウィーン!!

2010年11月14日 | イベント
10月31日にやったハロウィーンの映像 遅れましたが載せておきます。






こんな感じのハロウィーンでした。

神輿親子 2トップ

2010年11月13日 | お祭り

今年もタコジー親子やってくる。
タコジーとは、肩に大きな神輿ダコのある神輿バカ。2006年小笠原神社に
手作りの神輿を作り奉納してくれた男!!
それ以来チーム要は神輿好き。


かなめレディースもがんばってます。

祭りや神輿は人と人のつながりを深めてくれる。
担ぐ人がひとつになる瞬間とにかく気持のいい瞬間。

私たちはすべての生き物と一緒にマザーアース地球を担いでいる。


元祖!?コペペビーチにコペペ爺さん登場か?!

2010年10月30日 | サーフィン
このブログのタイトルになっている、『コペペ』サンの名前のついた浜、『コペペビーチ』に、
久々に波が入った。
台風14号の影響で。
昼前に膝腰くらいの波が、1時間に2,3本というところだったが、
昼の満潮を境にガンガン波が入りだし、夕方には沖の岩に波が炸裂し、
今年初のコペペビーチの炸裂ウェーブでした。

それにしても、カレントがだんだん強くなって、
一本波に乗るとほとんどビーチの端から端まで乗れて、
パドルで戻るより岸を歩いて戻るほうが楽になる。
そうやって、何十回も浜を横切るサーファー。

今日の一番は、コペペビーチの番人「Aやん」。
コペペの波を知り尽くしているか、
今日は11時頃から5時前の日没近くまで、
幾度と無く波に乗っては岸を横切っていた。
本人曰く、『ここに骨をうずめるか~』
おつかれさ~~ん。--