
分かりやすく言えば、彼女は内田裕也さえもひれ伏すような本物のロケンロールな生き方をしているのだ。無名のロケンローラーが空港反対闘争と言う場での戦いっぷりにその強烈な生きざまを浮き上がらせる様には猛烈に感動する。
彼女が空港反対闘争の歴史で語られるとは言っても、彼女は反対同盟のリーダーではない。無学で余所者のよねはただただ正直にそして全くひるまず、最後まで空港予定地に居座り、こうして語り草となったのである。
戦前生まれの無学な放浪者(開墾はしているが、地縁血縁のない土地での流浪の耕作者である)に右とか左とか言った思想的カテゴライズは全く無意味。いや、僕が彼女にのめり込む理由は政治思想的側面ではなくアウトサイダーアーティスト的側面。家族とは離ればなれになり、何度か結婚らしきものはするものの数年しか続かず、天涯孤独な人生だからこそ見せる図太い輝きが強烈なのだ。生きることそのものが強力に魅力的なパフォーマンスであった。
天涯孤独だからこそ、戦後の高度経済成長時代の上昇志向的感覚は一切持ち合わせていないところにも強く共感する。彼女は貧しい小作人の中でも更に貧しかった、労働が嫌いだからである。三度の食事と好きなタバコが楽しめればいい、それ以上働くことに意義はない。字が読めないから金銭的娯楽の場に出かけても注文の仕方が分からないからそういうところにも出かけない。楽しみの有無ではなく、そういう生き方が骨の髄まで染み込んだ人間の強さ。周りの誰かに流されることなく生きてきた姿勢に私は拍手を惜しまない。
お金は生きるだけの最低限あれば十分、と言う考え方は特に重要だ。まさにこの考え方こそが、金で買収されたりすることのない、芯の通った強い生き方を見せてくれる。私がビジネス成功者に全く関心がなく、こういう貧しくても強い人に憧れるのは、人生と言うものが金と言う人工物に左右されてはならない、と私自身が考えるからだ。国会権力だから100円とか1000円なんてみみっちい金額ではなく、余所の土地でそこそこ立派な家が建つ金額をちらつかせる。そういう場面であっても決して首を縦に振らない人間こそ、私にとっての理想の“強い人間”である。よね婆さんはまさにそんな人。例えばアフリカの黒人やアメリカインディアンに共通するような、やたらに近代化されないプリミティブな“人間の誇り”がある。そこには今日的な“日本”などと言う固有名刺も目印も一切ない、その人がまっすぐに生きてきたことそのものから生まれる“誇り”である。
40年も前の出版、ネットの古書店で購入したが、かなり紙が日焼けしていて年月を感じる。2週間ほど通勤電車の中で読破したが、スマホや新聞の活字しか回りにない中で、この日焼けしまくった書籍は周囲に非日常的な印象を与えたかもしれない。