ー敗北の後日談ー
(この物語はフィクションです。)
(3月1日ということで掲載しました。)
当時の試合の様子については、
懐かしい話(その1)
懐かしい話(その2)
懐かしい話(その3)
懐かしい話(その4)
をご覧ください
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3月1日、山本監督のもとに訃報が届いた。
MBの前監督T氏が亡くなられた。
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3月中旬、EJのとある練習日、
ちょっとした練習の合間のことである。
監督はタバコに火を付けると、
静かに「フー」と煙を吐きながら、
そこにいた私とR太郎のお父さんに話しかけてきた。
「前回のMBに負けた試合のことで、
こんな事もあるんだなという話があったんだ。」
少々低音で、いつものエネルギッシュな口調を押さえている。
普段より少し落ち着いた声で、しんみりと語り始めた。
「先月のMB戦。
8ー0からの逆転の試合覚えてるだろ。」
と、監督が問いかけると、
「圭介のスクイズ失敗から、
流れがガラッと変わりましたよね。」
と、R太郎のお父さんが応じた。
「そう。俺も監督になって長いけど、あんな試合は初めてだ。」
「流れを変えようにも変わらなかった。」
「8ー0からの大逆転劇なんて、そう滅多にあるモンじゃない。」
「しかも戦力的には明らかにこっちが上だったのにもかかわらずだ。」
「まあ、長くやっているからこそ、色んな事もあるんですよ。きっと。」
と私は、慰めになるか、ならないかよく分からない言葉を言ったが、
監督はこれを聞き流していた。
タバコの煙を吐きながら、
「うん。」とだけ監督は応え、
こう続けた。
「実は、その試合にMBのTさんが、
ここに来ていたらしいんだ・・・。」
「はっ?」
私とR太郎のお父さんは二人で、
(何を言っているの?)という顔つきを同時にした。
監督は、我々の顔に視線を合わせず、
ジッとガラス越しに選手達の練習を見つめながら、
しゃがんでタバコの火を消すと、
MB前監督のT氏のことを語り始めたのだった。
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監督の言葉を借りれば、
MBの前監督のTさんという方は、
サンドーム大会などを主催する
青森少年野球協会の設立に尽力された功労者であり、
取りも直さず、現在のEJの野球、
つまりEJ監督自身の野球の原点となった方らしい。
まずは守備を堅め、守りでリズムを作り、
先取点はスクイズで取りに行く。
そしてその一点を踏み台にして、
大量得点に結びつけようとする野球なのだそうだ。
そして、どんな試合でも、強い相手でも、
たとえ弱い相手であっても、
そのスタイルを崩さず貫き通した方だそうだ。
MBの監督をその後M監督に引き継いだ後も、
愛犬の子犬を連れて、
よく試合観戦に来ていたとのことだった。
私よりも長く少年野球を見ているR太郎のお父さんが
「うんうん。」と頷いている。
「昨年の秋に余命3ヶ月と診断されていたらしい。」
監督は言った。
Tさんの奥さんは、その事を本人には伝えなかったらしい。
御本人も知らない様子だったという。
年を越す前に一端手術をして胃の全摘手術を受け、
一端は退院したものの、2月に容態が悪化し再度入院。
3月1日に帰らぬ人となった。
享年五十五歳、胃ガンが他の臓器に転移し、
手の施しようがない状態であったそうだ。
火葬にも、通夜にもEJ監督は出向いていた。
Tさんの奥さんが、監督の元へ来て、言った。
「主人は、いつも「山本さん、山本さん」と、
よくイーストの監督さんのことを気遣っていました。」
「私の野球の原点は、旦那さんの野球でしたから。」
監督が言った。
「本当に、野球一筋の人でした。亡くなるちょっと前も、
ベットの上で横になりながら、野球のことを叫んでいましたもの。」
「野球の夢でも見ていたんでしょうね。」
「いえ、いえ、目はハッキリと明いてたんですよ。」
「でも、いつものぼんやりした目ではなく、
その日は、随分険しい目をしていました。」
「側にいる私には目もくれず、叫んでたんですよ。」
「「回れー」とか、「これじゃー、負けるぞー」って。」
「ベットの上で、腕を動かしてサインのような仕草もしてたんですよ。」
「あの、亡くなる前って、一体いつのことですか?」
監督が聞いた。
「亡くなる前の日曜日だったかしら。」
「午前中?」
「お昼ご飯の頃だったわ。」
「こりゃあ・・・。」
山本監督は、EJとMBの試合のことを奥さんに伝えた。
Tさんが、ベットの上でサインを出し、
叫んでいた時間帯はキッチリ先だっての大逆転劇、
EJ対MB戦の試合時間と重なっていたのだ。
「フフッ!MBの子ども達のことが心配で、
身体は行けないから、
魂だけサンドームに行っていたんでしょうね。」
奥さんはニッコリ笑って言った。
「亡くなる直前まで、野球をしてるなんて、
Tさんらしいですよ。」
山本監督は、こう話し、一礼をして立ち去った。
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山本監督は、二本目のタバコに火を付けた。
「別に負けた試合の責任をTさんのせいにしようとは思わないが・・・、
やっぱりあの試合のMBは、
今までとは違う粘りと強さがあったと思う・・・。」
「ひょっとして、圭介のスクイズバントに、
Tさんが手を出して邪魔してたりして!」
R太郎のお父さんが、冗談交じりに言った。
「それじゃあ、智哉のピッチングの時に腕にしがみついていたかもな。」
監督も笑いながら言った。
「そう言えば、妙に、あの日は智哉、
いつもより、随分汗をかいていましたモンね。」
私が追随した。
監督は、タバコの煙をフーと幾分長く吐いた。
そして、下向きにしていた視線を戻しながら、少し間をおいて、
しみじみと誰にともなく呟いた。
「やっぱり、来ていたんだろうな・・・。」
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練習で一度もフライを捕れなかった子どもが、
本番で、いきなりフライをキャッチしたり、
コツコツと練習を積み重ねながらも、
ズーーとベンチを温めてきた選手が、
いきなり代打でサヨナラヒットを打ったり・・・。
かと思えば、ライト側に伸びるファールラインに向かって
リードをとるファーストランナーがいたり、
「ツーアウト!」とキャッチャーが守備陣に声をかけたら、
何故か、敵のセカンドランナーが「オウ!」と応えていたり・・・。
泣いたり、笑ったり、叫んだりの繰り返しが、少年野球の醍醐味だろう。
そして、この少年野球に心の底からズッポリハマッテしまう大人は、
全国アチコチにたくさん存在するようだ。
かくなる私も息子が初めて試合に出たときに、
当たり前のセンターフライを当たり前に捕っただけで、
「ナイス!センター!」と叫ばれている息子を何度も思い出し、
家で一人祝杯を上げていた。
全くのマグレ。
ボールの方から勝手に、
差し出したグラブへ飛び込んできたにも関わらず・・・。
「少年野球は、高校野球よりも断然面白い。」と断言する大人は多い。
涙や感動のない少年野球はない。
グランド内で繰り広げられる珍プレーや好プレーの中に見られる
子ども達のひたむきさ、そして何より目の前で、純粋に野球を楽しみ、
プレーに熱中する子ども達の姿こそが、
周囲の大人達に絶えず感動を与えている。
そして、その影で、家庭や仕事、自分の時間さえ投げ打って、
少年野球に賭けている野球バカな大人がいる。
誰よりも少年野球を愛し、
チビッコ選手を愛おしいと思っている大人が、
全国のいろんな地域に必ずいるのだ。
山本監督は、
「Tさんもその一人。」
「仕事以外は、殆ど野球漬けの生活をしていた。」
「まるで母子家庭だと、奥さんが嘆いていた。」
と言っていた。
「今度のファルコンズ戦・・・、」
「MBの子ども達は、黒の腕章をして戦うんじゃないかな。」と、
タバコの火を消しながら、寂しい口調でポツリと山本監督は言った。
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MFのブログでも、S監督がT氏の訃報をいち早く伝えていた。
MBの前の監督、Tさんが3月1日、お亡くなりになりました。
突然の訃報にただ、ただびっくりしています。
本当に根っからの野球人でした。
そして少年野球に強く情熱をささげた人でした。
私はどれだけTさんから「少年野球とは?」のヒントをもらったかわかりません。
そして、野球に対して厳しく、子供たちには優しくすばらしい指導者でした。
Tさんの背中を見て育ってきました。
協会杯サンドーム大会でお会いしたのが最後でした。
まさかこんなに早く逝ってしまわれるなんて夢にも思っていませんでした。
この青森少年野球協会は設立のときはTさんもメンバーでした。
子供たちの為にいろいろ苦心され、時間を犠牲にしてきた仲間でした。
本当に残念でなりません。
Tさん。この青森の空の上から我々、
少年野球にかかわっている我々をずっと見守っていてください。
MBをずっと見守っていてください。
M監督をずっと見守っていてください。
そして、ファルコンズはこれからもずっとMBと
勝った負けたで一喜一憂しながら仲良く頑張っていきます。
Tさんが作った青森少年野球協会を立派な協会にしていきます。
協会杯は次節、MB対ファルコンズです。
Tさんに「良い試合だった。」と言われるような好試合をしますよ。
見ていてください。
それでは、Tさん、そちらでも大好きな野球をやってください。
私はあなたのことは忘れませんよ・・・。
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(名文だと思います。)
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「そういうことなら、追悼の意味でも、
是非ともMBには、ファルコンズに勝って欲しいですね。」と、
私は、山本監督に言った。
「そう、是非、MBには、ファルコンズに勝って、
そして、浪岡南に負けて欲しい。」
山本監督は言った。
それだけが得失点差でEJが、
サンドーム大会で優勝する唯一の可能性である。
私は、せっかく良い話を聞いたと思ったが、
この一言で天国のTさんは、
山本監督の頭をポカリとやっているのではないかと思った。
隣で、R太郎のお父さんがニコッと笑った。
「よーし、やるか!」
一声発し、両手で頬をパシッと軽く叩いて、
山本監督が出て行った。
練習グランドでは、
春の学童の大会を意識した守備練習が繰り広げられていた。
Tさんの「T」はその後、
MBを後継したチーム名の一部に
刻まれたとか・・・。
(合掌)
---おわり---
4年ほど前に、
当時、EJ監督から聞いた話を元に、
膨らませて書いたものです。
フィクションとしながらも、
本年の3月1日を逃すと、またしばらく掲載できないかなと思い、
思い切って関係者の皆さんの許しを得ないまま掲載しました。
表現・内容で、「けしからん!」という部分があれば、
匿名でかまいませんので、コメントを頂ければ、
速やかに削除・修正いたします。
by mino
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"物書き"を気取ったわけではありませんが、
いい話なので、いつかご紹介しようと思っていました。
へたくそな文章は、ま、勘弁してください!!
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