【『教理対話』ノル大司教/ファロン師共著 1956年、中央出版社】
ノル大司教( 1875-1956 )
目次 00 初対面
青年
神父様、今晩は。
神父
今晩は、さあ、どうぞ、何か御用ですか?
青年
私はジャックソンというものですが、おひまでしたら、カトりックという
宗教を教えていただきたいと思って参りました。
神父
ええ、ひまです。そうでなくても、ひまをつくるようにします。教えるということは
私の大事な仕事の一つですから。うちあけて私が御説明申しあげ、あなたも同じように
疑問などを打明けて下さいますと、私達の話は、面白いものになると思います。では、
初めに二三お尋ねしますが洗礼を授かっていられますか?
青年
いいえ。
神父
宗教教育をお受けになったことがありますか。
青年
いいえ。
神父
カトリックの女の方とでも御友達ですか?
青年
いいえ、全然。実は私はカトリック教会の古くて大きなことや、信者間の宗教上の一致に
非常に感銘しているのです。
神父
そうですか、それではあなたは多くの人が抱いているような偏見を
お持ちではありませんね、よくわかります。
青年
私は、先生、努めて心を白紙にするようにしています。失礼しました。
本当の御呼び方をするのを忘れまして。私はどうも聖職の方々とお話しする
ことになれていないものですから。
神父
ごもっともです。カトリックで司祭のことを「神父(ファーザ)」
というわけをあなたはご存知ですか?
青年
いいえ、知りません。ですが、私の或るカトリックの友達が、非カトリックの人に
立派な返事をしているのを開いたことがあります。この相手の人は、司祭には
そういう名前で呼ばれる資格はない、と言い張ったのです。
神父
お友達はどんな返事をしたのですか?
青年
そうですね。そのカトリックでない人が「いかなる人も父と呼ぶ勿れ」という
キリストの御言葉を引用しましたところ、その信者の人は「君は自分の
父親のことをどういうのか」と言いました。
神父
それはあげあし取りではありませんね。司祭を「神父」と呼ぶ根本的な理由は、
聖パウロが示しています。「その福音を以て汝等をキリスト・イエズスに
生みたるは我なればなり」(コリント前4-15)司祭のつとめは聖パウロのつとめに
似ています。司祭は、霊魂に新しい種類の生命、超自然の生命を与える、神の
御手の中にある一つの道具で、それは丁度、あなた方が父と呼んでいられる
親が、あなた方に自然の生命を与えるための神の道具であるのとかわりません。
神はこの二つの場合の第一原因でありまして、これがキリストのおっしゃいました
「汝等の父は天に在す一人のみなればなり」(マタイ23-9)の意味です。
この世における司祭の本当の目的は受持教区の霊魂の世話をする事でありまして、
父親が家庭の世俗的世話をするのと同じです。ですから、「神父」という
肩書は当然の事です。
青年
神父さん、この問題に触れましたついでに、なぜ教会が司祭に独身でいるように
命じているかその理由を説明していただけませんか? 実はどうして皆さんは
御結婚なさらないのですかとお聞きしますと、恐らく「あなたに関係ないことだ」
とおっしゃることと思います。
カトリックの司祭が結婚なさらないわけをお尋ねしても失礼でないと思いますが。
カトリックでない人達にはあなた方の教会のこの掟がわかりません。
神父
喜んでお話します。教会のこの掟は、神の教会と司祭のつとめとの本当の性質に
精通されてからでないと本当にわからないでしょう。司祭は福音の単なる説教者
ではありません、司祭は特別の祝福(叙階)によりまして神に献げられています。
それ以外のものには決してなれません。
自分は世俗的な、そして人間的なつながりから特別に神の御召出を受けていると
考えています。聖パウロの言葉を借りますと、「けだし、すべて大司祭は人の中
より選ばれ、神に関する事に就きて人々の為に供物と贖罪の犠牲とを献ぐるの任を受け」
(ヘプライ5-1)ているのです。
人々の為に叙階されています。ですから、その時間と才能と生涯は、その人達の
意のままにあらねばなりません。
一切の世俗的な束縛がないということは、天主のおん為に専心に仕事をする
ということにとりまして、実に欠くべからぎることであります。聖パウロは
結婚しませんでした。聖ペトロは結婚していましたがキリストに従う為に妻と
「一切のもの」を捨てました。この人達が結婚していましたら、その仕事の
成功はずっと望み薄かったことでしょう。
聖パウロ自身がこのことを「妻なき人は如何にして主を喜ばしめんかと
主の事を思い煩うに、妻と共に居る人はいかにして妻を喜ばしめんかと、
世の事を思い煩いて心分かるるなり」(コリント前7-32~33)と言っています。
疑いもなく、既婚の司祭よりも家族的なつながりを持たず結婚しておらない
司祭の方が、はるかにキリストにならって、伝染病で苦しんでいる人々の
助けになることができますし、経済的な出費も少くて暮して行くことができます。
青年
なるほど、そういうわけで聖職者は結婚しないのですか。しかし、
恐らく大多数のカトリックの人達はこれを重視しはしないでしよう。
神父
純潔な独身生活などできはしない、と思っている人も中にはあります。
司祭職の性格と義務を知っているカトリック信者は、司祭の独身生活を
心から信じています。毎日二時聞以上もかかる司祭のミサ、黙想、その他の
お祈りによりまして、司祭はどうしても神のおそばにいなければなりません。
酒の味を知った人はこれ無しで済ますということは、なかなか困難だと
思っていますが、酒の味を全然知らぬ人はそうではありません。
ずっと独身でいまして、その上、純潔の誓を立てている人の場合も
これと同じことです。
青年
でも、司祭や修道女の悪徳を書き立てた本が沢山ありますね。
神父
それはそうです。しかし、それはカトリック教会の公然の敵とか、
カトリック教会を攻撃すると時々金銭的な利益があるような人々が
そう云うのです。
この本をお渡ししますからその始めの方をじっくりお読みになって、
今週中に第一回の講義のために夕方またいらっしゃい。本の終りに
祈祷文がのっていますが、その中の幾つかを暗記して下さい。
今直ぐ暗記するには及びませんが、毎晩夜のお祈りに読んで下さい。
そうしますと、大した勉強をしなくてもすぐにおぼえられます。
真の信仰は神の賜物で、これは祈祷によつて神にお願いしなければ
ならないものですから、勉強しながらお祈りをするということは
大事なことです。
主祷文(主の祈り)と天使祝詞(アヴェ・マリアの祈り)と
使徒信経(使徒信条)は事実、天から授かった祈りです。ですから、
カトリック信者はこれを暗記することが望まれます。
主祷文(主の祈り)はキリスト御自らがお作りになって弟子達に
教えられました。天使祝詞(アヴェ・マリアの祈り)の初めの部分は、
主の御使の天使がマリアに述べた言葉と、従姉のエリザべットが聖霊に
感じてマリアに申しあげた言葉を含んでいます。使徒信経は初代キリスト信者の
信仰告白で、教会を通して主が教えられたおもな真理の要約です。ですから、
私達はこの三つのお祈りを改めることはできません。
これと一緒に、信徳唱、望徳唱、愛徳唱を知っていただきたいと思います。
青年
司祭のいわれるほとんどどすべてのお祈りに信者が「アーメン」
とあわせていますが、あれはどういう意味ですか?
神父
あの言葉は「しかあらしめ給え(たしかに、そうでありますように)」
という意味で、お祈りの是認とか確信を表わしています。しかし、
人がひとりで祈る場合でも普通この言葉で結びます。研究中の疑問は
なんでも必ず尋ねて下さい。隠さねばならないものは何もありませんし、
又、あなたが完全に信じられたということが確かめられませんと、
私達はあなたを正式に教会にお迎えしません。
青年
それでは、神父様、今晩は御教示をいただきまして誠に有難うございました。
第一回の講義を楽しみにしています。
神父
木曜日の晩お出で下さい。勉強しながら祈って下さい。
聖寵によりましてあなたが神に心を向けるようになられましたように、
神があなたをさらに御導きならんことを祈っています。
➡目次 01 「キリスト教信仰の基礎」につづく
【どちりいなきりしたん】
キリシタン版の一つ。 名称は〈キリスト教の教義〉を意味するポルトガル語Doctrina Christãoに由来し,
《どちりいなきりしたん》ともいう。 ... 信者となる者や幼児洗礼を受けたカトリック信者の子弟の宗教教育に
用いられ,万人に教えを説く必要から、教義が問答形式によって体系的に平易な文章で説かれている。
写真はヴァチカン教皇庁図書館蔵書、天正19年(1591年)
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