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『教理対話』目次6「神の教会」という正しい概念

2022-11-12 13:58:53 | 日記
目次6「神の教会」という正しい概念

神父 
さて、私達は、キリストは真の神にましまし、死に給うほど「世を愛し給うた」という
ことを見ましたね。これはキリストの御贖罪(しょくざい)といわれています。キリスト
は御自分の御苦しみと御死を、人類の罪を贖(あがな)う犠牲として神にお捧げになり、
「神の子、天国の相続者」になる権利を人類に回復されました。しかし、キリストの
御死去という事実だけでは全人類は救われません。

青年 
私も、救われるとは考えません。私の友人の中には自分はもう救われていると言っている
人がいますが…。キリストがすべての人のために死に給うたということだけで、どんな
生き方をしていましても救われるというのでしたら、御贖罪は罪への奨励になるでしょう。
これは神の嫌い給うところだと思います。

神父 
全くです。ところが、キリストを救い主として認めるだけで救われると思っている人が
たくさんいます。これは教会と神の掟を捨てることです。

青年 
救世主の死は、天国に入る新しい機会を人に与え、神と共なる永遠の幸福を得る可能性を
与えた、と私は考えます。

神父 
あなたの御考えは正当です。私達の町で町民に電燈とか飲料水を供給する制度を作った
だけでは、町民は相変らすその利益にあずかることはありません。たとえ町が各家庭の
必要以上の水を供給し得る大貯水池を作りましても、各人は家に管を備えつけこれを
配水管に接続させる工事をしなければ水は出ません。これと同じように、キリストの
御功徳は全人類を救うためには 十二分にありますが、各人は教会の一員になって、
神の掟を守り、キリストの用意し給うた恩恵のトンネルを通って神のお助けをいただか
なければなりません。

青年 
お話はよくわかります。自分流では立派な人でも、キリストの御功徳にあずかれない
かもしれません。それはその人が、主御自らがお定めになりました条件全部に合って
いないからです。

神父 
その通りです。そして、これに矛盾する主義が、今日の最大の謬説(びゅうせつ)
の一つになっています。

青年 
今日までの私自身は、電線の設備をしておりながら、発電所から電流を運んで来る
電線に接続もしていない家のようなものでした。こんな家は電線を取りつけていないも
同然で、電気を使うことができません。

神父 
あなたのお考えは的確です。世の中には、自分流のやりかたで自分の救霊をなし
遂げることができる、と主張している人が無数にいます。この人達は、天国は
超自然の報酬である、--- 恩恵によって超自然の価値をつけられた働きによって
始めて得られるものである ─ ということを認めることができないのです。
人間最上の働きでありましても、それを行う人が恩恵により神と共にあるのでなければ、
ただ自然的な価値を持っているにすぎません。

ところで、あなたにおたずねしますが、この二十世紀の世界に住む私達を教えるために、
救世主はどんな方法を御備えになったと思っていられますか?

青年 
そうですね、私はこういう考を持っています。キリストは救い主としてばかりではなく、
教師としてもお出でになられました。御自分はパレスチナという小さな地方でお教えに
なられただけですが、世界の果のすべての人にまで教えたいという使命を持って
いられました。私の考え が間違いないとしますと、主はその時間の大部分を費して
十二人の人をお教えになられましたが、それはこの人達を主のメッセージを携えて
他の国々へお遣しになるお考えだったからです。その通りでしよう? 神父様。

神父 
あなたの今述べられたお話では、初代の人々がキリストの教えを持つに至った
次第しかわかりません。キリストの教えが、絶対に間違いなしというスタンプをされて、
今日まで幾百年伝って来たのは、どういう方法によってでしょう。

青年 
そうですね、キリストから教えを受けた十二人の使徒が、自分達の受けた教えを書いて、
それを聖書にして将来の人々に残したのでしょう?

神父 
違います。大抵のカトリックでない人達の持っているような誤った考えを、あなたも
持っていられるのではなかろうか、と私は心配していました。プロテスタントはいつでも
自分個人の信仰を守る時だけ聖書を利用しますので、宗教をひろく研究したことのない
人達は、キリスト教の開祖が自分でこの本を書いたのだとか、将来の万国万世の人々を
教えるために使徒に命じて書かせたのだとかいう印象を抱いています。

青年 
神父様、私もそう思っていました。

神父 
それは間違いです。キリストは聖書を一言も書いておられません。また、使徒にも
これを書けという命令はなさいませんでした。実際は十二人の中の五人だけが
書いたのです。マルコとルカは十二使徒ではありません。ですが、この人達は神の霊感を
受けて、神のお望みになっていられることを書きました。ですから、神が事実聖書の作者です。
しかし、聖書だけで人々が教えを受けて救われるということは考えられていませんでした。

青年 
聖書の記者が「天国の霊感を受けた」というのはどういうことですか?

神父 
それは聖霊が働いて直接記者を助け神の欲し給うことを書かしめたということです。
多くの人は、カトリック教会はあまり聖書を利用しないという印象を抱いていますが、
あなたはそういう印象をお持ちにならないで下さい。教会が聖書をあまり用いない
という噂を、あなたは人からお聞きになったことがあるでしょう?

青年 
はい、神父様、カトリック信者は聖書を読むことさえ許されていない、ということを
聞いたことがあります。

神父 
私はもっとひどいことを聞いています。司祭が聖書を燃やしたという噂を聞きました。
確かな歴史の研究家なら誰でも、カトリック教会が世に聖書を送ったのである、
ということを知っています。また、教会の権威によってはじめて、この本が
霊感の筆を持っているということが判るとか、教会の最も学識のある子供達が
幾百年も生涯を費してこれを筆写し、いろいろな国語に翻訳した、ということを
知っています。

それはそれとしまして、聖書の問題は後でお話しましょう。唯今のところは、
すべての人の救霊に対する神の御計画について、正しい考えを持っていただき
たいと思います。キリストが、その時代の他の国の人々に主の真の教えを宣べる
ことができるようにするため、大勢の弟子達の中から使徒達を選び出し給うて
三年間訓練なさったとあなたはおっしゃいましたが、それは本当です。ですが、
この十二人の人達は、真の目に見える組織・社会たる御国の、最初の教師でありまして、
この御国は、「その治世は終りなかるべし」(ルカ1-33)と、世の終りまで存在を
続けるものであります。キリストは「我 、我教会を建てん」(マタイ16-18)と、
この御国のことを教会とよばれ、「さて、我は世の終まで日々汝等と共に居るなり」
(マタイ28-20)と、永遠にこれと共にまします約束をなされました。それで、
教会は教師としてのキリストを代表するばかりではありません。教会は、主のすべての
お働きを永遠に続けます。かかる事は聖書のよくなし得ないところで、教会のみ
 なし得るところです。教会が聖書を作ったのでありまして、
 聖書が教会を作ったのではありません。
新約聖書は教会の組織が
十分にでき上がって、しかも活動が困難な時に始めて書かれました。

キリストは三年間の御伝道中に教会という「体」を形づくられました。そして、
御昇天後十日目に、キリストの御約束に従って、聖霊が遣わされたのも、聖霊が
この「体」を活かし、これに聖なる生命を与え、またこれを誤りから守らんためで
ありました。この神の御国は聖パウロから「活き給える神の教会なり」(1テモテ3-15)
といわれていますが、立派なことばです。教会が「真理の柱にしてかつ基」(同前)
であるということは明かなことですね?「地獄の門はこれに勝たざるべし」(マタイ16-6)
ということも明かですね?「教会にも聴かすば、汝に取りて異邦人税吏(みつぎとり)
のごとき者とみなすべし」(マタイ18-17)ということはもっともなことです。
「汝らに聞く人は我に聴くなり」(ルカ10-16)ということも当然です。

キリストと使命を同じくするこの「活ける神の教会」の教える権威が、
キリスト御自身よりも劣るということは、どうしてあり得ますか?
罪を除く権能も同じです。人をきよめる聖なる助けが教会にないということも、
どうしてあり得ましよう?「父の我を遣わし給いし如く、我も汝等を遣わすなり」
(ヨハネ20-21)といわれています。

青年 
あなたのお話で、もはや全然議論の余地がありませんね。そこで私に全部呑み込めたか
どうか調べてみましょう。キリストは、教え、罪の赦し、人類のきよめという主の御働き
を一つの組織体を通して続けようとなさいました。この組織体は、主のお始めになった
ものであるというためばかりでなく、聖霊がその中に住み給うために聖なるものであります。
主御自らは目に見えぬ頭首として、初めの主の使徒達の後継者を通して働きつつ、永遠に
教会と共におられます。

神父 
そうです。あなたは要点を立派につかんでいらっしやいますね。教会は世界的な
ものでありますから、教会の教え、導き、聖なる助けは、すべての人に広められます。
すべての人は教会に入って教会の要求に従う義務があります。そして、その代りに、
その人達は聖なる助けをいただいて永遠の救霊に導かれます。

青年 
もちろん、今日の宗教界の情勢はそうなってはいませんね。大抵の人は、
教派のことをみな教会のように思っています。それは誤解ですね?

神父 
誤解です。キリストの教会の本質、権能、教えは、今日でも、十二使徒を通して
行われていた当時のものと同じものでなければなりません。救われるために万人の
属すべき教会はこの教会です。自分自身の重大な過失のために真の教会を知らず、
あるいは知りつつこれに入ることを拒む人は救われません。

青年 
自身には過失がなくて教会外にある人はどうなりますか?

神父 
そういう人達は、神より与えられた恩恵を良く用うるならば、恩恵の状態に入って
自分の霊魂を救うことができますから、やはり教会の霊に属すことができます。

青年 
教会の本質や使命、権威、権能に対する一切の疑いを取り除くために、
教会の特徴を明瞭に述べることができますか?

神父 
キリスト御自らが極めて明瞭にこう言っておられます。
「天においても地においても一切の権能は我にたまわれり。故に汝等往きて万民に
教え、父と子と聖霊との御名によりて是に洗礼を施し、我が汝等に命ぜし事を
ことごとく守るべく教えよ。我は世の終まで日々汝等と共に居るなり」
(マタイ28-18〜20)この御言葉は、ひとまとめにして使徒といわれている十一人の人に、
キリスト御自らが申されました。

この人達はキリストが親しくお教えになった人達で、その名前は、
ペトロ、大ヤコブ、ヨハネ、アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、
マタイ、トマス、小ヤコブ、タダイ、熱心党のシモンといいます。
使徒の中の一人のイルカリオテのユダは、主を裏切って自殺したので、
世界におもむき万人に新約の宗教を宣べ伝えることをキリストから委任された
人は十一人だけです。

青年 
ユダの跡を埋めるために、誰かが選ばれなかったのですか?

神父 
選ばれました。キリストが十一人の人にああいわれましてから間もなく、この人達は
一緒に集り、弟子達の中から、ユダの跡をつぐ人を一人選びました。選ばれた人は、
主の公生活の始めから熱心な教えの信者で、主の御復活と御昇天を立証し得る人で、
名前はマッテヤといいます。

青年 
キリストは使徒達に、しかも使徒達だけに、何か別の任務を
お委せになりませんでしたか?

神父 
非常に重要な任務を幾つかお与えになりました。主は御死去になられる前の晩に、
血を流さない新約の最初の犠牲を奉献して、御聖体の中なる御自分を使徒達に
与え給うてから、直ちに、主の今なし給うたと同じことを行うよう使徒達に
お命じになりました。即ち主の献げ給うたこの犠牲(いけにえ)を「続ける」
ことを使徒達に託されました。「我記念として之を行え」(ルカ22-19)と、
パンとぶどう酒を主の御体、御血に変えてこれを信者に与える権能を使徒達に
授けられたのです。

それから三日目の御復活の日に、主は十一人の者に(ユダはいませんでした)、
罪を赦す権能を授けられました。罪は神だけがお赦しになることができるのですから、
この権能は神から使徒に委任されたものにちがいありません。ですから、聖書に
「息吹掛けて曰(のたま)いけるは、聖霊を受けよ、汝等誰の罪を赦さんも
その罪赦されん、誰の罪をとどめんもその罪とどめられたるなり」
(ヨハネ20-22〜23)とあります。

キリストを予言していましたあの名前、即ち「メシヤ」は、「遣わされた者」
という意味です。主は「神の御子」として、第一には全人類を神と和解させるために、
第二には霊の御国を建て、主の御教えと罪の救済法と、秘跡(即ち、超自然の生命を
与えてこれを養うための聖なる儀式)とをその御国に委託するために、この世に
「遣わされ」給うたのです。

「さて我は世の終まで日々汝等と共に居るなり」というキリストの御言葉は、
使徒という最初の共同体がその後継者を通じて永久に続くのでなければ、
何の意味もなしません。

聖パウロは、使徒は神より任命された教師であるから、何人も自分勝手に使徒の職
には就けないという事を明言しています。この点は、誰しも、よく心得ていなければ
なりません。最初の使徒達のなくなった後においては、その正当な後継者たる人で
なければ、最初の教国に委任された職務を執り行う職権を授けられていないのです。

(目次7 聖書と教会との関係 につづく)
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