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ナポレオン3世の登場とクリミア戦争

2015-01-13 10:08:39 | 日記
フランス第二共和政で大統領に選出されたルイ・ナポレオン・ボナパルトは議会と対立を深める中で1851年にクーデタを起こして成功させ、1852年に皇帝に即位してナポレオン3世となった。ナポレオン3世のクーデタの際にイギリスは中立を宣言していたが、パーマストン外相が独断でナポレオン3世にクーデタ成功の祝電を送ったため、ヴィクトリアはラッセル首相に彼の解任を求め、首相もそれに応じた。1852年12月にロンドンで締結された秘密議定書によってイギリス、プロイセン、オーストリア、ロシアは皇帝ナポレオン3世を承認したが、反仏的なロシア皇帝ニコライ1世はナポレオン3世に王号を認めず、ナポレオン3世を苛立たせた。
ロシア帝国は当時崩壊寸前だったオスマン=トルコ帝国の切片を拾い上げる目的で当時トルコ領だったバルカン半島に在住する正教徒の保護権を求めてトルコと対立を深めていた。これに対抗してナポレオン3世はトルコに加担するようになり、トルコからエルサレムのローマ・カトリック教徒の保護権を認められた。トルコの態度に激怒したロシア軍は1853年7月からトルコ領へ侵攻を開始した。11月に両国が宣戦布告してクリミア戦争が始まった。
アバディーン伯爵内閣は閣内分裂状態で初めどちらに付くべきか結論が出なかった。だが海洋の覇者イギリスとしてはロシアが黒海から地中海に出てきたり、あるいは北方のバルト海を支配することは避けたかった。ヴィクトリアもロシア軍の地中海南下に危機感を露わにしていた。ナポレオン3世が英仏共同でロシアに最後通牒を突きつけようと提案してきたこともあり、結局イギリスはそれに乗ることになった。最後通牒で一カ月以内の占領地からの撤収をロシアに求めたが、ロシア皇帝ニコライ1世はこれを無視したため英仏はオスマン側で参戦した。
しかし40年間ヨーロッパでの戦闘経験がないイギリス陸軍は脆弱であり、しかも英仏軍はナポレオン戦争を引きずってどこかギクシャクしていた。戦争は泥沼化し、前線は多くの死傷者、病人を出した。ヴィクトリアは王女や女官たちとともに前線の兵士たちのためにマフラーや手袋を編んだ。戦死者の寡婦に弔慰状を書く事にも精を出した。1854年にはクリミア・メダル(英語版)を制定し、閲兵式において兵士たちに自ら授与した。負傷兵の慰問にも出かけた。またプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世に書状を送り、最低でも中立を保つよう依頼した。
クリミア戦争中の1855年4月16日にナポレオン3世と皇后ウジェニーが訪英した。親オルレアン家のヴィクトリアは革命から生まれ出たボナパルト家を嫌っていたが、ナポレオン3世とウジェニーのことはすっかり気に入ったようだった。二人と別れる際にはヴィクトリアは涙ぐんでお別れの言葉を述べた。ただこの頃ナポレオン3世はクリミア半島へ自ら出陣する意思を固めており、ヴィクトリアは大臣たちからそれを諌止してほしいと頼まれていたが、彼女の説得にもナポレオン3世は翻意しなかった(結局彼は自らの暗殺未遂事件があった後にこの計画を断念した)。
パリ万国博覧会開催中の同年8月、返礼としてヴィクトリアとアルバート、ヴィッキー、バーティが訪仏した。ヴィクトリアは子供たちも皇帝が好きになったと日記に書いている。バーティはナポレオン3世に「貴方の息子だったらよかったのに」と語ったという。ナポレオン3世にとって何より重要な儀式となったのは、ヴィクトリアが廃兵院を訪問してナポレオンの棺を詣でたことだった。その場ではナポレオンに敬意を払っていたヴィクトリアだったが、帰国後にはナポレオンの棺について「見事でしたけどプールに似ていたわ」と嫌味を述べた。
一方前線ではセヴァストポリ要塞攻防戦でロシア軍と英仏軍が激戦を繰り広げていた。ヴィクトリアは外相クラレンドン伯爵に「ここを陥落させればオーストリアとプロイセンもこちら側で参戦するはず。文明世界を食らう野蛮国ロシアは周辺の列強全てで封じ込めなければいけません」と語った。1855年9月にセヴァストポリ要塞が陥落したことでロシア皇帝アレクサンドル2世は戦意を喪失し、ナポレオン3世の提唱するパリ講和会議を受け入れ、1856年3月30日にパリ条約が締結されて終戦した。だがこれはイギリスの意に反する形で行われ、ヴィクトリアはナポレオン3世に不信感を持つようになった。バーキン 50 とはいえイギリスも一人で粘るわけにはいかず結局この条約に追従する羽目になった。
しかしパリ条約は双方利益が少なく、これでは何のために多くのイギリス人の命が失われたのか分からないとヴィクトリアは不満だった。伯父レオポルド王に宛てて「イギリスの目的は野蛮大国ロシアの危険な野望からヨーロッパを救う事です。オーストリアとプロイセンが1853年の段階でロシアに断固たる姿勢をとっていたらこんなことにはならなかったのに」と書いた。

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