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普仏戦争

2015-01-19 16:34:37 | 日記
1867年春にルクセンブルクをめぐって普仏戦争の危機が高まる中、ヴィクトリアは介入に消極的な首相ダービー伯爵や外相スタンリー卿(英語版)(首相ダービー伯爵の息子)に活を入れてロンドン会議を開催させ、ルクセンブルクを永世中立国にすることで危機を収束させた。だがビスマルクは南ドイツ諸国を取り込むためにフランスとの戦争を欲していた。結局スペイン王位継承問題を利用したビスマルクの策動で1870年にナポレオン3世はプロイセンへの宣戦布告に追い込まれ、普仏戦争が勃発した。ナポレオン3世は緒戦でプロイセン軍の捕虜となり、完全に失脚した。ビスマルクは戦争で高揚したドイツ・ナショナリズムを背景にプロイセン王ヴィルヘルム1世をドイツ皇帝に即位させてドイツ帝国を樹立した。
この間ヴィクトリアにできたことはベルギーの中立を守ることをプロイセン、フランス双方に約束させること、イギリスへの亡命を希望するウジェニー皇后を受け入れてやること、エルメスバッグ そして新生ドイツ帝国がフリッツやヴィッキーの望む形になる事を祈ることのみだった。1871年3月にプロイセン軍から釈放されたナポレオン3世の亡命も受け入れた。彼はウィンザー城でヴィクトリアと会見したが、落胆しきって涙ぐんでいたといい、ヴィクトリアは日記に「前回(1855年)勝利者としてここにやってきた時の彼と何という違いか」と書いている。
また戦後ヴィクトリアは親仏派の皇太子バーティがドイツ皇太子夫妻(ヴィッキー・フリッツ)と疎遠になって一族がばらばらにならないよう関係を取り持つことに努めた。ヴィクトリアもバーティもドイツ皇太子夫妻もビスマルクを危険人物とする点では見解は一致していた。

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ビスマルク、ナポレオン3世との対立

2015-01-19 16:34:37 | 日記
ヴィクトリアの長女ヴィッキーは1858年にプロイセン王国国王代理ヴィルヘルム1世の長男フリードリヒ王子(フリードリヒ3世)と結婚した。二人は1859年に後にヴィクトリアと因縁になる長男ヴィルヘルム王子(ヴィルヘルム2世、愛称ウィリー)を儲けた。ヴィクトリアは1860年9月にザクセン=コーブルク=ゴータ公国のコーブルクを訪問した際に初めてウィリーと出会った。ヴィクトリアはこの初孫について日記に「素晴らしく良い子だ。白い美しい肌と繊細な輪郭、ヴィッキーやフリッツのような素晴らしい顔、髪の毛はブロンドの巻き毛。私たちは彼を見ることができて幸せだ」と書いている。
1861年にヴィルヘルム1世がプロイセン王に即位し、1862年にオットー・フォン・ビスマルクがプロイセン宰相となり、プロイセンは軍拡・ドイツ統一に乗り出した。だがドイツ統一をめぐっては大ドイツ主義(オーストリア中心の統一)と小ドイツ主義(プロイセン中心の統一)の対立があった。1863年にオーストリアは大ドイツ主義的なドイツ連邦改革を行おうとフランクフルトでドイツ連邦諸侯会議を開催するもプロイセンが反発して出席を拒否し対立が深まった。ヴィクトリアは1863年8月にアルバートの銅像の完成記念にコーブルクを訪問したが、この際にコーブルクまで彼女に会いにやってきたプロイセン王ヴィルヘルム1世やオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と会見した。ヴィクトリアは両国君主に協調を求めたが、ヴィルヘルム1世もフランツ・ヨーゼフ1世もにべもなく自国の譲歩を拒否した。
1863年11月にデンマーク王に即位したクリスチャン9世がロンドン議定書に違反してシュレースヴィヒ公国へのデンマーク憲法の適用を強行したのに対して、プロイセンとオーストリアはデンマークにロンドン議定書を守らせるとしてシュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争を開始した。皇太子バーティはデンマーク王女を妃に迎えており、一方長女ヴィッキーはプロイセン皇太子の妃となっていた。だがヴィクトリアにとって決定的なことは生前アルバートがシュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題で常にプロイセンを支持してきたことであり、彼女もその立場を踏襲した。大臣たちに対して「ヨーロッパの平和のため重要なことは一つ。自らこの事態を招いたデンマークを支援しないことです」と主張した。閣内でも「平和派」が主導権を握り、最終的にイギリスはデンマークを見殺しにすることになった。
だがプロイセンへの肩入れもそこまでだった。その後のヴィクトリアはプロイセンへの警戒感を強めた。彼女はロンドン議定書に反してシュレースヴィヒやホルシュタインを併合しようとしているプロイセンに強い怒りを感じていた。ヴィルヘルム1世に宛てて「この恐ろしい時期に私も口を閉ざすわけにはいきません。貴方はある男に騙されているのです。」と書いて送った。1865年には伯父レオポルド王への手紙の中で「プロイセンは極悪非道の限りを尽くしています。バーキン30 エトゥープ 不愉快千万です」と怒りを露わにしている。プロイセンは小ドイツ主義統一を確固なものとするため1866年に普墺戦争を起こし、オーストリアを打倒して北ドイツ連邦を樹立した。この際に従兄妹であるゲオルク5世(カンバーランド公)が国王として君臨するハノーファー王国はプロイセンに併合された。
一方ナポレオン3世は1863年に彼の伯父を否定するウィーン体制を破壊しようと1815年のウィーン議定書とパリ条約の改正のためにパリで国際会議を開催することを提唱した。もともとクリミア戦争末の裏切りでナポレオン3世に不信感をもっていたヴィクトリアはこれによって本格的に彼を嫌うようになった。ヴィクトリアはこのナポレオン3世の提案を「無礼千万」と非難している。
ヴィクトリアはビスマルクとナポレオン3世の二人こそがウィーン体制を破壊する元凶と確信した。


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