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不借身命 2011年6月  「政治の心・学問の心」(大隈重信の霊言)、宇宙人リーディング他

2011-06-12 08:53:40 | Happy Science
大隈 重信(おおくま しげのぶ、天保9年2月16日(1838年3月11日) - 大正11年(1922年)1月10日)は、日本の武士(佐賀藩士)、政治家、教育者。位階は従一位。勲等は大勲位。爵位は侯爵。

政治家としては参議兼大蔵卿、外務大臣(第3・4・11・14・29代)、農商務大臣(第13代)、内閣総理大臣(第8・17代)、内務大臣(第30・32代)、貴族院議員などを歴任した。早稲田大学の創設者であり、初代総長である。



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生い立ち [編集]
佐賀県佐賀市に現存する大隈重信の生家(国の史跡に指定)佐賀城下会所小路(現:佐賀市水ヶ江)に、佐賀藩士の大隈信保・三井子夫妻の長男として生まれる。幼名は八太郎。大隈家は、知行300石を食み石火矢頭人(砲術長) を務める上士の家柄であった。

重信は7歳で藩校弘道館に入学し、佐賀の特色である『葉隠』に基づく儒教教育を受けるが、これに反発し、安政元年(1854年)に同志とともに藩校の改革を訴えた。安政2年(1855年)に、弘道館を南北騒動をきっかけに退学(後に復学を許されたが戻らず)。この頃、枝吉神陽から国学を学び、神陽が結成した尊皇派の義祭同盟にも参加した。安政3年(1856年)、佐賀藩蘭学寮に転じた。のち文久元年(1861年)、鍋島直正にオランダの憲法について進講し、また、蘭学寮を合併した弘道館教授に着任、蘭学を講じた。

大隈は、長州藩への協力および幕府と長州の調停の斡旋を説いたが、藩政に影響するには至らなかった。そして慶応元年(1865年)、佐賀藩が長崎の五島町にあった諌早藩士山本家屋敷を改造した佐賀藩校英学塾「致遠館」(校長:宣教師グイド・フルベッキ)にて、副島種臣と共に教頭格となって指導に当たった。またフルベッキに英語を学んだ。 このとき新約聖書やアメリカ独立宣言を知り、大きく影響を受けた。また京都や長崎に往来して、尊王派として活動した。慶応3年(1867年)、副島と共に将軍・徳川慶喜に大政奉還を勧めることを計画し、脱藩して京都へ赴いたが、捕縛の上、佐賀に送還され、1か月の謹慎処分を受けた。

明治維新 [編集]「大隈財政」も参照

明治維新に際しては小松帯刀の推挙により明治元年(1868年)、徴士参与職、外国事務局判事に任ぜられた。キリスト教禁令についてのイギリス公使パークスとの交渉などで手腕を発揮するとともに、明治2年(1869年)からは会計官副知事を兼務し、高輪談判の処理や新貨条例の制定などの金融行政にも携わった。明治3年(1870年)に参議に補され、明治6年(1873年)5月、大蔵省事務総裁、10月から参議兼大蔵卿になった。

大隈の下には伊藤博文や井上馨といった若手官僚が集まり、木戸孝允とも結んで近代国家の早期建設を謳って大久保利通らを牽制した。当時、伊藤や井上らが集って政治談義にふけった大隈の私邸をさして「築地梁山泊」と称した。

民部省を吸収合併させて大蔵省を一大官庁とした大隈は地租改正などの改革に当たるとともに、殖産興業政策を推進した。征韓論には反対し、その後、殖産興業と財政改革という点から、明治8年(1875年)10月には、大久保利通と連名で財政についての意見書を太政官に提出したりしている。また、単独でも財政の意見書を提出している。さらに、西南戦争による支出費用の調達とその後の財政運営に携わった。

大隈は、会計検査院創設のための建議をおこなっており、会計検査院は明治13年(1880年)3月に設立された。

自由民権運動に同情して国会開設意見書を提出して早期の憲法公布と国会の即時開設を説く一方、開拓使官有物払下げを巡りかつての盟友である伊藤ら薩長勢と対立、大隈自身の財政上の失政もあり、明治14年(1881年)10月12日、参議を免官となった。いわゆる明治十四年の政変である。大隈は、10月15日付で辞表を提出した。

下野後 [編集]野に下った大隈は、10年後の国会開設に備え、明治15年(1882年)3月には小野梓とともに立憲改進党を結成、尾崎行雄、犬養毅、矢野文雄(龍渓)らが馳せ参じた。また10月、小野梓や高田早苗らと東京専門学校(現早稲田大学)を、東京郊外の早稲田に開設した。ただ、明治17年(1884年)の立憲改進党の解党問題の際に河野敏鎌らとともに改進党を一旦離党している。明治20年(1887年)、伯爵に叙された。

外務大臣から総理大臣へ [編集]
ブラックタイを着用した大隈
和服を着用した大隈
アカデミックドレスを着用した大隈大隈の外交手腕を評価する伊藤は、不平等条約改正のため、政敵である大隈を外務大臣として選び、明治21年(1888年)2月より大隈は外務大臣に就任した。 同年黒田清隆が組閣すると大隈は留任するが、外国人判事を導入するという条約案が反対派の抵抗に遭い、明治22年(1889年)には国家主義組織玄洋社の一員である来島恒喜に爆弾による襲撃を受け、右脚を切断するとともに辞職した。明治29年(1896年) 第2次松方内閣(「松隈内閣」(しょうわいないかく)と呼ばれる)で再び外相に就任するが、薩摩勢と対立して明治30年(1897年)に辞職した。

明治31年(1898年)6月に板垣退助らと憲政党を結成し、同年6月30日に薩長藩閥以外からでは初の内閣総理大臣を拝命、日本初の政党内閣を組閣した。俗に言う「隈板内閣」(わいはんないかく)である。しかし旧自由党と旧進歩党の間に対立が生じ、また文相・尾崎行雄が共和演説事件をきっかけに辞職すると、後任人事をめぐって対立はさらに激化する。後任文相に旧進歩党の犬養毅が就いたことに不満を持った旧自由党の星亨は、一方的に憲政党の解党を宣言、新たな憲政党を結成した。結局、組閣からわずか4か月後の11月8日、内閣は総辞職する羽目となり、大隈は旧進歩党をまとめて憲政本党を率いることとなった。

政界引退 [編集]明治40年(1907年)、いったん政界を引退し、早稲田大学総長への就任、大日本文明協会会長としてのヨーロッパ文献の日本語翻訳事業、南極探検隊後援会長への就任など、精力的に文化事業を展開した。

明治41年(1908年)11月22日にアメリカの大リーグ選抜チームと早稲田大学野球部の試合における大隈重信の始球式は記録に残っている最古の始球式とされている。大隈重信の投球はストライクゾーンから大きく逸れてしまったが、早稲田大学の創設者、総長、政治家である大先生の投球をボール球にしてはいけないと考えた早稲田大学の1番打者がわざと空振りをしてストライクにした。これ以降、1番打者は投手役に敬意を表すために、始球式の投球をボール球でも絶好球でも空振りをすることが慣例となった[1]。

政界に復帰、首相へ [編集]第一次護憲運動が興ると政界に復帰した。大正3年(1914年)にはシーメンス事件で辞職した山本権兵衛の後を受けて、2度目の内閣を組織(第2次大隈内閣)。与党は立憲同志会、大隈伯後援会→無所属団→公友倶楽部、および中正会である。7月、第一次世界大戦が起こると、中国大陸での権益確保を求めて、8月23日に対独宣戦布告をおこない、翌年には外相加藤高明と共に対華21ヶ条要求を提出した。ただし、中国側への最後通牒では、第五号の7項目は削除された[2]。 内相・大浦兼武の汚職事件(大浦事件)が起こると、8月には自身が外務大臣を兼任して内閣を改造し心機一転を図るが、政権は次第に国民の支持を失っていった。さらに政府に対する元老の圧迫が激しさを増し、大正5年(1916年)10月ついに内閣は総辞職、事後大隈も政界から完全に引退した。退任時の年齢は満78歳6か月で、これは歴代総理大臣中最高齢の記録である。また、再び首相に就任するまでの16年というブランクは歴代最長記録である。

この間、大正5年(1916年)7月に侯爵に陞爵された。

死後 [編集]
護国寺内 大隈重信墓大正11年(1922年)1月10日に胆石症のため早稲田で死去、1月17日に自邸での告別式ののち、日比谷公園で未曾有の「国民葬」が催された。その名が示すように、式には約30万人の一般市民が参列、会場だけでなく沿道にも多数の市民が並んで大隈との別れを惜しんだ。この3週間後に同じ日比谷公園で行われた山縣有朋の「国葬」では、山縣の不人気を反映して政府関係者以外は人影もまばらで「まるで官葬か軍葬」と言われ、翌日の東京日日新聞は「民抜きの国葬で、幄舎の中はガランドウの寂しさ」と報じたほどだった。

墓所は佐賀市の龍泰寺と東京都文京区の護国寺にある。

人物 [編集] 人物像 [編集]身長180cmと言われているが、昔の政治家は威厳を誇示するためには手段を選ばなかったため、信憑性は低い。(当時の平均身長からして、180cmというのは現代の190~200cmにも相当するが、大隈がそれほどの巨漢であったという逸話は特に存在しない)
口癖は「何々であるんである」。時には「何々であるんであるんである」となる。[3]
現在残されている大隈の関連文書は全て口述筆記によるものであり、大隈自身の直筆のものは存在しない。これは弘道館在学中に字の上手な学友がいて、大隈は字の上手さで学友に適わなかったため、書かなければ負けることはないと負けず嫌いで字を書くことをやめ、以降は勉強はひたすら暗記で克服し、本を出版する時も口述筆記ですませ、死ぬ時まで文字を書かなくなったためと言われている。
極めて合理的な考えを持っており、日本の暦を現在使われているグレゴリオ暦に変えた。
人間関係 [編集]伊藤博文をライバル視していたことがよく知られており、以下のようなエピソードが伝えられている。
明治30年(1897年)に大磯に別邸を構えたが、この別荘から西へわずか60メートルの地所には、当時、伊藤が本邸を構えていた。様々な政治上の軋轢があった相手との近い距離のためか、大磯別邸はあまり使用されず、明治40年(1907年)には別邸を新たに国府津に構え、わずか10年で大磯を引き払っている。
大隈と同郷で、かれに目をかけられた行政法学者織田萬のエッセイ集[4]によると、早稲田大学開学式典で伊藤が「大隈君とはいろいろ競ってきたが、教育機関を自ら作ったという点ではかなわない」と述べたことに満悦したという。また伊藤がハルビンで暗殺されると、「なんと華々しい死に方をしたものか」と悲しみつつも本気でうらやんだとのことである。
西郷隆盛は大隈を「俗吏」とみなして嫌っていたとされ、特に明治4年(1871年)の西郷上京の際に書かれた「西郷吉之助意見書」では名指しこそ避けたものの大隈の政策を「武士のやること」ではないと切捨て、更に同年に西郷の推挙で大蔵省入りした安場保和が大隈への弾劾意見書を提出したこと(西郷も大久保もこれには反対したために却下された)によって、大隈の西郷への反感は抜きがたいものになったとされる。しかし、大隈は西郷について、「人情には極めて篤かった」とも述べている[5]。
政治家嫌いの福沢諭吉とは、度々雑誌での論戦に暮れていた。福沢は大隈のことを「生意気な政治家」と、大隈は福沢を「お高くとまっている学者」と言ってお互いに会うことを避けていた。そんな二人を周囲は犬猿の仲だと言っていた。ある日、雑誌の編集部が大隈と福沢を会わせてみようと本人達に内緒で酒宴の席を設けた。いったいどうなるかと、周囲は面白がっていたが、直接相対した両者は、酒が通ると意気投合し、大隈が「福沢先生はうらやましいですね。未来ある若者に囲まれておいでだ」と言うと、福沢が「あなたも学校をおやりになったらどうです?」と持ちかけられて、早稲田大学を作ったという[6]。また、福澤の葬儀では福澤家は献花を断っていたが、大隈の献花に対しては黙って受け取った。
逸話 [編集]浦上信徒弾圧事件の際、イギリス公使ハリー・パークスは「日本の行っている事は野蛮国のすることであり、今すぐ信者を開放し、信教の自由を認めよ」と抗議してきた。その対応に手をこまねいていた明治政府は、交渉役に、英語が話せ、キリスト教の知識もあった大隈を選び派遣した。しかし当時大隈はまだ31歳だったため、パークスは「大隈ごとき身分の低い小役人とは話はできぬ!」と激怒したという。しかし大隈は「一国の代表者である私と話したくないと言うのなら、抗議は全面撤回とみなす。また、あなたの言うことは、国際法で禁止されている内政干渉である」と言い返し、互角に渡った。パークスは日本を極東の小さな島国ぐらいにしか思っていなかったため、日本の若者の口から“国際法”や“内政干渉”という単語が出てきた事に驚いたという。さらに大隈は「或る歴史家は言う、欧州の歴史は戦乱の歴史なりと。又或る宗教家は言う、欧州の歴史は即ちキリスト教の歴史なりと。この二者の言うを要するに、キリスト教の歴史は即ち戦乱の歴史なり。キリスト教は地に平和を送りし者あらずして剣を送りしものなり。キリスト教が生まれて以来、ローマ法王の時代となり、世に風波を惹起して、欧州の人民を絶えず塗炭の苦に陥らしめたのは是何者の所為なり」と続け、今の日本でいきなりキリスト教を開放すれば混乱が起きるとして、パークスを説得した。大隈はこのことが大きく評価されて政界の中心へと躍り出たが、その一方で信者であった浦上村の農民3,384人は20藩に分けて移され、牢に入れられてキリシタン信仰を捨てるように説得や拷問を受ることになった[7]。
あちこちに講演に招かれて人気があったが、禁酒団体と酒造業組合を一日のうちにはしごしたことがあるという。これは大隈が政治家であるため様々な方面に応援を求めなければならなかったという事情も存在する。早稲田大学非常勤講師の佐藤能丸は、このことが今日に至るまで大隈の全集が発行されていない遠因となっていると指摘している。
日本最初の鉄道が新橋~横浜間に建設された際、そのゲージ(軌間)を1067mm(狭軌。現在のJR在来線の軌間)に決めたのは大隈である。イギリス人技師の説明を聞いて大隈が決めたのだが両者ともに「日本の鉄道なら狭軌で十分」という感覚だったといい、「我輩の一世一代の失策」と大隈は後日語っていたという(池田邦彦「鉄道史の分岐点」イカロス出版、2005年)。なお、「日本の改軌論争」も参照。
日本初の地方遊説を行った首相でもある。
大正8年(1919年)、病床にあった成瀬仁蔵を励ますために、トマトやメロンをもって見舞った[8]。
大隈はメロンが大好物で、外国から持ち帰り日本で初めてメロンを栽培したと言われている。
人間は25年を5回生きる能力を有している、いわゆる人生125歳説を唱えた。大隈自身は83歳で死去したが、創立した早稲田大学にとって125という数字は特別なものとなり、大隈講堂の時計台の高さは125尺(約37.9メートル)であるほか、創立125周年にあたる平成19年(2007年)には記念式典を行っている。
お金を表す指のサインを考えた人物である。彼は通貨を設定するときにお金(硬貨)は円だから、誰でもお金のことだと分かるようにこのサインを使って説明
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