キャス・サンスティーン(永井大輔・高山裕二訳),2023,同調圧力──デモクラシーの社会心理学,白水社.(7.20.24)
長谷部恭男氏(憲法学)推薦!
「個人の利己的同調は集団を破滅的決定へ導く」
同調はどのようにして生じるのか? カスケードや集団極性化に基づきながら、デモクラシーの社会心理を描いた記念碑的著作。
神を絶対的準拠点にして、硬性の「個人」が確立したキリスト教文化圏においても、しばしば同調圧力がはたらく。
キャス・サンスティーンは、「カスケード」や「集団極性化」といった鍵概念を使って、同調圧力のはたらきかたを分析する。
「言論の自由」を保障することが大切なのは、同調圧力に屈せず、「王様は裸だ」と言う者がいなければ、集団は錯誤、虚偽、欺瞞に囚われたまま、差別、抑圧に加担し、ときには大きな被害、損害を生み出し、破滅してしまうことがあるからだ。
「裸の王様」の話に戻ろう。「しかしながら子どもは、大切な仕事などもっておらず、その眼が映してくれたものだけを見ることができたので、馬車に向かって進んでいきました。「王様は裸だ」と彼は言いました。・・・・・・男の子の発言は見物人たちの耳に入り、何度も繰り返されて、ついには誰もが「この少年の言うことは正しい!王様は裸だ!間違いない!」と大声で言いました」。この物語がもつ説得力は、日常生活への馴染みやすさに由来するものである。私たちはみな、誰かが王様は裸だと言うような状況や、あやうく誰かが言っていたかもしれない(もしくは言っておくべきだった)ような状況を目にしたことがある。厄介な壁となるのは、この一連の流れを引き起こすことがきわめて難しいという点であり、最初に情報を開示した者たちが社会的制裁や法的制裁に遭いやすい場合はとくにそうである。
このような場合に、はみ出し者や不平分子には有益な役割を果たす見込みがあることが見て取れる。彼らは、ともすれば無視されていたであろう情報や視点をほかの者たちにもたらす点で、貴重な役目を務める。文化の進歩にとって悪影響を及ぼす障害は、「革新を起こす者、実験を試みる者、錯誤を犯す者などの貴重な存在が、真似されるべき人びとと見なされないよう」排除する「社会構造」から生じているのではないか、という指摘について考えてみよう。ここに留保を設けるならば、先述のように天邪鬼タイプは錯誤を減らすことがなく、カスケードの減少に寄与するかもしれない。
(pp.80-81)
情報カスケードにおいて一番深刻なのは、個人が手元にもっている情報を集団が手に入れられないという問題だということは、重要な点として指摘しておいた。まさに同じ問題が評判カスケードにおいても起きていて、そうなると集団や公衆のなかの人間は、多くの人が分かっていることや考えていることを知ることもまた、できなくなるのである。評判カスケードの場合、人は自分が間違っていると考えたからではなく、自分が正しいと考えた見解を表明することで起きる(と思った)反対を受けたくないから、口をつぐむ。その結果問題となるのが、いわゆる集団的無知、すなわち大半あるいはすべての人間にとっても、実際にほとんどの人たちがどう考えているのか見当がつかなくなっている状態である。集団的無知にさらされると、人は自分以外の人びとが何らかの見解をもっていると思い違いをし、その思い違いに従ってみずからの発言や行動を変えてしまう。
一定の条件下では、この自己検閲は社会にとってきわめて深刻な損失となる。たとえば、東欧では共産主義体制が長年のあいだ存続できていたわけだが、それは強圧のせいだけではなく、人びとがほとんどの人間は既存の体制を支持しているという考え違いをしていたせいでもあるのだ。共産主義体制の崩壊は、各自が秘めていた情報を開示し、集団的無知を集団的認識に近いようなものへ変えることによってのみ、可能だったのである。このあとでみるように、戦時下においては自己検閲によって勝利が危うくなることもある。評判にかかわる圧力はまた、エスニシティによる識別を先鋭化させ、場合によっては、ひと昔前であればそのような識別など問題でもなく、敵対関係が生じるなど考えられなかった集団同士に、強烈な敵対関係を生み出したりもする。そしてもし、なんらかの見解が咎めを受けるようなことがあると、いずれ不評な見解はもはや公に論議の的にはならなくなり、以前であれば「とても考えられない」ようなことが、今度は「考えにすらのぼらない」ことになってしまうのである。もともとタブー視されていて、提起されることがほとんどあるいはまったくなかった見解は、耳にすることがないというだけで完全に除去されてしまう。やはりこの場合も、みずからの評判をみず、本心で思ったことを述べる人間が、ときにはその代償を払いながらも、社会全体にとって貴重な役割を果たすのである。
言論の自由を含むさまざまな市民的自由は、人びとを同調圧力から引き離そうとするものだとみることができるのであり、その理由は個々人の権利を守るためというだけでなく、黙秘の危険から社会全体を守るためでもある。哲学者のジョセフ・ラズによる名文句が、この点を明快に示している。「もし、表現の自由があっても自分自身にはその権利がない社会に生きるのを選ぶか、自分自身にはその権利があっても社会にはない方を選ぶかといわれたら、私なら迷わず前者の方が自分個人の利害にかなうと判断するだろう」。言論の自由がある体制は、その権利を行使することをあまり気にかけない人びとに数えきれないほどの恩恵をもたらすという事実に照らすと、この主張にも道理がある。世界の歴史をみても、民主的な選挙と言論の自由がある社会は、飢饉を経験したことがいまだかつてないという事実を取り上げてみよう――これは政治的自由が、それを行使しない人びとをどれほど守っているのかを如実に示すものだ。
(pp.93-94)
SNSをとおして醸成される各種「陰謀論」は、情報カスケード、評判カスケードの最たるものであるが、それらは、人びとに強い感情を喚起する画像、映像、言説の拡散によりもっともらしいナラティブとなっていく。
人びとは、認知的不協和を引き起こす情報を忌避し、「見たいものだけを見る」、その結果、エコーチェンバーのカプセルのなかで特定のナラティブが醸成、強化され、定着する。
「討議デモクラシー」は、エコーチェンバーを回避できるか、それは、条件次第である。
サンスティーンは、「集団極性化」という語句を用いて、意見や思考が極端化、過激化するしくみを説明する。
討議している集団内で何が起こるのか。集団では歩み寄りが起こるのか。個々の構成員がもっている傾向の真ん中に向かうのか。答えはいまや明らかである。それはおそらく直観で思いつくものとは異なる。議論する集団の構成員は通常、みずからが議論する前にもっていた傾向に沿うかたちで、より極端な考え方に至るのである。これは集団極性化として知られる現象である。集団極性化とは、議論している集団にはよくある行動パターンであり、これまでアメリカ合衆国やドイツ、フランスを含む十二ヵ国以上の国々が関わる何百もの研究で明らかにされてきた。私が本書を始めるに当たって取りあげた三つの研究――討議する一般市民や陪審員、裁判官などに関わるものには、それぞれ集団極性化が含まれていた。
そこから次のようなことが言える。移入民は深刻な問題だと考える集団は議論後、移入民はひどく深刻な問題だと考えるようになるだろう。医療保険改革法[通称オバマケア]を嫌う人びとは議論後、医療保険改革法は実にひどいものだと考えるようになるだろう。現在進行中の戦争動員に賛成する人びとは議論の結果、その動員によりもっと熱狂的になるだろう。国の指導者たちを嫌う人びとはお互いに議論した後、指導者たちを非常に激しく嫌うことだろう。また、アメリカ合衆国〔政府〕を非難し、その意向を疑わしく思う人びとがお互いに意見を交わしたとすれば、非難や疑念を強めることになるだろう。
実際、フランスの市民のあいだでは後者の現象が生じた具体的な証拠がある。同じ考えをもつ人びとが話し合うと、通常話し合う前に考えていたことよりも極端な考えに至るのである。反抗や暴動にさえ傾きがちな孤立した集団が、集団内部の議論の結果としてその方向に急激に向かう可能性があるということは容易に分かるはずだ。政治的過激主義はたいてい集団極性化の産物なのである。
集団極性化とカスケード効果のあいだには密接な関係がある。両方とも、情報や評判の影響の産物である。重要な相違は、集団極性化は議論の効果によるものとされるが、カスケードは議論を伴う必要はまったくないということである。さらに、集団極性化はカスケードのような過程を必ずしも伴わない。極性化は単純に、すべてかほとんどの個人が同時に集団の構成員の傾向に沿うようにより極端な地点に向かう決定を行う結果として生じる。
アメリカ合衆国では、集団極性化がバラク・オバマとドナルド・トランプの両者が大統領の地位に就くのを助けた。オバマ支持者とトランプ支持者たちは、たいてい支持者同士で話し合うことで、その候補者に熱心に傾倒するようになった。フェイスブックやツイッター上では集団極性化が毎日、毎時、毎分生じているのが見られる。同じ考えをもった孤立した人びとがネット上に増殖すると、集団極性化は避けられない。スポーツファンは集団極性化の餌食となる。なんらかの新製品を開発するかどうかを決める会社も同様である。
(pp.104-105)
訳文が硬く──もとの原文がきわめて硬質だ──、読みやすいとは言えないが、インターネットで接続された社会に蔓延するナラティブの生成過程と、討議デモクラシーの陥穽とを理解するには、良い参考文献となるだろう。
目次
序章 社会的影響の力
第1章 同調はどのようにして生じるのか
第2章 カスケード
第3章 集団極性化
第4章 法と制度
結論 同調とそれへの不満