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同調圧力──日本社会はなぜ息苦しいのか

鴻上尚史・佐藤直樹,2020,同調圧力──日本社会はなぜ息苦しいのか,講談社.(7.20.24)

生きづらいのはあなたのせいじゃない。日本社会のカラクリ=世間のルールを解き明かし、息苦しさから解放されるためのヒント。

 日本にあるのは「世間」だけであり、「社会」は存在しない。

 これは極論であるとしても、「世間」なり「空気」なりの圧迫の息苦しさと、自らとはまったく異質の他者をそれとして尊重する態度の欠如とは、若いころから意識せざるを得ない重大事だった。

 大学生のときに読んだ、山本七平の『空気の研究』は、「人は人、自分は自分」、その場の空気に忖度する必要なんかないんだという思いを強化してくれた。
 I am me.None of your business.、だよ。

 それ以降、できる限り、主語に「ウチ」という言葉を使わなくなったし、口話にしろ書き言葉にしろ、「わたし」という主語を欠かさないようにしてきた。

 その結果、楽ちんに生きていくことができるようになった。

佐藤  僕はこう言うんですよ。社会というのは、原理的に一つしかないんです。一つしかないものにはウチもソトもないわけですよ。たった一つしかないものにはウチソトもない。だから社会はあまり排他的にならない。ところが「世間」というのは小さいやつから大きいやつまで、たくさんあるんですね。たくさんあるから、外側と内側の区別がお互いの世間の間でできてくる。排他性も生まれてきたりするわけです
鴻上  僕が世間と社会の説明をすると、「それはつまり、ウチとソトのことでしょう。ウチが世間で、ソトが社会なんでしょう」とよく言われたりするんですよ。
佐藤  日本ではね。
鴻上  そう、日本では。日本人だと、ウチソト論というものが結構有名じゃないですか。自分が関係している世界をウチと呼び、それ以外をソトと呼ぶ。ウチソト論と、僕らが今言っている世間・社会論とは、どこが違うと思いますか。
佐藤  基本的に「世間」のあるところでは、「世間」の内側は身内ということですよね。「世間」の外側は何かというと、赤の他人。
鴻上  うん、ソトですね。
佐藤  赤の他人とか、ソトの人を「外人」という言い方もしますね。結局、世間の内側の人間に対しては非常に親切にするけど、外側の人間に対しては無関心か排除する。これが基本的な構図です。それで、日本人は社会に生きていないから、「世間」のソトにもやはり違う「世間」があって、そこでもウチとソトをつくっている関係じゃないですかね。「世間」の外側が社会になっているということではなく、たくさんの「世間」があって、それがお互い島宇宙みたいな感じで存在している。
鴻上  つまり、ウチとソトという単純な二分法ではないということですか?
佐藤  うん。つまり、こういうことなんです。例えばパブリック(public)という言い方があるじゃないですか。パブリックというのは、日本では「公共」と訳されていて、公共というのは公共事業とか、公共団体とか国家とか、そうしたものを意味する。しかし、パブリックの本来の意味は社会に属する概念で、しかも国とか、オフィシャルなものと対立する人びとのつながり。それが公共、パブリックなんですよ。これは「世間」全体を横断的につなぐ原理です。ところが日本では、「世間」のウチとソトの意識が強いため、共通の原理であるパブリックが成立しにくい。
鴻上  パブリックとは、すぐに国家だと思っちゃわけですね。
(pp.61-62)

 「人は人、自分は自分」、「自分のことは自分で決める」という基本がおろそかにされてきたおかげで、いまでも笑い話のようなできごとが起きる。

鴻上  二〇一九年の夏、「スクールオブロック」というミュージカルのオーディションをしたんです。集まったのは小学生たち四五〇人ぐらい。そのなかから五〇人ぐらい残って、みんなダンスをして、歌を歌って、控えの椅子に戻ってくるんだけど、見ていると、みんな水筒を持ってきているのに飲まないんですよ。喉が渇いているだろうに、誰も口をつけない。そこで僕が「飲んでいいぞ」と言った瞬間、五〇人が一斉にがーっと飲み出したわけです。なんだこれ?と思って、「ひょっとして、君たちは学校で先生がいいと言うまで飲んじゃいけないのか?」と聞いたら、全員同時に「はい」とうなずくわけです。どれだけ喉が渇いても、GOサインが出るまで我慢しているんですよ。小学校の五、六年生ですよ。あまりにも驚いたんで、そのことをツイッターに書いたら、七〇〇万インプレッション、七〇〇万人がそれを読んだんですね。
 すると、いろいろな報告があって、「鴻上さん、この前、駅のホームにいたら、課外学習らしい小学生の集団とその引率の教師がいて、生徒が一人、飲み始めたら、その引率のおやじさんが『こらっ、何を飲んでるんだ。飲みたかったら飲んでいいのか』 と叫んでました」と。「飲みたかったら飲んでいいのか」って、すごいでしょ(笑)。あるいは、「鴻上さん、あなたは現場のことを全然分かっていない」というお叱りも来るわけですよ。小学生に「いつでも飲みたいときに飲め」と言ったら、どれだけ現場が混乱するか。あなたは何も分かっていないでしょうと。だから無責任なことを言うんじゃないというわけです。
 先ほどの話でいうと、悪しき「みんな一緒」主義というか、そういうものに教育が陥っているなという気がしてしょうがないんですね。長年ボーイスカウトをやられている方から、「低学年は飲むタイミングを指導していますが、高学年は自主性に任せるべきです。それが教育だと思います」と来ました。卓見だと思います。
佐藤  それはブラック校則の問題と同じですね。何で靴下や下着の色まで決められなければいけないのか。すごく不思議ですよね。
と思っているんですが。
(pp.85-86)

 「世間」なり「空気」なりへの過剰同調を強いる価値規範は、「自己決定」を抜きにして「自己責任」のみを厳しく問う社会意識を醸成する。

佐藤  個人ということの関連でいえば、コロナ禍においても自己責任という言い方がされました。政府の無責任体質が反映されたに過ぎないのだけれど。失敗も貧困も、なんでも自己責任だと。
鴻上  こんなに自己責任から遠い国が、自己責任と言うのは、すごいですよね。「自我」ではなくて、共同体に従う「集団我」によって生きている国民が「自己」の「賣任」を問われるんですから驚きました。もう笑うしかないというか。自己責任という言葉が一般的に流布するようになったのは、たしか二〇〇四年四月のイラク人質事件からではないでしょうか。日本政府と多くの日本人は人質となった三人の若者に同情するわけでも、身を案じるわけでもなく、自己責任じゃないかと突き放しました。最近だとジャーナリストの安田純平さんがシリアで人質となったときも、やはり自己責任の合唱が起きた。佐藤さん、自国の若者がどこかで人質となった際に、ここまで自己責任論で当事者を責めるような国って他にありますかね。
佐藤  ないです。ありえません。イラク人質事件の際は、自己責任論にもとづくバッシングを、アメリカのパウエル国務長官(当時)にたしなめられたというでしょう。「危険をおかしたおまえが悪いということにはならない。彼らを無事に救出する義務がわれわれにはある」って。
鴻上コロナ感染者への攻撃にも用いられますよね。だから、自己責任って結局、「おまえのせいだろ」という、「世間」から爪はじきにするときにすごく便利な論理ですよね。あなたはもう「世間」のメンバーじゃない。それはあなたがやったことだから「世間」がもうあなたをメンバーとは認めないという。だから自己責任って、一種の村八分ですね。もう我々「世間」がケアする対象ではないし、その責任もないということの宣言ですね。
(pp.151-152)

 「忖度しない」、「わきまえない」、「従属しない」ことは、自分が自分であるための「尊厳の砦」だ。

目次
コロナで炙り出された「世間」―戦時という風景
第1部 「世間」が生み出す同調圧力
世間と社会はどこが違うのか
世間と社会の二重構造
「お返しのルール」―LINEの既読無視が問題視される理由
「身分制のルール」―なぜ名刺をもらうと安心するのか
「人間平等主義のルール」―強いねたみ意識 ほか
第2部 同調圧力の正体
なぜ世間に謝罪するのか―加害者家族へのバッシング
「親の顔が見てみたい」と家制度
感染者に謝罪を求める理由
ひきこもりと世間体
生活保護を妨げる「恥」―「権利」は持っているだけで「正しい」 ほか


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