,新曜社(¥3,675)'05.9.3
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「アイデンティティの権力―差別を語る主体は成立するか」という主題・副題から、読者はどのような問題をイメージするだろうか。女/男、障害者/健常者、黒人/白人等々の区別に準じた強固な自己同一性が成立しており、そうした認識レヴェルでの同一性意識は、社会規範と行為のうえでの日常的な権力作用をともない、マイノリティは自らが抑圧されていることを語る言葉さえ剥奪されている。こうした簡単な集約が可能なのも、本書に通底する筆者の問題意識がそれだけ一貫しているからだろう。もちろん、本書の真価は、こうした要約に尽きるものではなく、周到な文献研究にもとづく、さまざまな社会理論の緻密な読み込みとそれらの筆者ならではの批判的取り込みにある。
本書は、「現代の先進諸国の差別やマイノリティをめぐる問題の所在を、過去から現在まで学際的になされている、アイデンティティや自己に関する理論を再検討することを通して探っていく」(p.)ことをねらいとしている。その際、「社会の中で、差別やマイノリティの問題を客観的に論じ裁ける第三者は存在しない」、「すべての人が当事者であり、共犯者である」(同)というスタンスに筆者は立つ。
本書で、主題・副題に答えるべく議論の俎上にあげられるのは、自我・自己論、カルチュラル・スタディーズ、社会構築主義、ポストモダン・フェミニズム等々、差別やマイノリティの問題に関与してきたアイデンティティや自己についての社会理論である。そのうち、既存のアイデンティティ論、自我・自己論が、アイデンティティに潜む、あるいはアイデンティティがはらむ権力性について無自覚であったことへの批判から、本書の議論ははじまる。そして、筆者は、本書の目的を、「現代の先進諸国における、差別やマイノリティの問題を、アイデンティティがはらむ権力性という観点から、検討して提示するということ。その際、近年学際的になされているアイデンティティや自己に関する議論を、社会学で過去になされてきた議論の文脈から再検討し、それらの関連性と相互の文脈に対してもつ意義を明らかにすること。そして、社会学の自我論、アイデンティティ論の概念の根本に権力性を位置づけ、議論すべきであるという問題提起をおこなうこと」(p.xiii-xiv)におく。
本書の構成は以下のとおりである。
第一部 マイノリティと「主体」
第1章 社会現象としての差別
第2章 スティグマ分析
第3章 状況規範と異化
第二部 状況における権力と自己
第4章 行為と主体
第5章 状況定義/権力/アイデンティティ
第6章 ゴッフマンの「自己」
第三部 アイデンティフィケーション論へ
第7章 語る/聴く主体はいかにして成立するか
第四部 フェミニズムをめぐる考察
第8章 フェミニズムはどのように「近代」を問うべきか
第9章 解放の思想から樹立の思想へ
第10章 ポストモダン・フェミニズムの戦略
本稿では、順に、重要な論点を拾い上げていくこととしたい。
まず、第一部「マイノリティと『主体』」の第1章「社会現象としての差別」では、人種差別についての議論における、社会構造説と偏見説、およびマートンの内集団-外集団論とミュルダールのジレンマ論が検討される。そして、従来の差別の定義についての妥当性を検証し、筆者は、「差別とは、成員のカテゴリー間の同一性にかかわる正当性の基準に基づいて告発された事象である」(p.19)と定義する。さらに、多様な差別を事象化させる契機として、状況の規範、制度の規範、根拠の規範の三つを挙げ、「差別は、同一社会内で一致すると想定されている異質な規範間のずれが、成員により告発されあらわになった、社会現象である」(p.24)とする。また、こうした視点と社会構築主義的視点とを照合し、「差別を、すでにあるものとしてではなく、つねに新たに発見される動的な過程の問題として明確に定義する」(p.32)必要を指摘する。差別を、すでにそこにある解決不能な固定的事実として把握するのではなく、動的な規範間のずれの告発過程として把捉する筆者の視点は、「差別は、つねにすでに認識され、差別として存在しているものではない。告発によって、見いだされていくものなのである」(p.33)という一文に集約されているといっていいだろう。差別とは、何よりも、社会的定義をめぐる闘争である。「差別は主観的なものである。しかし、それが共同主観に、より大きな共同主観になっていくよう争っていくものなのである。」(p.33)
第2章「スティグマ分析」では、差別の動的な生成過程を、相互作用の特定の形式として把握する。筆者は、レイベリング論、実存主義の「他者」規定を批判的に検討したうえで、ゴッフマンにはじまるスティグマ論の援用をはかる。なかでも、スミスとシェフが指摘した、相互作用過程における「切り離し操作」(cutting out operation)に筆者は注目する。この操作により、例えば、精神障害者は、状況への意味付与や行為の動機の正当性について主張する自由を剥奪される。次に、こうした相互作用が展開される状況要因が参照される。筆者は、場の成員により共同主観的に構築されるリアリティを「状況の現実」、そこにおいて用いられる社会規範を「状況規範」と呼ぶ。そして、状況規範を共有する者には、状況の定義を柔軟に解釈し直して個別に構築される「個人的現実」が許容されるとする。しかし、「異常者」というレイベルを貼られた者には、社会的に許容される「個人的現実」はありえない。「切り離し操作」とは、このような「状況成員としての権能を消却される過程」(p.55)のことにほかならない。「スティグマをもつ者は、あらゆる状況においてスティグマをもつ人であり、それ以外の存在である可能性はない。」(p.57)そして、「スティグマをもつ人は、役割演技、役割距離、回避儀礼などスティグマによって指示される以外の個人的な意味付与をなす機会を剥奪され、<個人的な現実>の存在を認められず、状況の現実の構築に参与する権利もしばしば認められない」(p.61)ことになるのである。
第3章「状況規範と異化」では、まず、従来の「役割」概念に代えて<身体カテゴリー>というコンセプトを掲げ、相互作用下における身体認識の予期ないし身体間の関係性を<カテゴリー規範>として位置づける。そして、カテゴリー規範が正当ではないとして告発されたとき、それを<差別的カテゴリー>と呼ぶ。以下、現実を構築する能力を否定され、特定のカテゴリー規範を強制される、異化と呼ばれる状況が生成する過程について、検討される。対面状況下での<現実構築>過程においては、状況を統制する<状況規範>がはたらき、それにしたがった個別的な<状況定義>が行われる。場の成員によって定義されていく状況と相即的に存在するのが身体カテゴリーであり、それは状況定義と相即的に生成するがゆえに<状況身体カテゴリー>(=<状況役割>)と称される。状況役割に応じた相互行為の形式については、オースティンとハバーマスの発話行為論が参照される。われわれは、逸脱行為も含めた他者の振る舞いについて、その動機の意味を解釈する。これを、筆者は、<行為のカテゴリー化>と呼び、マカヒューの観点を参照しつつ、行為の帰責を個人に問える条件として、論理性(行為者が状況規範を理解し明確に意識できること)と便宜性(行為者に行為を選択できる能力があること)の二つを挙げる。行為者固有の個別的な現実感覚がもたらすランダム性については、<もう一つの現実>、すなわち「身体の無秩序性を規範に対し安全な形に整形して社会のうちに取り込む装置」(p.83)が想定される。もう一つの現実観は、軽度の状況規範の違背を個別身体の動機の推定により了解可能なもののとしつつ、過度の無秩序についてはもう一つの現実として認証せず、その行為者の規範構成資格を剥奪することで状況規範を維持する。このような違背処理メカニズムをふまえ、筆者は、差別的規範を無効化する有効なコミュニケーションの手段として、差別的カテゴリーによる予期と違背処理の双方を被差別者が回避する戦略を挙げる。次に、筆者は、バトラーの議論に依拠しつつ、憎悪発話にみられる、喚情性を担った差別語の行為遂行性について検討する。バトラーは、オースティンにならい、発話行為の遂行性についての二つの機能、すなわち発語内機能と発語媒介行為としてのそれを区別し、憎悪発話を発話媒介行為として把握した。憎悪発話が発話媒介行為であるのなら、状況の改変なり発話を受ける聞き手の無効化戦略なりで、それが繰り返されることを食い止めることができる。筆者は、こうしたバトラーの議論に、憎悪発話や差別語が成り立つ状況の変革可能性を展望する。
第二部「状況における権力と自己」に移ろう。第4章「行為と主体」では、まず、シンボリック・インタラクショニズム、エスノメソドロジー等の解釈的パラダイムが、社会非決定論としてもつ有効性と問題点とを点検する。従来の社会決定論的行為モデルは規範モデルとして位置づけられ、そこにおいては規範は個人に特定の行為を指示すると同時に承認すべき状況も指示する。それに対し、ゴッフマンやエスノメソドロジー等の解釈的パラダイムは、状況定義モデルとして、行為が状況を定義していく機能に注目する。状況定義モデルは、行為が規範を承認しなくなったり、逸脱行為が新たな規範を前提とした行為として意味づけられていく、といった規範にかかわる相互作用過程を射程におさめることで、行為と規範との媒介項に状況定義をおいた社会理論の地平を切り開いていく可能性をもつ。
第5章「状況定義/権力/アイデンティティ」では、規範と状況定義との相即性をふまえ、規範=状況定義と規範の適用としての行為とが相互に連関するメカニズムについて検討される。状況定義をめぐる権力作用を分析するに際しては、「個々の行為の接続の仕方が、その場の状況定義を形成していく」(p.134)過程を記述していくことが重要になる。個人のアイデンティティの否定は、個人の状況定義や自己定義の否定でもあり、とくに、カテゴリーによる状況定義の剥奪は、カテゴリーに基づく権力関係の構築を意味する。先進産業国においては、制度化されない権力関係において、マイノリティによる状況定義が剥奪されてしまう問題が先鋭化している。「状況定義の構築と深くかかわる自己定義、すなわちアイデンティティが、カテゴリーに基づく権力関係として告発される差別問題において、重要な鍵となっているのである。」(p.143)
第6章「ゴッフマンの『自己』」では、ゴッフマンのアイデンティティ概念を導きの糸として、自己やアイデンティティを状況定義に相関したものとして把捉していく分析視角について検討する。ゴッフマンによれば、役割は「状況の自己」を措定し、それは「自己に課せられたアイデンティティ」として個人の人格全体を拘束する。ゴッフマンは、役割概念に加えて役柄、フェイス、はてまた、役割距離、二次的調整、といった概念を駆使して、公共的「自己」と私的「自己」との対立を、当該状況下での規範の選択、あるいは状況定義の一部として選択的に自己を定義する過程として把捉する。筆者は、ゴッフマンのいう「自己」呈示が、状況定義、現実構成と密接に連関して考えられていたことも指摘する。いずれにしても、「個人を包括的に規定する」自己は、「個人および個人間で形成されていく状況定義、すなわち現実の構成の鍵となる部分をなしている」(p.171)、とされる。
第三部「アイデンティフィケーション論へ」、第7章「語る/聴く主体はいかにして成立するか」においては、第二部での主体をめぐる社会理論の検討をふまえ、自己や主体が否定的に形成されてしまう問題について考察されている。筆者は、マジョリティのアイデンティティを<支配的アイデンティティ>、マイノリティのそれを、エリクソンの「否定的アイデンティティ」を読み替えて<周縁的アイデンティティ>と呼ぶ。マイノリティとしての主体は、しばしば支配的現実により全面的に否定される。「マイノリティは、自己定義を剥奪され、マジョリティの支配的アイデンティティに従属した、周縁的アイデンティティを構成する。」(p.183)マイノリティがそうした周縁的アイデンティティから距離をおき、「本物の自我」を背景にした自己呈示を行う戦略については、ゴッフマンのドラマトゥルギーが描いたとおりであるけれども、「本物の自我」をより普遍的レヴェルで実現しようとしたのが、いわゆるアイデンティティ・ポリティクスの戦略である。アイデンティティ・ポリティクスの運動は、マイノリティ中心の自己定義に基づく対抗的アイデンティティの形成を促し、日常的な権力作用を告発していった。「バリアフリーの社会」像は、障害者や高齢者のアイデンティティの周縁化を拒否するものにほかならない。しかし、アイデンティティ・ポリティクスの論理は、バトラーら、ポストモダン・フェミニズムの論客により、その本質主義的前提を批判されることになる。対抗的アイデンティティの構築には、アイデンティティ・ストーリーを変容させる物語論的解決もある。しかし、筆者は、権力作用のもとで語りえない状況におかれている個人や、語りに回収できない自己の身体性を問題とする。アイデンティティは、イデオロギーが内包する権力と不可分の関係にあり、このことは、近代社会における主体の自由が、近代の制度やイデオロギーに服従することで成立する逆説のなかに示されている。しかし、しばしば制度の呼びかけに同一化しない身体の問題、すなわち<主体化の失敗>が生じ、社会制度は変革を促されていくこともある。そして、筆者は、ポストモダン思想が提起する脱構築的戦略を吟味したうえで、アイデンティティをつねに達成されていくパフォーマティブなものとしてとらえる、何者かになる過程を把捉する<アイデンティフィケーション>の概念にいきつく。そこにおいては、「語る主体」とともに「聴く主体」をいかに成立せしめるかということと、双方の相互作用的構築の過程が重要視される。
第四部「フェミニズムをめぐる考察」、第8章「フェミニズムはどのように『近代』を問うべきか」では、まず、フェミニズム諸派の主張を、「手段主義」、「表出主義」、「統合主義」、「二極主義」の四つに整理した、グレノンの視点が紹介される。こうしたフェミニズム諸派の分裂は「近代」をどうとらえるかという視座と不可分であり、この点から、筆者は、フェミニズムの基本戦略を、<価値均衡化戦略>と<無関連化戦略>に分類する。価値均衡化戦略は、近代を問題化しようとしたが、両性の不平等を維持する危うさをはらんでおり、一方、無関連化戦略は、近代の意味を問い直すことはしないが、具体的な両性の平等化にある程度貢献してきたと評価される。そして、性別についての象徴的価値とそのの構築過程を明らかにすることの意義を確認する。
第9章「解放の思想から樹立の思想へ」では、これまでのフェミニズムの語り方を検討し、従来の「抑圧-解放」図式の限界を指摘し、それに代わる「差別-是正」のフェミニズムの語り方がより有効な図式として評価される。「解放」は、告発のエネルギーを動員するには有効だが、新たな社会秩序の創造にまでは至りにくい。いま、必要なのは、「性別マイノリティ」としての女性の視点から、女性が自分自身を積極的に肯定できるような新しい物語と制度とを構築していくという意味での「女の視点の樹立」にあるとされる。
第10章「ポストモダン・フェミニズムの戦略」では、まず、「ジェンダー・スタディーズとは、ジェンダーすなわち権力関係を含んだ性別観念、およびそれをめぐる現象についての研究である」(p.300)ことを確認したうえで、ポストモダン・フェミニズムの基本的視点が、反本質主義と、「差異の重視およびそれにかかわるカテゴリー(意味秩序)の問題化」にあるとする。バトラーは、生物学的性別の社会的構成をも問題化し、「女」の多様性を無視した、固定的な二項対立カテゴリー図式を批判した。しかし、実際的な運動のうえで、「女」カテゴリーを排除することは現実的ではない。結局のところ、ポストモダン・フェミニズムは、スピヴァクの「本質主義の戦略的利用」という言葉に集約される、カテゴリー概念を運動上の一戦略として自覚的に使用することを主張するものであるとされる。次に、マジョリティによるカテゴリー化がマイノリティとしての女性に不利益をもたらしていること、とくに最下層の女性においては当事者として自らの問題状況を語るという権利さえ剥奪されている点を指摘する。バトラーやスピヴァクは、「主体をおかない行為の帰属先であり、社会的に構築されながらも、なお社会から異質なものを生みだす可能体」(p.315)としてエージェンシー(行為体)という概念を用いるが、こうした視点の有効性が、日本社会におけるミスコンテストや買売春の問題をめぐる論争をとおして検討される。最後に、ポストモダン・フェミニズムの課題として、個別の状況に即したオールタナティブを提示することと、語りえぬ者の問題を分析の俎上にのせる必要を指摘する。
以上は、あくまで、本書からわたしがとくに学習させていただいたことをとりまとめたものにすぎず、これだけで本書の内容がつきるわけではもちろんない。それでもなお、本書の内容の紹介が、規定のスペースをはるかに超過してしまったのは、本書がそれだけ豊穣な意味に充ち満ちた労作であるからにほかならない。長年にわたる筆者による理論的研究の成果を、ぜひこの本をじかに読んで摂取していただきたく思う。認識のなかに潜む権力作用を明らかにすべく書かれた緻密な論述内容は、フェミニズムのみならず、福祉社会学、エスニシティ研究等において、マイノリティがおかれた問題状況を的確に把握し、問題解決への方策・戦略を練っていくうえで有効であろう。筆者の厚みのある理論研究の成果が、今後、語りえない者のアイデンティフィケーションの課題を含めて、さまざまなマイノリティがおかれた問題状況の究明とその解決策の提示に生かされることを願って、本書の紹介を締めくくりたい。
※本稿は、『共生社会学』第5号(九州大学大学院人間環境学研究院)に掲載予定のものです。
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