上野千鶴子,2015,発情装置(新版),岩波書店.(6.25.24)
「エロスとは発情のための文化的装置である」―こう定義づける著者は、世紀末のエロスの様相を、本著で大胆に読みとく。
ヒトはなぜ欲情するのか?本能や自然ではなく、そうさせる「文化装置」ゆえと、大胆に暴露。援助交際・ケア殺人・「こじらせ女子」など時代ごとの性風俗や、春画・写真・オブジェなど古今東西のアートから、発情を導く「エロスのシナリオ」を読みとく。性からタブー・虚飾を剥ぎとり、アラレもない姿を堂々と示す、迫力のセクシュアリティ論。
上野先生は、わたしにとって、特別な人だ。
学部学生のとき、鋭利なナイフで切り裂く、いやナタでぶった切ると言うべきか、快刀乱麻を断つごとく、畳みかけるような濃密な文章には心底惚れたものだ。
とくに、『現代思想』に掲載された「商品──差別化の悪夢」、これを読んでわたしは大学院進学を考えるようになった。
数年前、勤務先で講演していただいた際は、女子学生にかける言葉がとてもとても優しく、ああ、この人は、徹頭徹尾、女のために生きてるんだな、と感心したものだ。
さて、本書は、岩波書店の「Collected Works of Chizuko Ueno」の一冊であり、上野先生の論文、エッセイ、書評等が、あらためてまとめて読めるのがとてもありがたい。
人工授精や体外受精に頼るのでない限り、男の性器が勃起しなければ、性交は成立せず、人は子孫を残すことができない。
そのため、男を女に発情させるための文化的装置がつくられた。
男が女の裸体、身体のパーツ、下着姿、はては「人妻」やら「女子高生」に欲情するのは、欲望がそれら「記号」によってリリース(解発)されるからであり、このようなからくりと、自らのフェティッシュな欲望の滑稽さに気付くことができたときにはじめて、男は、女を客体化、他者化することをやめることができる。
女が表現者として見る主体の立場に立ったのなら、今度は女にとって性的ファンタジーの源である男を客体化する番だ、と考えるのはしごく順当だろう。しかし単純にそうはならなかったた。なぜだろう?
一つの理由は、男の性的ファンタジーの源が女のハダカや女の性器であるようには、女の性的ファンタジーの源は、男のハダカや男の性器に対象化されないということがある。男と女の関係は思った以上に非対称的なもののようで、主語と目的語を入れかえさえすれば命題が成り立つというものではなさそうだ。男の性的ファンタジーは、女の対象化と対象化した女にふかく依存しているのに対し、女の性的ファンタジーは、逆方向の対象化を必要とせず、もっとふかくナルシシズムに結びついているらしい。それは主客分離以前の未分化なエロスの段階に女がたゆたっているからだ、と言ってもいいし、また逆に対象化に向かう視線が屈折して自分自身に反転するほど女にとって自己客体化の疎外はふかいのだ、と言ってみてもよい。
女のアートには、このナルシシズムがいつも大きな契機を占めている。女を描きつづける女の作家──女の作家には男が描けない、とよく言われる──は、ほんとのところ男なんて歯牙にもかけず、自分自身のことにしか興味がないんじゃないかと思えてくる。こういう鉄壁のオートエロティシズム(自己性愛)の中に立てこもられては男は手も足も出ないだろう。女という他者を欲望の対象として客体化し、それにしがみついてせつなくチンチンを振り立てている男の方が、よほど哀しくかよわい生き物に思えてくる。現に作家の三枝和子さんは、女はほんとうは男要ラズの自己充足性を持っているのだけれど、ホントのことを言ってしまうとミもフタもない──その上、自分とコドモを養ってもらえない──ので、男が必要なフリをしてるだけなのだと言う。だから、女のオートエロティシズムは、異性(男)の性的身体にではなく、自分自身の性的身体に固着する。女の表現者が、女のカラダ、女の性器にばかり固執するのは、こう考えると自然だということがわかる。女は、男を対象化する必要がないから、そうしないだけなのである。
女の表現者が、このナルシシズム戦略を自覚的にとることもある。女のセクシュアリティや、女の性的身体を象徴的に、または具象的にしつように描く女のアーティストに対しては、何度も一人でイッちゃう女のオーガズムを前にして、オレたちのオーガズムなんて貧弱なもんだよな、と肩を落として去るほか、男にはテがないように見える。だから女のナルシシズムは、男に対して十分に攻撃的な戦略になりうる。股の間にパックリ口を開けた巨大な女体をつくる彫刻家ケイト・ミレットや、女は宇宙の母、宇宙の源泉、女から全世界は生まれたと高らかにうたうエイドリアン・リッチのような詩人は、この戦略の攻撃性を十分に自覚している。
(pp.15-17)
しかし、男は、女のセクシュアリティが自己完結しうるものであることを、認めようとしない。
なぜなら、それを認めてしまうと、「男はセックスにより女を支配できる」という妄想を捨てなければならなくなるからである。
ちなみに宮台くんの『制服少女たちの選択』[宮台1994]とその続編ともいうべき『世紀末の作法』[宮台1997]は、彼のフィールドワーカーとしてのすぐれた資質を示しています。彼は地方テレクラの取材体験にもとづいて、「使用禁止の身体」という近代中産階級的な価値がほぼ首都圏にしか成立していないこと、一歩地方に出れば、女子中高生も主婦もOLも、たいして違いのない「使用可能な身体」として「適正価格」で売買されていることを発見します。女子中高生(それも名門ブランド学園の、つまり「使用禁止度の高い」階級に所属する身体の持ち主でなければなりません)の「使用済みパンツ」に高いおカネを払うというフェティッシュな性の市場は、大都市圏にしか成立しないことを発見して、彼は彼の理論の「局地性(ローカリティ)」をあっさり認めます(好感♡)。そしてその背後に、ごく最近まで夜這いがふつうにおこなわれていた民俗としての性を見出して、性規範の階層性や地域性に分析を及ぼすところなど、なかなかの手際というべきでしょう。
(p.30)
男の性欲を解発する記号は、どのようなシニフィエにも固着する。
ただ汚いだけの女子中高生の使用済み下着に欲情する男だけが、フェティシズムに冒されているわけではない。
自分ではノーマルなセックスをしているつもりでも、実は、女のパンティをあたまにかぶってマスターベーションをしているだけだという事実を突きつけられたとき、それでもなお、男は女という記号に欲情することができるだろうか?
1970年代以降の「性革命」は、女性が性を売買春する、される市場に雪崩を打って参入する事態を招来したが、 その参入動機は、必ずしも一様ではない。
年若い女の子と「援助交際」するオヤジは、たんなるロリコンのフェチ男、と呼んでもかまいません。が、「援助交際」する女の子の側にはいろいろな事情があることでしょう。「もっともっとおカネがほしい」という消費社会の落とし子かもしれませんし、幻の作家、桜井亜美が鮮烈な青春小説『イノセントワールド』[桜井1996]で書いたように、オヤジ社会への「復讐」かもしれません。あるいは桜井がべつな作品[桜井1997]で示唆するように、産まれてきたことへのルサンチマンの表現かもしれませんし、自罰や自傷行為の一種かもしれません。性的逸脱をアクティング・アウトする思春期の少女たちの臨床的な研究によれば、父親との葛藤や両親の不和が原因で、娘はみずからの身体をすすんで性的客体としてさしだすことがあることがわかっています。彼女たちは両親の禁止を破り、両親が価値あるものとみなした自分の身体を自傷的に扱うことで、両親を罰しているのです。あるいはたんなる性に対する好奇心かもしれませんし、ひとりでいたくない、という孤独感からかもしれません。さみしくて誰かに抱いていてほしかった、という少女の気持ちはほとんどの場合、文字どおり「抱いていてほしい」だけなのですが、それが性器のインサートに至ることまで、彼女たちは不用意にも予測していなかったかもしれませんし、あるいは「もののはずみで」受けいれたにすぎないかもしれません。あるいはまた、どんなかたちにせよ、だれかに必要とされる(市場価値がある、ということはその何よりの証拠ではありますまいか)という実感を、日々おまえは無価値だと親や教師にいわれつづけてきた少女は、つかのま手にしているのかもしれません。
(pp.39-40)
男が「女を買う」のは、金銭を払わなければ性行為ができないためだけではなく、女の人格を貶めることを賠償するためでもある。
わたしは「買春」と「売春」とははっきり区別しなければならない、と考えています。それは「強姦」という行為がふたりの当事者のあいだの性の交換行為ではまったくなく、加害者にとっては暴力的な支配行為であり、被害者にとっては屈辱的な恐怖の体験であって、この「当事者」間になんのリアリティも共有されていないことと同じです。先にのべた議論をくりかえすなら、「買春」とは買い手にとってある種の性行為であっても、「売春」とは売り手にとって経済行為にすぎません。
ところで「『セックスというお仕事』の困惑」の趣旨をくりかえすなら、「買春」が一種の倒錯的な性行為になりうるのは、性に特権的な地位が与えられていることのの裏面にほかなりません。つまり「一線を越える」という表現が示すように、性的な関係がとくべつに人格的な関係だと想定され、性が人格と結びついているからこそ、買い手にとっては相手の人格と関係しないで性だけと関係することへのツケの支払いが発生し、売り手にとっては性だけを売ったつもりなのにあたかも人格まで汚されたかのようなスティグマが発生する、のです。
(p.48)
だったら、性と人格を切り離すことができれば、売買春は問題とならないという意見があるかもしれないが、わたしたちは、性を人格の構成要素の一つ──しかしとても重要な──として、社会化されてきた。
したがって、性と人格を切り離すことはきわめて困難である。
性と人格のアポリアは、フェミニズムの二つの戦略を生み出した。
歴史的にみれば、近代フェミニズムはセクシュアリティをめぐってふたとおりの対応をしてきました。ひとつは「性の二重基準」を女なみに平等化すること、もうひとつは男なみに平等化すること、です。前者は「性と人格の一致」を男性にも要求すること、後者は「快楽の男女平等」を追求することです。前者は禁欲的フェミニズムの伝統をかたちづくり、後者はヘドニスト(快楽主義)フェミニズム、「性の解放」派を生んできました。現実の権力的なジェンダー関係のもとでは、女性の「性解放」はしばしば男性の「えじき」にされるに終わることが多く、性革命の波がおきるたびに女性は苦い思いを味わってきました。他方、禁欲的フェミニズムは、男性の性的搾取を準備するという理由で、女性の避妊にさえ反対したくらいです[荻野1994]。性の「近代パラダイム」のもとでは「快楽主義フェミニズム」は少数派にとどまりました。「快楽主義フェミニズム」が生き延びたとすれば、レズビアン・フェミニストのあいだででしょうか。女性同士のあいだでなら権力の不平等を気にせずに、倒錯的な性を含む快楽を、自由に追求できるからです。フェミニストのエロティカ(性差別的でないポルノグラフィー)の新しい実験が出てきたのが、レズビアンのあいだからであることは、偶然ではありません。
(pp.54-55)
上野先生は、雨宮まみさんの女子をこじらせてに、深い共感を寄せる。
大学ではこれに「田舎者」のコンプレックスが加わる。「おしゃれしたい」「きれいになりたい」というふつうの女の子の欲望すら、自分にその資格がないと禁じてしまう。だが、ある日「女装」してみたとたん、男の欲望の対象になる自分を発見する。たいがいの女は「女装」というカラダに合わないコスプレと折り合いをつけながら、「女になって」いく。「女装」しても自己否定感はなくならず、「こんな女でごめんね」という卑屈さに、男はどこまでもつけこむ。ありがちな展開だ。ようやく男の欲望の対象になってはみたものの、男の値踏みと侮りのなかで、女としての自尊感情はますまず低くなっていく。これが「女子をこじらせる」第二ステップだ。
(p.72)
そうなのよ。
女は生まれながらの女なのではなく、「女装」している女なんだよ。
この視点を初めて提示したのは、湯山玲子さんじゃなかったかな。
上野先生は、田房永子さんや雨宮さんにエンパワーされて、こう言う。
彼女にならってわたしも若い女たちに言いたい。はした金のためにパンツを脱ぐな。好きでもない男の前で股を拡げるな。男にちやほやされて、人前でハダカになるな。人前でハダカになったぐらいで人生が変わると、カン違いするな。男の評価を求めて、人前でセックスするな。手前勝手な男の欲望の対象になったことに舞い上がるな。男が与える承認に依存して生きるな。男の鈍感さに笑顔で応えるな。じぶんの感情にフタをするな。そして・・・・・・じぶんをこれ以上おとしめるな。
(p.84)
女という記号に欲情する男、その視線を過剰に内面化することの不幸を、上野先生は、以下のように描写する。
女性は「視られる身体」としての自己身体を、早いうちから否応なしに発見させられる。その身体は、誘惑の客体として、視線の持ち主=男性主体から、評価され、比較され、値踏みされる。女性は「視られる対象」としての自己身体と折り合いをつけるために、思春期から何十年にもわたる葛藤に満ちた経験をすることになる。
自己身体が性的に価値の低い場合は、自己身体と自己意識とのあいだに折り合いをつけるのは難しい。身体の性的価値はつねに他者に依存しているから、エステやダイエットも、身体を自己コントロールしているように見えて、その実、他者の視線の内面化にほかならない。ある摂食障害の女性が、年齢が彼女を性的存在であることから解放してくれたとき、はじめて安心して食べられるようになったという例に見られるように、他者への依存すなわち他者からの評価を放棄したとき、はじめて彼女は自己身体を受け入れることができたのである。
自己身体がたまたま性的に高い価値を持っている場合でも、自己身体との関係は容易ではない。自分のコントロールできない価値を一方的に付与されることで、男性の欲望や賞賛に対する依存が起きる。誘惑の客体としてつねに他者に依存しつつ自己確認をするほかない嗜癖を、わたしたちはまちがってニンフォマニア(多淫症)と呼んできた。まことにラカンのいうとおり、欲望とは「他者の欲望の欲望」、すなわち欲望されることの欲望なのだ。
(pp.113-114)
女のセクシュアリティの自己完結性は、男の視線により性的に客体化された自己身体への欲望であることにも注意が必要だ。
男のヌードを撮る女性写真家は驚くほど少ない。それはあたかも、女が「性的客体」としての男に関心を持たないかのようだ。女は「性的客体」としての自分自身に興味を持つ。男はただ自分を客体化してくれる視線としてのみ、女によって必要とされる。その関係を逆転して、今度は自分が性的主体として男を性的客体にしかえすということに、女は何の興味も持っていないように見える。女が性的に興奮するのは「性的客体」としての男の身体にではなく、男の視線を介して「性的客体」化された自己身体に対してなのだ。女はそれほど深く客体になることを内面化してきた。
(p.130)
女が男の視線により性的に客体化されることを拒み、かつ自己身体に欲情することは可能だ。
現状としては、レズビアンのコミュニティでなければ難しいだろうが。
人間にとってもっともプライベートなセクシュアリティの領域において、自己身体の客体化、記号化、金銭や権力の介入を拒否し、自己の尊厳を維持、向上させる関係性、それが必要であるように思う。
男が女と寝ているのではない、「男制」が「女制」と寝ているのだ、と喝破したのは伏見憲明さんである。男や女をつくりあげるさまざまな文化的な記号に、わたしたちは反応し、発情する。そこに「自然」なものは何もない。襟足や足首にとくべつに固着するフェティシズムがあるとしたら、乳房や性器もまた、フェティッシュな記号として働いている。異性の性器を見さえすれば自動人形のようにひきおこされる欲情は、さまざまに異なる性器がすべて単一の記号へと収斂されるような範型化の産物だ。そこでは人は、性欲の奴隷ではなく、記号の奴隷なのである。
男はそのようにして女を、女体を、セックスを語ってきた。が、いずれも幻想の女、幻想の女体、幻想のセックスにほかならない。わたしたちが聞かされてきたのは、男の性幻想だった。そして男仕立ての性幻想のシナリオに合わせて、「女」という記号を共演することを要求されてきたのだ。シナリオどおりにふるまえば「理想の女」とあがめられ、シナリオからはみだせば「女じゃない」と排除されて。男のシナリオの裏側にある、女のシナリオについては、長いあいだ沈黙が支配してきた。あまつさえ、「女に性欲はない」と否認されて。同じベッドを共有しながら、男と女のあいだには長きにわたる「同床異夢」が続いてきたのだ。
(pp.215-216)
そのためには、自己の性幻想の貧しさ、金銭や権力に嫌悪感をいだかない自己心性の卑しさに気付かなければならない。
目次
1 おまんこがいっぱい
おまんこがいっぱい
セクシュアリティの地殻変動が起きている
もうひとりの毒婦
こじらせ女子の当事者研究―雨宮まみ『女子をこじらせて』文庫版のための解説
2 性愛・この非対称的なもの
裸体の記号学―裸体の文化コードを読む
視線の政治学
オナニストの宿命
「セックスというお仕事」の困惑
想像を絶する大人達の抑圧
3 “対”という病
恋愛病の時代
恋愛テクノロジー
「恋愛」の誕生と挫折―北村透谷をめぐって
ベッドの中の戦場
“対”幻想を超えて
4 “対”という実験
ジェンダーレス・ワールドの“愛”の実験―少年愛マンガをめぐって;究極の“対”
5 グッバイ・ダディ
フロイトの間違い
DADDY’S GIRL
存在する権利