江原由美子,2000,フェミニズムのパラドックス──定着による拡散,勁草書房.(8.25.24)
『装置としての性支配』(1995年)につづく第5論集。90年代後半から今日までのフェミニズム、ジェンダー論を中心とした著者の代表的な仕事を収める。「女の時代」と呼ばれた80年代から一転して90年代のフェミニズムは、普及と拡散という事態に直面し、フェミニズム離れという現象すら起きている。少子化、晩婚化、経済不況の深刻化のなかでフェミニズムがかかえている課題を明らかにする。総論から各論へ、女性全体の問題から個別の問題へ、という時代の変化の意味を探っていく。性の商品化、性暴力、自己決定、セクハラなどの問題群をど
正当な地位を獲得すればするほど進む若い世代のフェミニズム離れ。それはなぜか。近代主義的な言説の孕む幾重もの屈折を解きほぐす。
腰の据わった粘り強い文体が印象的な論考集だ。
人間は、知性のみならず、感情、情緒の生き物でもあるのだから、それをどう社会理論に組み込むのか、重要な問題である。
このスミスやギリガンとハーバーマスの相違は、まさに両者の近代性に対する位置のとりかたの相違によるものとして解釈可能である。T・マイセンヘルダーは、ハーバーマスの理性の記述には、リアリティを、知性と感情、頭と心、精神と身体などの本質的二元性として記述する傾向、またこの二元性のうち、前者を後者より優越するものとしてみる傾向があり、その点において家父長制的合理主義と共通するという。そしてこのようなハーバーマスの理性概念は、感情や情緒を欠いていると批判する。したがって、「ハーバーマスは、男性により学ばれ遂行されてきた思考法を、女性により学ばれ遂行されてきた思考法よりも、理論的実践的に優越するものとして賞揚する」のであり、家父長制的であるという。このマイセンヘルダーのフェミニズムの立場からのハーバーマス批判を、手段表出図式によって位置づけるならば、ハーバーマスの手段主義対フェミニズムの表出主義という解釈が得られよう。
(p.142)
手段と表出──男性が手段的役割を担い、女性が表出的役割を担うという性別役割分業を自明の前提として、社会学という学問自体が、手段主義、道具主義に拘泥し、人間の感情や身体性を疎外してきた。
「ケアの社会」の構想も、そうした問題の延長線上に練り上げられていくべきものであろう。
フェミニズム、とくにギリガンの主張は、「権利」概念を再考することを迫る。
ギリガンは、フェミニズム運動において、女性たちが権利という言葉によって何を言おうとしてきたのかについて、適切な記述を試みている。「責任と思いやりの道徳」に基づいて道徳を考えてきた女性たちにとっては、権利という言葉を使用して自己主張することは、まず、その道徳に反して自己の欲求を優先すること、すなわち利己主義として、理解された。自分の権利を主張することは、道徳即責任という道徳観にたつ女性たちにとって道徳に反することになるのである。結果として、権利という言葉によって展開されたフェミニズムの政治は、女性たちの道徳観に深刻な混乱を生じさせた。このような混乱が解決可能になったのは、権利という言葉を「責任と思いやりの道徳」の文脈において把握することによってであった。すなわち権利の主張を、自分自身に対して責任を持ち、自分自身に思いやりを持つこととして理解した時、それは女性の道徳判断の言葉になったのであり、権利というフェミニズムの言葉は、「責任と思いやりの道徳」における、自己犠牲という理想を、「ずっと寛やかな、絶対性の弱まったものに」かえる作用を果たしたのである。すなわち「女性たちは、権利を主張することによって、自分自身に対する責任を主張し」ているのであると。
もしこのギリガンの記述が、現代フェミニズムにおける権利という言葉の使用に対しても適用可能であるのなら、フェミニズムにおける権利という言葉の氾濫を近代主義あるいはウルトラ近代主義として把握することは適切ではない。権利という言葉でフェミニズムが語っているのは、どのような状況においても不可侵なものとして置かれた権利なのではなく、自分自身に対しても他の人々と同様の責任と思いやりを持ち、他の人々とともに自分自身のことも考慮して自分で判断することを意味しているからである。前者の権利概念においては、いかなる状況も個人の自由な決定を阻止しえないものとしての権利が含意されているのに対し、後者においては当然にも、自己と他者の状況に照らしてもっとも「責任と思いやりの道徳」にかなう判断を自ら行うこととしての権利が含意されている。したがって後者においては、他者と自己の状況に照らして「責任と思いやりの道徳」にかなわないような判断は、権利の行使ではないのである。
(pp.151-152)
江原さんは、「自己決定」を問答無用で肯定することの危うさにも気付かせてくれる。
自己決定と言えるためには最低この二つの条件を満たす必要がある。したがって、自己決定権を認めるとしても、ある人の決定が自己決定の条件を満たしていない場合は、われわれはむしろそれを自己決定として認めるべきではない。本人が状況をよく理解することなく行った決定や強制的にさせられた決定をそのまま本人の自己決定としてしまうことは、本人が情報を充分得て状況を充分理解した上で再度自由意思で判断する機会を奪うという意味において、むしろ自己決定権を侵害することになってしまうだろう。
(p.166)
出生前診断や不妊治療、臓器移植、売春やセックスワーク等々の是非については、「自己決定」至上主義の危うさをふまえた議論が必要だ。
目次
Ⅰ
日本のフェミニズムの現在
1 普及か拡散か
2 戦後日本社会における女性
3 90年代の女性
4 90年代のフェミニズム
5 遅すぎた改革―日本の社会は活力回復に女性の力を生かせるか―
女性学・フェミニズム・ジェンダー研究
1 第二波フェミニズム運動と女性学
2 日本における女性学の成立と主婦研究―女性学創出期―
3 性役割研究からフェミニズムへ―フェミニズム理論導入期―
4 女性学からジェンダー研究へ―ジェンダー研究創出期―
ジェンダーと社会理論
1 ジェンダーというパースペクティブ
2 ジェンダー概念をめぐって
3 性役割の理論 ―第一のジェンダー概念のパースペクティブ―
4 ラディカル・フェミニズムとマルクス主義フェミニズム
―第二のジェンダー概念のパースペクティブ―
5 性別秩序の理論―第三のジェンダー概念のパースペクティブ―
女性と表現
1 なぜ表現なのか
2 変わりつつある女性表現
女性の経験や思いに焦点をあてる
1 家族をどうとらえるか
2 研究にどうとりくむか
フェミニズムから見た丸山眞男の近代
1 フェミニズムにおける日本的特質批判
2 日本におけるポストモダン・フェミニズムのねじれ
3 フェミニズムから見た丸山眞男の近代
Ⅱ
自己定義権と自己決定権―脱植民地化としてのフェミニズム―
1 はじめに
2 名前のない問題
3 フェミニズムの社会学批判―ドロシー・スミスの場合―
4 フェミニズムの道徳言語批判―キャロル・ギリガンの場合―
5 近代性批判としてのフェミニズム
6 脱植民地化としてのフェミニズム
7 自己決定権と自己定義権
自己決定をめぐるジレンマ
1 はじめに
2 自己決定権という問題を考える際前提とされるべきいくつかの論点
について
3 自己決定権をめぐる議論の錯綜
Ⅲ
セクシュアル・ハラスメントの社会問題化
1 はじめに
2 解釈装置としての規範
3 合意/強制の解釈装置におけるダブル・スタンダード
4 女性はどのように「性行為を強要された」と言えるのか
5 セクシュアル・ハラスメントの社会問題化は何をしていることになるのか
<アカハラ>を解決困難にする大学社会の構造体質
1 大学は男性支配の社会
2 大学組織と研究者集団の二重性―加害者が行使しうる権力の二重性―
3 支援者を得にくくさせる大学組織の構造体質
キャンパスにはびこるジェンダー・ハラスメント
1 女が勉強してどうなるの
2 女性院生に与える深刻な不安
3 性的分業を前提とした学問観
4 閉鎖された場所での激烈な競争
5 差別意識を生み出す不公平な扱い
Ⅳ
家族のコミュニケーション―情報化社会の中で―
1 はじめに
2 家族間コミュニケーションの現状
3 情報化が家族のコミュニケーションに及ぼす影響
4 家族を語る時代へ―家族のコミュニケーションのゆくえ
家族の危機―性役割分担否定論は、元凶か解決策か―
1 林氏と山田氏の論点
2 両者議論の相違点
3 パラサイト・シングルと家族問題
4 今、本当に必要な議論とは
男子高校生の性差意識―男女平等教育の空白域―
1 はじめに―なぜ男子高校生の意識を扱うか―
2 性差意識調査とは
3 高校生の性差意識の概要
4 共学/別学別にみた高校生の背景的要因
5 調査結果のまとめと考察―男子校における男女平等教育の必要性―
あとがき