金子文子,2017,何が私をこうさせたか──獄中手記,岩波書店.(6.22.24)
関東大震災後、朝鮮人の恋人と共に検束、大逆罪で死刑宣告された金子文子(一九〇三‐二六)。無籍者として育ち、周囲の大人に虐げられ続けながらも、どん底の体験から社会を捉え、「私自身」を生き続けた迫力の自伝を残す。天皇の名による恩赦を受けず、獄中で縊死。
両親や祖母、叔母等から、虐待、ネグレクトされ、極貧状態のなかで学問を志し、朴烈とともに大逆罪に問われて、獄中で縊死した金子文子。
文子が獄中で書き残したこの手記は、彼女の壮絶な人生を余すところなく描ききっており、あらためて、文子の類い希な知性と情操のゆたかさに感服せざるをえない。
文子は、社会主義思想を知る以前から、抑圧される者、搾取される者、虐げられる者にこころを寄せる、生粋のソーシャリストであった。
社会主義は私に、別に何らの新しいものを与えなかった。それはただ、私の今までの境遇から得た私の感情に、その感情の正しいということの理論を与えてくれただけのことであった。私は貧乏であった。今も貧乏である。そのために私は、金のある人々に酷き使われ、苛められ、責なまれ抑えつけられ、自由を奪われ、搾取され、支配されてきた。そうして私は、そうした力をもっている人への反感を常に心の底に蔵していた。と同時に、私と同じような境遇にある者に心から同情を寄せていた。朝鮮で、祖母の家の下男の高に同情したのも、哀れな飼い犬にほとんど同僚といったような感じを抱いたのも、その他、この手記にこそは記さなかったが、祖母の周囲に起っただけのことでも相当にある、圧迫され、苛められ、搾取されていた哀れな鮮人に限りなき同情の念を寄せたことも、すべてそうした心のあらわれであった。私の心の中に燃えていたこの反抗や同情に、ぱっと火をつけたのが社会主義思想であった。
(pp.354-355)
文子は、「立身出世」が是とされる社会のなかで、既存の権威や威信を疑い、否定し、自分自身の価値を見いだして、それを開花させることを望むに至る。
実際私はこの頃、それを考えているのだった。一切の望みに燃えた私は、苦学をして偉い人間になるのを唯一の目標としていた。が、私は今、はっきりとわかった。今の世では、苦学なんかして偉い人間になれるはずはないということを。いや、そればかりではない。いうところの偉い人間なんてほどくだらないものはないということを。人々から偉いといわれることに何の値打ちがあろう。私は人のために生きているのではない。私は私自身の真の満足と自由とを得なければならないのではないか。私は私自身でなければならぬ。
私はあまりに多く他人の奴隷となりすぎてきた。余りにも多く男のおもちゃにされてきた。私は私自身を生きていなかった。
私は私自身の仕事をしなければならぬ。そうだ、私自身の仕事をだ。しかし、その私自身の仕事とは何であるか。私はそれを知りたい。知ってそれを実行してみたい。
(p.388)
文子は、社会主義革命により抑圧、搾取、差別のない社会を創出できるとは考えなかった。
そこには、ヴィルフレド・パレートの「エリートの周流」を想起させる、透徹したリアリズムがあった。
そして、過酷な人生をとおして獲得された、強靱なニヒリズム。
それが、文子の思想の真髄であろう。
この頃から私には、社会というものが次第にわかりかけてきた。今までは薄いヴェールに包まれていた世の相がだんだんはっきりと見えるようになった。私のような貧乏人がどうしても勉強も出来なければ偉くもなれない理由もわかってきた。富めるものがますます富み、権力あるものが何でも出来るという理由もわかってきた。そしてそれゆえにまた、社会主義の説くところにも正当な理由のあるのを知った。
けれど、実のところ私は決して社会主義思想をそのまま受け納れることができなかった。社会主義は虐げられたる民衆のために社会の変革を求めるというが、彼らのなすところは真に民衆の福祉となり得るかどうかということが疑問である。
「民衆のために」と言って社会主義は動乱を起すであろう。民衆は自分達のために起ってくれた人々と共に起って生死を共にするだろう。そして社会に一つの変革が来ったとき、ああその時民衆は果して何を得るであろうか。
指導者は権力を握るであろう。その権力によって新しい世界の秩序を建てるであろう。そして民衆は再びその権力の奴隷とならなければならないのだ。しからば、××とは何だ。それはただ一つの権力に代えるに他の権力をもってすることにすぎないではないか。
初代さんは、そうした人達の運動を蔑んだ。少くとも冷かな眼でそれを眺めた。
「私は人間の社会に対してこれといった理想を持つことができない。だから、私としてはまず、気の合った仲間ばかり集まって、気の合った生活をする、それが一ばん可能性のある、そして一ばん意義のある生き方だと思う」と、初代さんは言った。
それを私達の仲間の一人は、逃避だと言った。けれど、私はそうは考えなかった。私も初代さんと同じように、既にこうなった社会を、万人の幸福となる社会に変革することは不可能だと考えた。私も同じように、別にこれという理想を持つことができなかった。けれど私には一つ、初代さんと違った考えがあった。それは、たとい私達が社会に理想を持てないとしても、私達自身には私達自身の真の仕事というものがあり得ると考えたことだ。それが成就しようとしまいと私達の関したことではない。私達はただこれが真の仕事だと思うことをすればよい。それが、そういう仕事をすることが、私達自身の真の生活である。
私はそれをしたい。それをすることによって、私達の生活が今ただちに私達と一緒にある。遠い彼方に理想の目標をおくようなものではない。
(pp.389-391)
そして、文子は、朴烈と出会い、彼の内に、自らの生のエネルギーを燃焼させる力を見いだす。
彼のうちに働いているものは何であろう。あんなに彼を力強くするものは何であろう。私はそれを見出したかった。それを我がものとしたかった。
私は鄭と別れた。別れて店に帰った。
途中私はまた思った。
――そうだ、私の探しているもの、私のしたがっている仕事、それはたしかに彼の中に在る。彼こそ私の探しているものだ。彼こそ私の仕事を持っている。
不思議な歓喜が私の胸の中に躍った。昂奮して私は、その夜は眠れなかった。
(p.394)
文子と朴。
二人は、充溢した生のエネルギーを持て余す、生粋のニヒリストであった。
ニヒリストの文子は、同志、朴に愛を告白する。
私は私の用件を話したかったが、どうも固くなって話し難かった。でも私はやっとのことでぎこちなく口を切った。
「ところで・・・・・・私があなたに御交際を願ったわけは、多分鄭さんからおきき下さったと思いますが・・・・・・」
「ええ、ちょっとききました」
朴は皿から眼を放して私の方を見た。私達の瞳はそこでかち合った。私はどぎまぎした。が、こうなってはもう、私は私の心持ちを思いきって言わねばならぬ。
私はつづけた。
「で、ですね、私は単刀直入に言いますが、あなたはもう配偶者がお有りですか、または、なくても誰か・・・そう、恋人とでもいったようなものがお有りでしょうか・・・・・・もしお有りでしたら、私はあなたに、ただ同志としてでも交際していただきたいんですが・・・・・・どうでしょう」
何という下手な求婚であったろう。何という滑稽な場面だったろう。今から思うと噴き出したくもあるし、顔が赤らんでも来る。けれどその時の私は、極めて真面目に、そして真剣に言ったのだった。
「僕は独りものです」
「そうですか······では私、お伺いしたいことがあるんですが、お互いに心の中をそっくりそのまま露骨に話せるようにして下さいな」
「もちろんです」
「そこで······私日本人です。しかし、朝鮮人に対して別に偏見なんかもっていないつもりですがそれでもあなたは私に反感をおもちでしょうか」
朝鮮人が日本人に対して持つ感情を、私は大抵知りつくしているように思ったから、何よりもさきに私はこれをきく必要があった。私はその朝鮮人の感情を恐れたのだ。しかし朴は答えた。
「いや、僕が反感をもっているのは日本の権力階級です、一般民衆でありません。殊にあなたのように何ら偏見をもたない人に対してはむしろ親しみをさえ感じます」
「そうですか、ありがとう」と私はやや楽な気持ちになって微笑した。「だが、もう一つ伺いたいですが、あなたは民族運動者でしょうか······私は実は、朝鮮に永らくいたことがあるので、民族運動をやっている人々の気持ちはどうやら解るような気もしますが、何といっても私は朝鮮人でありませんから、朝鮮人のように日本に圧迫されたことがないので、そうした人たちと一緒に朝鮮の独立運動をする気にもなれないんです。ですから、あなたがもし、独立運動者でしたら、残念ですが、私はあなたと一緒になることができないんです」
「朝鮮の民族運動者には同情すべき点があります。で、僕もかつては民族運動に加わろうとしたことがあります。けれど、今はそうではありません」
「では、あなたは民族運動に全然反対なさるんですか」
「いいえ決して、しかし僕には僕の思想があります。仕事があります。僕は民族運動の戦線に立つことはできません」
すべての障碍が取り除かれた。私はほっとした。けれど、まだほんとうのことを言い出すほどには機運が向いてないのを感ぜずにはいられなかった。私達はそれからまた、いろいろの雑談をした。すればするほど、彼のうちにあるある大きな力が感じられた。次第に深く引きつけられて行く自分を私は感じた。
「私はあなたのうちに私の求めているものを見出しているんです。あなたと一緒に仕事ができたらと思います」
私は遂に最後にこう言った。すると彼は、
「僕はつまらんものです。僕はただ、死にきれずに生きているようなものです」と、冷やかに答えた。
(pp.398-401)
文子は、朴とともに獄中につながれ、死刑判決を下されることを予見していたかのように、朴への思いを募らせる。
見送りながら、私は心の中で祈るように言っていた。
「待って下さい。もう少しです。私が学校を出たら私達はすぐに一緒になりましょう。その時は、私はいつもあなたについています。決してあなたを病気なんかで苦しませはしません。死ぬるなら一緒に死にましょう。私達は共に生きて共に死にましょう」
(p.407)
文子は、手記の最後を、こう締めくくる。
何が私をこうさせたか。私自身何もこれについては語らないであろう。私はただ、私の半生の歴史をここにひろげればよかったのだ。心ある読者は、この記録によって充分これを知ってくれるであろう。私はそれを信じる。
間もなく私は、この世から私の存在をかき消されるであろう。しかし一切の現象は現象としては滅しても永遠の実在の中に存続するものと私は思っている。
私は今平静な冷やかな心でこの粗雑な記録の筆を擱く。私の愛するすべてのものの上に祝福あれ!
(p.408)
あまりに激烈、壮絶な、一人の女性の人生、それが類い希な知性、表現力によって、燦然と現代によみがえる。
目次
手記の初めに
父
母
小林の生れ故郷
母の実家
新しい家
芙江
岩下家
朝鮮での私の生活
村に還るほか