野辺陽子編著,2022,家族変動と子どもの社会学──子どものリアリティ/子どもをめぐるポリティクス,新曜社.(5.13.24)
子どもの権利、とくに子どもの意見表明権の擁護の問題は難しい。
本書では、親の離婚、非配偶者間生殖技術により生まれてくる子ども(とくにゲイのカップルから代理母により生まれてくる子ども)、児童養護施設で育つ子どもの友人関係、保護された被虐待児の処遇、以上をとおして、子どもの権利擁護とその限界について論及する。
この問題は、「第5章 被虐待児に対する「子どものため」の臨界──被虐待児は「子どものため」の支援/介入とエイジェント化をどのように経験しているか」(根岸弓)において、もっとも克明に描き出されている。
自らの意思を尊重されずに里親委託された子どもの事例は、子どもの意見表明権が無視されて、専門家(大人)のパターナリスティックな意思が無理強いされたものであるが、中卒で就職した子どもは、当時の自らの意思に反し、施設職員がなぜ高校進学を勧めてくれなかったのか、と言う。
子どもと大人の情報の非対称性を考慮すれば、子どものその時点での意思に反する大人の意見表明が、子どもの利益につながることもある。
次に子どもの「準主体化」の経験をみてみよう。家庭裁判所や児童相談所が関与するような家族に関する「トラブル」が起こったとき、制度内で子どもは大人とは異なる主体として「準主体」化され、意見表明権という権利の行使を許される/迫られるようになる。
しかし、権利を行使する前の段階で、子どもは、専門家など大人の裁量により、自己の利益について意見表明する能力のある主体とみなされたり、自己の利益について考える十分な能力がないとみなされたりしていた。また、意見を明確に表明する「強い」参加ではなく、信頼できる大人に判断を委ねたり、態度を留保したりするなど「弱い」参加を求めている場合もあった(第5章)。
子どもが自身に関係する事柄について意見表明しても、最終的な判断は専門家が行なうため、大人ならば課せられる可能性のある「自己決定=自己責任」という圧力が子どもに課せられるわけではない。しかし、誰が決定を行っても、子どもに「その後」起こることは、その子ども自身が負わなくてはならない。制度内で子どもに意見表明権が付与される一方で、子どもの生活を支える法律上の権利や経済的支援などの制度がほとんどないため、子どもは「制度化された自己決定なき自己責任」という状況に置かれているのではないか。
(野辺陽子「終章 家族変動と子どもをめぐる複雑さ」、p.204)
「制度化された自己決定なき自己責任」、これが子どもの権利の現状であろうが、自己決定の度合いを高め、自己責任の度合いを低めていく努力が必要であろう。
“子どものため”を、子ども自身はどう経験しているか?子どもは、家族の個人化や自身の準主体化、「子どものため」の制度、実践、価値観をいかに経験しているか。そのリアリティとポリティクスを、離婚、生殖技術、児童養護施設、児童虐待の事例から明らかにし、家族変動と子どもをめぐる理論的・経験的研究をさらに展開していく。親子関係・ケアの理論に新たな論点を示す挑戦的な書。
目次
序章 家族変動と子どもをとらえる視点
第1章 「子どものため」の社会学的記述に向けて―「子どもの視点」や「脆弱さ」をどう組み込むか
第2章 親の離婚と不仲をめぐる子どもの語りと「子どものため」の論理―身の上相談の分析から
第3章 第三者が関わる生殖技術と子ども―家族の多様性と子どもの語りをめぐるポリティクス
第4章 児童養護施設の日常生活と子どもの経験―小学生男子の“友人”関係形成を例に
第5章 被虐待児に対する「子どものため」の臨界―被虐待児は「子どものため」の支援/介入とエイジェント化をどのように経験しているか
終章 家族変動と子どもをめぐる複雑さ