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人類の起源・進化・移動や太古の昔、日本に棲んでいたゾウ類にも関心があり、素人の目線で考えてみます。

再論・南太平洋島嶼国「フィジー」について考える (26)

2018年02月05日 19時13分33秒 | 島嶼諸国

    再論・南太平洋島嶼国「フィジー」について考える (26)

 

  第4章 なぜ、日本人のフィジー移住は失敗に終わったか

   (2)猛威振るった脚気

   いまでは日本の若者たちの人気リゾートと化しているフィジー諸島だが、少しばかり歴史を遡って見ると、19世紀末におけるフィジーのさとうきび農園(プランティーション)に働きに出かける日本人移民は多く、1897(明治27)年、広島県、山口県を中心に西日本の農村部から305人もの働き盛りの男たちが一旗揚げようと南太平洋諸島の一つフィジーに渡った。

   主な移住地は、フィジーで二番目に大きな島ヴァヌア・レヴ島だった。移民たちは、主たる耕区ランバサ(Labasa)6)を中心に、フィジー最大のヴィチ・レヴ島の北西部の二つの耕区(プランテーション)にも分かれて移住した7)

   移住後、移民たちは順調な日々を過ごした。しかし、10月頃から移民たちの体調に異変が生じ、中には死亡する者も出るようになった。仲介したバーンズ・フィリップ社から連絡を受けた吉佐移民会社は、広島県の移民代理人土肥積に知らせた。土肥は、直ちに次のような書簡を移民の遺族、留守宅宛に送っている。

  「日本人ニ限リ脚気患者俄然増発シ死者増加之兆アルヲ以テ移民会社ニ於テハ不取敢特ニ脚気専門医師ヲ同地ニ派出シ其病原ノ所在ヲ探求シ患者ヲ治療セシムルノ見込ヲ以テ旧臘十二月十七日神戸港ヲ出発セシメ候処其後病勢愈烈シキ旨通報ニ接し最早一日モ猶予スベカラザルニ付右派遣医師目今途中ニ在ルニモ拘ハラズ本月十三日日本郵船会社雇船「アフガン」号ヲ彼地ニ差立テ一同帰国セシムルコトニ相定申候右帰国セシムルニ就テハ会社於テ莫大ノ損失ヲ被リ候ハ勿論移民本人ニ於テモ嘸遺憾之至察入候ヘ共此後病勢益猛烈ヲ極ムベキヤモ難斗候若シ今日ニ於テ荏苒経過シ万一多数貴重ノ身命ヲ損スル様ノ事共有之候テハ第一会社ノ義務相立タザル義ニ付不本意千万乍ラ不得止斯クハ今日ニ於テ一同帰国セシメルノ非常手段ヲ決行スル所以ニ有候扨右アフガン号ハ本月末ニハ彼地ニ着シ移民積込ノ上直チニ帰途ニ就キ来二月十四日頃ニハ神戸へ帰着ノ予定ニ候」8

   要するに書簡の中身は、重い脚気に罹った移民の中には、死亡する者まで出始めたために、吉佐移民会社が、フィジーに向けて1894(明治27)年12月17日、脚気病の専門医師らを派遣し病気の原因について調べ、患者の治療を行わせるため出発させた。

   しかし、移民たちの病状容易ならざるものがあり、帰国させることを決めた、というものである。現地にあっては、同年10月に8人が死亡し、その後もまた次々に死者が出る始末だった。翌(1895)年2月には何と29人もの死亡者が出た。そのため、農作業の出来る状態ではなくなった。

   事態の余りの深刻さに驚いた吉佐移民会社は、上述のように移民全員を帰国させる決定を下し、日本郵船会社の雇船アフガン号を借りて1895(明治28)年1月13日、急遽横浜からフィジーに向かわせた9)。現地での死亡者は何と81人にも達していたのである。

   病状の重い者、軽い者合わせて生存者224人を収容したアフガン号が再び神戸に帰港するまでの間に、船中で死亡した者が25人出た。亡くなった者については、船上で水(海)葬を行い丁重に死者の霊を弔った10)

   神戸に寄港してから亡くなった5人、及び移住先のフィジーのヴァヌア・レヴ島等での死亡者81人と合わせて、305人中112人が尊い命を落としてしまった。

   フィジーの日本人移民が、何故それ程多くの犠牲者を出すことになったのか。死亡原因が赤痢による者もいたが、主に脚気を患ってのことだったことは、現地から吉佐移民会社への電報連絡、代理人土肥積から移民遺族宛の書簡11)からも、そしてまた土肥積から広島県庁第一課宛及び移民の居住地の郡役所第一課宛に提出された「病死者数の報告」(広第一八号)12)の文脈からも明らかである。

   なぜ日本人だけが脚気に罹ったのか。フィジーのさとうきび畑で働いている農夫は耕区が異なるとしても現地のフィジアンもいたし、インド人移民もいた。日本人移民と比較して彼らの生活環境が特に良かったとは考えられない。

   むしろインド人移民の方が劣悪だったと思われる。それにも関わらず、なぜ日本人だけがこれほど多くが死に至るような脚気に罹ったのだろうか。

   日本人移民がなぜ脚気や赤痢に罹ったか、その原因は明確ではないが、推測の域を出ないのだが日本人移民が現地で摂取していた毎日の「食」にあったのではないか、と考えられる。彼らの毎日摂取していた食材は、主食の白米が中心であった。

  (注) 本章文中の上付き半括弧)の番号はの注記は本省の終わりに記載します。   



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