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人類の起源・進化・移動や太古の昔、日本に棲んでいたゾウ類にも関心があり、素人の目線で考えてみます。

人種とは・日本人の昔を探る(10):中本博皓

2020年07月05日 10時03分56秒 | 人種とは・日本人の昔を探る

    人種とは、日本人の昔を探る(10)

 

 

 人種と民族 (その7)

 民族、足元から考える(下)

 日本の人類学の草分けであった坪井正五郎(1863-1913)は、1884(明治17)年、わが国初の人類学会を立ち上げ、人類学を広めた学者として知られていますが、坪井は、日本の先史時代の先住民(旧石器時代人)であるコロボックル(アイヌ語で蕗〈ふき〉の葉の下に住む人の意味、北千島のアイヌ人)、アイヌ(及び樺太アイヌ)、琉球民族、朝鮮民族・台湾漢人、台湾原住民などを除いた日本列島に住む人間の集合を大和民族と定義しています。

 坪井正五郎の言うコロボックルは、日本の先住民ではないとする説が有力で、いろいろ議論がなされたようですが、坪井がロシアのサンクトペテルブルクで、腹膜炎(急性穿孔性腹膜炎)を患って客死したことで、結論が得られないまま消えてしまったようです。

 ところで、その大和民族ですが、いろいろ調べて見ますと、凡そ1万年以前すなわち、縄文時代以前から日本列島に居住していた人々(日本列島人)のうち、弥生時代に大和(奈良盆地の南東部)を本拠地とする人々を中心に形成されたヤマト王権(大和朝廷)に属する民族を言うのだそうです。

 大和朝廷の存在する場所は、奈良盆地の東南地域で、大和(やまと)と呼ばれていたと言われています。やがて大和の国(ヤマト王権)が、奈良盆地一帯や河内方面にまで勢力を伸ばし、支配下に収めるようになりました。勢力範囲の地域、すなわち、現在の近畿・畿内もまた大和と呼ばれるようになった、と言われています。

 どのようにして「大和の国(ヤマト王権)が成立したかについては、歴史家には失礼ですが、謎の世界と言いますか古事記の中の世界と考えています。大和と漢字二字で書くようになりましたのは、元明天皇の治世からだと聞いています。三省堂の『大辞林』では、「元明天皇の時、「倭」に通じる「和」の字に「大」の字を付けた「大和」を用いることが定められた」、とあります。

 今日、「大和民族」と呼びますのも、そんな流れがあるからだと思います。大和の国が形成された当初は、隼人族(九州地方)、蝦夷族(東北地方)の人々は異民族と言われていたようです。しかし隼人、蝦夷の人々は、中世においては大和民族に同化したという見方もあるようです。

 琉球民族は、独自の王権下にありましたが、いまだにモヤモヤが拭いきれないでいます。ユネスコは日本の先住民族として勧告していますが、日本政府は「琉球民族」は、独自の文化を持つが日本民族(和人)に含まれるとしています。しかし、何十年後か分りませんが、わたしは、大きな火種を抱えているように思えてならないのです。

 本稿では、この日本列島には、日本国家を形成するいろいろな民族が現に共存しているのですが、ごく一般には、日本国の大多数が日本人であると考えておきます。

 以上のことから、日本国は多民族国家であることを踏まえまして、若干迷いはあるのですがいろいろ材料を考慮した結果、下記のような民族から構成されていると見做すことが可能ではないか、と考えています。

 すなわち、

 (1)先史の時代:縄文人 (狩猟民族、初期農耕民族等、そしてDNAから沖縄系:30%、アイヌ系:70%)、弥生人(山東省、朝鮮半島から、日本列島へ渡って来た民族で、同時に水田稲作をもたらした農耕民族)。

 (2)古   代:倭人、出雲族、天孫族、海人族、隼人、熊襲、蝦夷 (えみし) (俘囚)1)、国栖、粛慎2)、土蜘蛛3)、擦文人4)、オホーツク人、渡来人。

 (3)中世・現代:大和民族 (和人, サンカ, マタギ, 家船)、アイヌ(北海道アイヌ, 樺太アイヌ, 千島アイヌ)、琉球民族、蝦夷(えぞ) (渡党)、ニヴフ(スメレンクル, ニクブン)、ウィルタ(オロッコ)、久米三十六姓5)、小笠原諸島民族(欧米系先住島民)。

 なお、小笠原諸島民族は、1876年明治政府の領有宣言を出す以前から住んでいた人々で、ポリネシア系ハワイ人も含まれていたと推測出来ます。

 

 (注)

 1)俘囚(ふしゅう):夷俘(いふ)とも言う。二つの意味がある。一つは、8世紀ころ、律令国家に帰属した(征服された)東北地方の住人たち。もう一つは、単に虜(とりこ)、捕虜になった人。

 2)粛慎(しゅくしん):「みしはせ」、「あしはせ」とも読む。古代中国の東北方面に居住していた異民族のこと。『日本書紀』にも出てくる辺境の異民族のこと。

 3)土蜘蛛:大和朝廷に逆らい恭順しなかった豪族の蔑称。

 4)擦文人:擦文文化を担った人々、アイヌ民族の先祖に当たると考えられている。擦文とは、土器の表面に付けられた文様の一つ、木の「へら」で擦ったあとのことを言います。

5)久米三十六姓:琉球王朝(察度)時代(1350-1395)に、中国明の皇帝(洪武帝)より琉球王に下賜(かし)されて、琉球に遣わされた今で言う「航海士」など専門家たちの末裔で、彼らは那覇の久米村に居を構えていたということです。彼らを久米村人(くにんだんちゅ)と呼んだそうです。その末裔の中から、沖縄県知事になった人が仲井真弘多(なかいま ひろかず)、稲峰恵一(いなみね けいいち)ら、何人もの知事を輩出しています。(文献:沖縄県教育委員会編『新訂版歴代宝案の栞』(2018〔平成30〕年3月など参照。)



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