絶滅したナウマンゾウのはなしー太古の昔 ゾウの楽園だった
日本列島-(12)
第Ⅱ部 ナウマンゾウの聖地、横須賀白仙山
(2)因果な二つの論文
1)ナウマンの「江戸平野について」(1879)は、前節でも触れましたが、ドイツの出版社『ぺーターマン地理学報告書(誌)』第25巻第4号(同巻は第12号まで刊行)に掲載されました。ナウマンは、この論文(1879)の中で、横須賀は「マンモス」生息の地としては最も南に位置しており、今(1870年代)より寒い寒冷地の気候であった、と述べています。
この誤りを認め、訂正するためにも「先史時代の日本の象について」(1881)は、ナウマンにとって、書く必然性があったのではないか、という見方が素人目にはできるのです。
前回(11)で述べた(1)の4)では、ナウマンの1879年の論文の中からほんの一部分を抜き出し、ナウマンが横須賀でマンモスの下顎1個が発見されたことに触れている個所を取り上げましたが、ナウマンはそのことについて、1881年の彼の論文「先史時代の日本の象について」の中で、「私は、私の論文〔江戸平野について〕において一つの誤りを冒した。
その中では、横須賀産の下顎をElephas primigenius と書いた。この誤りは、ここ〔日本〕での滞在の当初、文献が完全に欠如していたので、その当時比較を行う機会がなかった、ということから発生したものである」(山下抄訳、1996)、と述べて自らの誤りを公にしつつも、誤った理由についても述べています。ここで、ナウマンの上述の文中にある「文献が完全に欠如していた」の部分を「情報が完全に欠如していた」と読み直しますと、ナウマンが何故誤ったか、その真意が読めるように思います。
地質学者であるナウマンにとって、日本にゾウが生息していたことについては然ることながら、化石骨が発見された産地の位置関係、地層、たとえば地殻変動によって生じた地層、岩石、岩体の変形・変位、あるいは褶曲や断層など、地質構造の十分な情報が得られなかったことは、誤りを冒したことに対する単なる弁解ではなく、地質学者としては正当な理由であったと考えられます。
日本列島は、ゾウなど大型獣が、かなりの密度で、第三紀後期から第四紀に生息していたとする自らの鑑定を踏まえるなら、ナウマンは、地質学的に日本の古地理や古気候の変遷を考察することの重要性を感じていたと考えられます。
2)ナウマンは1881年の論文で「マンモス」とは表記せずに、「横須賀産の下顎をElephas primigenius と書いた」と、「ケナガマンモス」の学名を用いて説明しています。その理由は、あくまでも推測に過ぎないのですが、多分、ドイツの動物学者ヨハン・フリードリヒ・ブルーメンバッハ(Johann Friedrich Blumenbach:1752ー1840)が、1799年、聖書に出て来る巨象(ケナガマンモス)の図に「最初のゾウ」を意味するElephas primigeniusの学名を与えたことから、ドイツ人であるナウマンは、マンモスをElephas primigenius と呼んだのではないか、とわたしは推察しています。
ところが、1828年に、イギリスの比較解剖学者のジョシュア・ブルックス(Joshua Brookes:1761ー1833)が、自身の所有していたケナガマンモスの化石に対して、Mammuthus borealisという学名を与えて発表したという説があります。いろいろ表現の仕方はありますが、マンモスは、英語表記でMammothと書くのが無難のようです。
ナウマンが「先史時代の日本の象について」(1881)にまとめて記載した日本のゾウの化石骨は7点(パネルⅠ〜Ⅶ)です。1点1頁で7頁を使って掲載しています。
化石の産地は、4か所示されています。産出位置は、主として中部日本で、北緯34.5度と北緯36度の間で発見されていると記されています。
以下、パネルⅠ~Ⅳとありますが、ナウマンのドイツ語論文(1881)図を引用したものですが、ブログに貼り付けることができませんので割愛させて頂きます。
3)ナウマンが「先史時代の日本の象について」(1881)に掲載したゾウの化石骨の産地は、パネルⅠとⅡは小豆島産、パネルⅢは近江、龍(竜)華村産、パネルⅣ近江、龍(竜)華村産、パネルⅤ近江、龍(竜)華村産、パネルⅥ横須賀産、パネルⅦ東京江戸橋産の4か所です。ただし、パネルⅢ〜Ⅴの産地は同じですが、化石(ゾウ)の属、種で分けて表記しています。
たとえば、パネルⅢ(TafelⅢ)については、Stegodon insignis Falconer & Cautley. Uterkiefer von Riugemura,Prov,Ome,Japan.というようにです。ここでOmeはOmiだと思います。近江国(現、滋賀県)龍(竜)華村産ということになります。
イタリックの部分は、ステゴドンが、鮮新世から更新世にかけてアジアに広く生息していた、ゾウ目ステゴドン科の属を意味しており、Falconer & Cautley は、Thomas CautleyとHugh Falconer 二人の動物化石学者の名前を付けたものと考えられます。
ちなみに次頁の(A)はナウマンの原図(パネル)Ⅲ(近江、龍(竜)華村産下顎化石)であり、また(B)はナウマンの原図(パネル)Ⅳ(横須賀産下顎化石)をそれぞれ引用したものです。なお、(B)は、ナウマンが掲示した原図(パネル)の向きの通りです。
なお、片方に臼歯がありませんが、ナウマンがスケッチした時点でなかったものと思われます。ヴェルニー本家の資料(1867年産)では、左右の臼歯が付いています。
日本列島-(12)
第Ⅱ部 ナウマンゾウの聖地、横須賀白仙山
(2)因果な二つの論文
1)ナウマンの「江戸平野について」(1879)は、前節でも触れましたが、ドイツの出版社『ぺーターマン地理学報告書(誌)』第25巻第4号(同巻は第12号まで刊行)に掲載されました。ナウマンは、この論文(1879)の中で、横須賀は「マンモス」生息の地としては最も南に位置しており、今(1870年代)より寒い寒冷地の気候であった、と述べています。
この誤りを認め、訂正するためにも「先史時代の日本の象について」(1881)は、ナウマンにとって、書く必然性があったのではないか、という見方が素人目にはできるのです。
前回(11)で述べた(1)の4)では、ナウマンの1879年の論文の中からほんの一部分を抜き出し、ナウマンが横須賀でマンモスの下顎1個が発見されたことに触れている個所を取り上げましたが、ナウマンはそのことについて、1881年の彼の論文「先史時代の日本の象について」の中で、「私は、私の論文〔江戸平野について〕において一つの誤りを冒した。
その中では、横須賀産の下顎をElephas primigenius と書いた。この誤りは、ここ〔日本〕での滞在の当初、文献が完全に欠如していたので、その当時比較を行う機会がなかった、ということから発生したものである」(山下抄訳、1996)、と述べて自らの誤りを公にしつつも、誤った理由についても述べています。ここで、ナウマンの上述の文中にある「文献が完全に欠如していた」の部分を「情報が完全に欠如していた」と読み直しますと、ナウマンが何故誤ったか、その真意が読めるように思います。
地質学者であるナウマンにとって、日本にゾウが生息していたことについては然ることながら、化石骨が発見された産地の位置関係、地層、たとえば地殻変動によって生じた地層、岩石、岩体の変形・変位、あるいは褶曲や断層など、地質構造の十分な情報が得られなかったことは、誤りを冒したことに対する単なる弁解ではなく、地質学者としては正当な理由であったと考えられます。
日本列島は、ゾウなど大型獣が、かなりの密度で、第三紀後期から第四紀に生息していたとする自らの鑑定を踏まえるなら、ナウマンは、地質学的に日本の古地理や古気候の変遷を考察することの重要性を感じていたと考えられます。
2)ナウマンは1881年の論文で「マンモス」とは表記せずに、「横須賀産の下顎をElephas primigenius と書いた」と、「ケナガマンモス」の学名を用いて説明しています。その理由は、あくまでも推測に過ぎないのですが、多分、ドイツの動物学者ヨハン・フリードリヒ・ブルーメンバッハ(Johann Friedrich Blumenbach:1752ー1840)が、1799年、聖書に出て来る巨象(ケナガマンモス)の図に「最初のゾウ」を意味するElephas primigeniusの学名を与えたことから、ドイツ人であるナウマンは、マンモスをElephas primigenius と呼んだのではないか、とわたしは推察しています。
ところが、1828年に、イギリスの比較解剖学者のジョシュア・ブルックス(Joshua Brookes:1761ー1833)が、自身の所有していたケナガマンモスの化石に対して、Mammuthus borealisという学名を与えて発表したという説があります。いろいろ表現の仕方はありますが、マンモスは、英語表記でMammothと書くのが無難のようです。
ナウマンが「先史時代の日本の象について」(1881)にまとめて記載した日本のゾウの化石骨は7点(パネルⅠ〜Ⅶ)です。1点1頁で7頁を使って掲載しています。
化石の産地は、4か所示されています。産出位置は、主として中部日本で、北緯34.5度と北緯36度の間で発見されていると記されています。
以下、パネルⅠ~Ⅳとありますが、ナウマンのドイツ語論文(1881)図を引用したものですが、ブログに貼り付けることができませんので割愛させて頂きます。
3)ナウマンが「先史時代の日本の象について」(1881)に掲載したゾウの化石骨の産地は、パネルⅠとⅡは小豆島産、パネルⅢは近江、龍(竜)華村産、パネルⅣ近江、龍(竜)華村産、パネルⅤ近江、龍(竜)華村産、パネルⅥ横須賀産、パネルⅦ東京江戸橋産の4か所です。ただし、パネルⅢ〜Ⅴの産地は同じですが、化石(ゾウ)の属、種で分けて表記しています。
たとえば、パネルⅢ(TafelⅢ)については、Stegodon insignis Falconer & Cautley. Uterkiefer von Riugemura,Prov,Ome,Japan.というようにです。ここでOmeはOmiだと思います。近江国(現、滋賀県)龍(竜)華村産ということになります。
イタリックの部分は、ステゴドンが、鮮新世から更新世にかけてアジアに広く生息していた、ゾウ目ステゴドン科の属を意味しており、Falconer & Cautley は、Thomas CautleyとHugh Falconer 二人の動物化石学者の名前を付けたものと考えられます。
ちなみに次頁の(A)はナウマンの原図(パネル)Ⅲ(近江、龍(竜)華村産下顎化石)であり、また(B)はナウマンの原図(パネル)Ⅳ(横須賀産下顎化石)をそれぞれ引用したものです。なお、(B)は、ナウマンが掲示した原図(パネル)の向きの通りです。
なお、片方に臼歯がありませんが、ナウマンがスケッチした時点でなかったものと思われます。ヴェルニー本家の資料(1867年産)では、左右の臼歯が付いています。
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