素人、考古学・古生物学を学ぶ

人類の起源・進化・移動や太古の昔、日本に棲んでいたゾウ類にも関心があり、素人の目線で考えてみます。

(改訂)抄録・日本にいたナウマンゾウについて(17)

2021年11月15日 18時51分20秒 | ナウマン象と日本列島

(改訂)抄録・日本にいたナウマンゾウ(17)

(初出:2015・8・19ー2016・4・19)




結び(その1)―最初の化石は横須賀で発見― 

―ドイツの地質学者で初代東大理学部地質学教室の教授H・E・ナウマンが最初に研究したと言われているゾウの化石のいくつかのうちの一つは、神奈川県の横須賀製鉄所の建設用地の造成中に、フランスの軍医で植物学者でもあったPaul・A・L・サヴァティエ(1830.10.19-1891.8.27)によって発見されたものと、いろいろな記録から考えられます。1867年のことでした。―
 
 1)ナウマンゾウの名前の由来は、すでに触れましたように、ドイツの地質学者で、東京大学の初代地質学教授だったナウマン(Heinrich Edmund Naumann:1854-1927)に因んだものです。   
ナウマンは、ミュンヘン大学でツィテル(Karl von Zittel:1839-1904)教授に師事していました。明治政府から招聘される前年の1874(明治7)年にミュンヘン大学で博士号を得ていました。古生物学者の矢島道子氏によりますと学位論文は、「ルードビッヒ二世が溺死したシュタルンベルク湖に浮かぶバラ島の石器人の研究」(『学術の動向』・2008.8「ナウマンゾウの『ナウマン』は―日本で最初の地質学教授のこと」、93~97頁)というテーマでした。

 ナウマンは、1875(明治8)年8月17日来日し、東京開成学校の教授の職に就く筈でしたが、大きな手違いが生じてしまいました。と言いますのは、同年7月に同校の鉱山学科が廃止になり、急遽文部省が管轄する「金石取調所」(鉱山学科のようなコース)を設置、ナウマンを迎えたと言われています。組織の改編で、1877(明治10)年4月10日東京大学が開設されましたのでナウマンは、開設と同時に1877年から1879(明治12)年までの2年間、東京大学理学部地質学教室の初代教授として在任しています。東京大学の教授に就任したのは若干23歳でした。

 ナウマンは「大学では早急に日本の地質の全貌を把握することが困難なため、地質調査を国家的規模で組織的に行う必要を感じ、地質調査所の設立を企画した。まず、内務省地理寮山林課を明治11年に地質課と改変」(今井功『地質ニュース』・No.107)する意見書を政府に具申しています。この意見書は、1880(明治12)年5月に採択されましたので、同年8月にナウマンは東京大学理学部地質学教室の教授を辞した後は、内務省地質課の技師長として雇われました。


 2)なお、ナウマン教授の後任には、同じくドイツから地質学者ブラウンス(David August Brauns:1827-1893)が文部省によって招聘されて、二代目の地質学教授として1877年12月着任しています。彼もまた講義の傍ら地質調査に携わり、石神井川河岸で貝の化石の採集や東京大学に保管されていた象の臼歯に関する論文も書いています。

 話が大分横道にそれましたが、ナウマンは帰国する1885(明治18)年まで、日本に滞在した10年の間、東北地方から四国にも足を延ばして全国規模の地質調査をしています。そのナウマンは1881年に、「先史時代の日本の象について」と題する論文を作成して、1881年6月にドイツの『古生物学報』に掲載、報告しています。
多くの研究者は、ナウマンが研究した化石を「横須賀の白杣山(注)(しらそまやま)の洞穴から見つかったと言っていますが、この山は、正しくは「白杣山」ではなく、「白仙山」です。

 (注)
  横須賀に「白杣山」は存在していたのか、どうか、小生には不明です。「白仙山」はかつて存在しました。横須賀製鉄所を建設に当たって、その西側の小高い丘、「白仙山」を切り崩し、用地造成を行い、そこに第2ドライドックが建設された記録があります。また、その残土の土砂の一部で海を埋め立てることに用いたようです。したがって、現在は昔のような標高45メートルの丘のような「白仙山」の姿は存在していないと思います。これらの点は、次回に少しばかりですが、述べてみたいと思います。

 ナウマンは、1881年の論文の中で、「この下顎はおよそ14年ほど前、横須賀で発見された。大きなドックの掘削にあたって、一つの丘〔白杣山:しらそまやま〕が取り除かれた。この丘を取り除いたとき、半分埋まった窪みが現れ、その中にこの象の骨があった」(山下昇抄訳、原文のまま引用しました。)と言うのです。ナウマンの言葉通り横須賀で発見されたのが「14年ほど前」としますと、論文を書いた1881年から遡ってみますと1867年に発見されたことになります。

 実は、最近この発見年次を裏付ける資料がわれわれ素人にも入手できるようになりました。それは、2015年10月31日から2016年1月31日まで開催された横須賀製鉄所(造船所)創設150周年記念展を機に発行された『すべては製鉄所から始まった―Made in Japan の原点―』(横須賀市自然・人文博物館、2015)がその資料です。同書の第3編図版編「横須賀製鉄所のフランス人子孫伝来の資料より」1-2「ヴェルニー本家伝来の家族写真アルバムと関係資料」127頁、図108に「西暦千八百六十七年第十一月六日 古象骨ノ真図」として「化石化した象のあごの骨」の写真が掲載されています。

 その写真の説明として「化石化した象のあごの骨、1867年11月6日。この化石はナウマンによって初めて科学的に研究され、のちに『ナウマンゾウ』と名付けられた」と、説明が付してあります。このことから、ナウマンが「先史時代の日本の象について」を書き下ろすに当たって研究の対象とした象の骨の化石の一つであったと考えられます。既述のように、最初にナウマンゾウの化石が発見されたのは横須賀製鉄所の用地造成工事中のことで、1967年11月6日であったことが分ります。


コメントを投稿