基肄城(きいじょう)跡は、
天智4年(665年)に大野城跡(福岡県)とともに築かれた日本最古の本格的な山城で、
構造上の特徴から「朝鮮式山城」と呼ばれています。
天智2年(663年)、唐・新羅の連合軍に滅ぼされた百済の再建を支援するため、
韓半島に出兵した倭(当時の日本)は、白村江の戦いで大敗します。
その後、大宰府を中心とした北部九州の防衛の一つとして、この基肄城が築城されました。
城の構造は、基山(きざん:標高約405m)とその東峰(標高327m)とを土塁と石塁で囲み、
その内側の尾根上に建物を配置しています。
これまでに約40棟の建物が確認されており、主に武器や食糧などが蓄えられたと考えられます。
現在は、「礎石群」と呼ばれる柱を据えた基礎石を見ることができます。
これまでに建物に葺かれた瓦や生活容器として使われていたと考えられる土師器・須恵器などが出土しています。
城壁の長さは約4kmで、その途中には推定を含め4ヶ所の城門を備えています。
南側では谷を塞ぐようにして築かれた石塁に、川の水を流すための水門があります。
また、最近の調査により、同じ石塁においてこの水門のほかに、
排水機能をもつ3つの通水溝があることがわかりました。
中世頃には「木山城」として再び使用されます。(基山町ホームページから)
何故か猿田彦大神の碑と三猿
少し登ると湧き水がありますよ~♬