軍艦島 = 端島炭坑閉山の意向は
昭和45年に発表されました。
昭和48年10月、覚悟を決めた島民は
端島小中学校 のグランドに
人文字をつくりました。
閉山式が執り行われたのは
昭和49年1月15日。
島民は、
順次島を去っていきました。
そして、無人島に ・・・
2015年7月、
軍艦島は世界遺産となりますが、
荒廃を止めることはできません。
これは、平成30年の 30号棟 ・・・
これが先月 (令和2年10月21日) ・・・
今年3月、突然崩れ落ちたそうです。
軍艦島の崩壊は、
日々進んでいます。
(大正時代の30号棟と木造家屋)
明治、大正、昭和、平成、令和
を生き抜いた軍艦島 ・・・
昨日、人間臭い島 と表現しましたが、
私はこの島に
生命体のような息吹を感じます。
その息はやがて絶え絶えとなり、
いつか静かに息をひきとります。
軍艦島はゆっくりと土に還っていきます。
それでいいのでは ・・・
JFK-World
父が隣の高島の出身で、子どもの頃春休み、夏休みと帰省の度に端島を船上で見ながら、「どうなっているのだろう・・・」「行ってみたいね」と姉と話していました。
このように、ブログにて、こんな詳細に渡る島の歴史、当時の住民の息吹、生活のにおい…などなどが感じられる写真と文章に出会えたことに、とても感動しました。ありがとうございました。
切ないけれど、時とともに崩れ落ち、土にかえる。それが「自然」ですね。
切ない・・・いい言葉ですね。
まさにそれが心情です。
わたしは軍艦島のことはよく知らなかったのですが、小さな島にありえないほどの建物と人が・・・それは行き過ぎた文明はいつか滅ぶようなはかなげな未来が見え隠れして、怖れを感じていました。
ですから最後に閉山して皆さんが無事に島を離れて行ったことに心から安堵しましたし、朽ちていく軍艦島への「それでいい」とのお言葉にはものすごくうなづけるものがありました。
世界遺産であっても、朽ちていくのをただ見守るというやり方があってもいいでしょうし、この島はこれがふさわしいと思います。
学びだけでなくいろいろな思いが広がった軍艦島でした。
ありがとうございました。
貴方の写真と、説明と、編集に、敬意を表さずにおれません。
石炭から石油へと、エネルギー源の転換が進められ、多くの炭鉱マンが職を失いました。そんな時代の流れの中にあった、軍艦島を、しみじみと眺め、読ませていただきました。
麦さんだけでなく、私たち日本人にとって、「切ない歴史」です。詳しく、丁寧に、拝見させて頂き、感謝いたします。
小さな運動場の人文字 「サヨナラ ハシマ」 が島民の思いを象徴していますね。
端島炭坑は黒字閉山だったそうです。
時代の進歩に抗えなかったということですね。
それも・・・切ない。
その上に営まれた豊かな暮らしぶり。
明治43年の煙が上がりボタ山が映った島、テレビのある団欒、銀座街で日日の買い物をするたくさんの女性たちの姿、海水での浴場、幼稚園から学校、病院、一段高いところにある管理者たちの住まい…。
貴重なお写真をご案内をいただきながら、じっくりと拝見させていただきました。
筑豊での上野氏の写真も重ねて脳裏をよぎりましたし、雑駁ながら様々に想像が広がり、なんとも言えない気持ちになりました。
深く関心を寄せることもなく来たひとつの時代、人類の歴史を垣間見せていただけました。
掴みどころがないのですが、自分の中にある何かが、また何かにつながっていけたらいいなと感じております。
よいタイミングで、この度のご案内をいただけましたこと感謝いたします。
炭坑の犠牲者だけではなく当然世代交代が進んで、彼らの墓地もここにあったのでしょうか。
遺骨の保管などどうあったのでしょう…、ふと思いました。
雑駁ながら様々に想像が広がる ・・・ まさに軍艦島はそんなところですね。
親切なガイドさんに、墓地、遺骨については質問しなかったですが、たぶん軍艦島で働いていた人たちは、島そのものに愛着はなかったような気がします。嫌な場所だけど稼げる ・・・ これが本音だったのでは。
少しでも多く稼ぎたい、そして少しでも早く軍艦島を離れたい ・・・ 彼らの心情を私はそう察します。
なので、あくまでも想像ですが、墓地はそこにはなかったのでは。
寺と神社はありましたが、それは現生のご利益のためではないでしょうか。