雲より来たる鶴和解

精なる神経が精神でも、
精神にはランクがある。
聖なる水は多種多様な種を持つ。
水には感謝を捧げますよう。

徳と易姓革命

2024-08-16 07:26:08 | 日記

中国には古来からの伝来の、

易姓革命と言う粛清方法があるのです。

それは帝国や大国の為、

徳を失った王の治世する民を、

大勢弑して新たな王国を樹立することです。

ですから、

徳と言うものは常に付いて回ります。

余りに頑固でいては困ります。

ですが、徳とは辺りを広げさせることです。

平安貴族と鎌倉武士と言う観点から見ても、

銃や刀で人を弑する事は可能です。

この世で徳を積まなければ、

通れぬ道もあると言う事です。

徳とは真理であり、

様々な論を、

全て統一する概念です。

その徳から派生して、

論語があるのです。

恐らくきっと。

それはまだ読ませて貰っていません。

今は史記の3巻目、表3が1ページから読めていないのです。

黄帝の子孫に興味がなかったのです。

それはまだ、大成出来る子を私が持てるだけの資力に満たないからです。

資力とは、物質的な経済と、様々な非経済的能力に別れると思います。

その資力、投資力にもならず、

子孫の事を読み取れるでしょうか。

ですからまだ、

史記を読み進めることは出来ないのであります。

まだ運命の流れが、

川を満たしていません。

美しい言語を、

美しく語ることも、

これも前世からの徳のお力です。

人は無理して着飾った所で、

真理を追求する人からしたら、

滅ぼすことも簡単な事です。

ですがそれをしないのも、

徳の為の事です。

徳を積み、徳を考える。

慈しみを持つ。

徳を考える段階にまで行けば、

何故助かるのかが解明されるものです。

脳に汗を掻いてでも、

徳の事を考えなければなりません。

こうして文章を考えるのも、

少ない民、中心の民の為です。

為とは、

利己利他どちらも必要です。

1972文字数。

1972年は第二次世界大戦が始まった日ですね。

クリスチャンも徳を考えるのに相応しい勉強です。

間違えてしまいました。

1972年は日中国交正常化の記念すべき日でした。

康康と蘭蘭の年でもあるのかもしれませんね。

そう考えると、

聖書からは余程、

離れてしまったのですね。

これも宿命か。

平安時代の仏教と、

鎌倉時代の仏教、

私の両親の母は平家と源家です。

仏教を、

学び始める時が、

やがて終ぞには到来するでしょう。

それが必要と天界に認められればの話です。

それには、

恐らく崇高な身分が必要そうです。

するとまだ、

まだまだ発展途上なのです。

哲学書とも出会い、

やがて能の研究もしなくてはなりません。 

能ある鷹は鳥を産む、

能ある鷹は万を得るじゃ、

元々の意味を変えさせた韓国の歴史のよう。

能ある鷹は味を知るじゃ、

祖先を頼るだけの無能な人間のよう。

能ある鷹は餅を焼くじゃ、

衆世を救う百姓のよう。

能ある鷹は尻を焼くじゃ、

鬼を戒める不動明王のよう。

能ある鷹は親知らずじゃ、

親不孝なだけの子供のよう。

能ある鷹は焼け石に水じゃ、

懐石を猛る胸の熱さで恐怖に冷やりのよう。

能ある鷹は黄河行くじゃ、

まだ龍になれない鯉のようだ。

能ある鷹は窓を拭くじゃ、

有り得ないし鳶を産むだ。

能ある鷹は信を得るじゃ、

天下を穫れなかった信長様のようだ。

能ある鷹は夢芝居じゃ、

芸姑を枕に寝た朝のようだ。

能ある鷹は幸を知るじゃ、

独り善がりな物長者のようだ。

能ある鷹は風に酔う、

じゃ落語家の世界のようだ。

能ある鷹は夢を生むじゃ、

夢グループの社長のようだ。

能ある鷹は酒を知るじゃ、

天狗になった楽天家のようだ。

能ある鷹は季節柄じゃ、

尊いが尊い故に儚い物語の1シーンのようだ。

能ある鷹は夢現じゃ、

三途の川を下る鷹のようだ。

能ある鷹は風を切るじゃ、

旋風を巻き起こす龍にはなれないようだ。

能ある鷹は色を持つじゃ、

色っぽい姉さんのような歌だ。

能ある鷹は腰を打つじゃ、

年老いて背中に曲がった爺さんのようだ。

能ある鷹は鳥を生む―鳥を生む?なのか?
能ある鷹は知るを足る

知ることが足れば

脈を辿り地に足が付く

これで終わりにしよう

徳を考えるとは

疲れることだ




売り手市場と買い手市場

2024-08-16 05:08:27 | 日記
フリーアナウンサーの住谷美紀さん。

とても美しい方なのですね。

凛とした強さの中にしおらしい水仙の垂れた花の様な。

とても太陽の似合う、魅力的な彼女ですね。

NHKに入社できた縁は、努力の賜物です。

きっと人一倍努力されたことでしょう。

温かい人に出会いたいなら、

それはもう悲しいかな、

売り手市場に身を投じてしまって、

その為の魅力を磨いて、

買い手市場には参加しない事が必要でした。

その方にとっては、

もしかしたら、

初恋の方から、

ずっと買い手市場に恋をして来たのかもしれない。

でもそれは、

自分の領域と、

家庭の領域を、

世の中から守りたかったからかもしれない。

私は、

魅力的にならなければ、

諦めてしまう人々が出ることを恐れました。

ああ、あの人がそうなら、私のこれはなんだろうと、卑下してしまうこと、

その事は肌が、顔が、爪が、魅力的になることで、

いやその魅力的と言うのも、

究極に二分されるのです。

既に始まった時から決まっているそれは、

悲しいことに、

私の場合は、

ただ中国の始まりの王様に信仰心があったからのことです。

ですから、究極の二分の魅力的さの違いを変更する術を、知らないようなものなのです。

そして魅力的にならなければ、

そのように卑下されてしまう、

心の美しい人のことを救えないから、

その大義名分で祈り、

魅力的さを手に入れました。

それは、

気になることをたくさん聞き、

好きなことをたくさん聞き、

家族のことをたくさん聞くことです。

多分、住谷美紀様のお姿を拝見していると、

お名前がご自身を苦しめていたのかもしれません。

これだけは確かなのですが、

人は改名しても、

名前らしい名前は決してご自分の運命を変更てきません。

名前らしくない名前にしか、

利益は無いのです。

私は亡命者の血を持っていたので、

中民チュウミンとしました。

自分の霊的なエネルギーのことを。

背景にある、

仏教徒からも言われた、

それもそれも多くの霊を背負っている、

開放しては?

と言われたことを、

チュウミンでのみ開放できました。

ですから、身を持って、

改名するなら亡命者の様な名前を自分に宿す。心に命じてみる。

既にある名前はあまり良くないです。

それでいて意味の大義名分が通らなくては、

恐らく何らかの神がご自分の意志を通されないのです。

ですから、

中心の民として思いますのは、

せめて買い手市場に身を任せるのではなく、

売り手市場に身を投じて、

そして名前の宿命を、

心に銘じた、

名前らしくない名前で変えてしまう事です。

私が彼女なら、

私自身に、

でも良く考えたら、

由緒正しいお墓には、

戒名が存在するので、

恐らくこの真理は自明の事でしょう。

出来れば祖先のルーツに従って、

名付けた方が良いので、

そして一字足りとも名前らしい名前を付けてしまっては効果がないのです。

ですから、せめて、

住谷丗民とかはどうでしょう。

きっと霊的エネルギーが、

大切なお名前から、

呪縛から解かれるでしょう。

セイミンです。

生きながらにして、

お名前の持つ呪力から解かれるには、

往々にしてそれしか無いのだと思います。

それは、陰陽師が名前を呪であるとした為、

殷の時代には、陰陽師はいなかったはずです。

周王朝から、陰陽師が始まりました。

全ては紂王の暴虐政治から、

名前の呪は始まってしまったのだと思います。

私の名前は本来は、

健康で英雄であれだから、

その真理に基づけば、

こうしているのは、

当たり前の事なのです。

私は、

韓国語を学ぼうと、

死ぬ気で学ぼうと思いました。

何故なら、

伊藤博文が恐らく、

戸籍制度を作ったからです。

私の祖父を通じ、

私に天界から英雄の名を授けた霊。

それは、帝国日本の為だと思います。

今、戸籍制度を江戸時代末期までのように、

自由に解き放つ陰陽師や政治家は皆無かもしれないので、

この様な名前の苦しみを生んでしまうのだと思います。

中心の民ですから、

こうしているのは当たり前の事なのです。

呪術大国なのですから、

殷帝国は、

恐らく太古の昔は、

私の今と同じ時代だったと思います。

さらに、呪術を解明していく道もあると自明のものです。

呪術を用いることは叶いません。

しかし、ある一つの行為は、

本当の呪術の力を持っていました。

それは名前を鉛筆で書き、

火で焼く事です。

私は中国の祖父の名を焼きました。

その罪は、

私に新たな世界を宿すまで、

大変な苦難の歴史を、

私に味合わせました。

遺産もないのは、

その大罪の為なのです。

それはまだ私の器が、

本来あるべき姿になれていなかった為です。

父に幼い時に滅ぼされてから引き摺った運命が、

それをそのようにさせていました。

物事には、因果応報があるのです。

以上で、幕引きと致します。

ご清聴有難う御座いました。