フランスの友人から、あのカルメンで有名なビゼーが住んでいたというアパートの写真をいただき、とても興味深く、調べてここに記録しました。
ジョルジュ・ビゼーは1838年、パリに生まれた。
最初につけられた名前はアレクサンドル=セザール=レオポール・ビゼー (Alexandre-César-Léopold Bizet) だったが、洗礼時に改名された。
父は声楽教師、母はピアニストで、幼い頃から音楽に親しみ、記憶力が抜群であった。
9歳でパリ音楽院入学し、フランソワ マルモンテル、シャルル グノー、ユダヤ人ジャック アレヴィらに師事してピアノ、ソルフェージュ、オルガン、フーガで一等賞を獲得した。
19歳でカンタータ『クローヴィスとクロティルデ』でローマ大賞を獲得。
1861年にはリストの新作(リストは「この曲を正確に弾けるのは私とハンス フォン ビューローだけ」と豪語していた)のパッセージを一度聴いただけで演奏し、さらに楽譜を渡されると完璧に弾いてのけ、リストを驚かせた。
この時、リストは「私は間違っていた。3人というべきでした。正確に言えば、最も若いあなたが最も奔放で輝かしいというべきでしょう。」といってビゼーを賞賛した。
しかし、オペラ作家としての成功を夢見ていたビゼーは、ピアニストになることを潔しとはしなかった。Wikipedia
ビゼーの目標はオペラで名を成すことだった。
当時フランスでは歌劇での成功こそが作曲家の王道とされていたのだ。
1863年『真珠採り』、 66年『美しきパースの娘』などは上演されたが、ビゼーは納得しなかった。
オペラ・コミックから依頼された『カルメン』はドン・ホセを誘惑する自由で官能的な女性像などが、保守的なこの劇場の観衆にはスキャンダラスに映り、最終幕では拍手もなかったと言われる。
『カルメン』が書き上げられたブージヴァルの家。
失意のビゼーはブージヴァルの家に静養に赴き、『カルメン』初演3カ月後、この家で亡くなった。
セーヌ川で泳いだ数日後のことだった。
個人所有で文化遺産の日のみ見学可。
5 rue Y.Tourguéniev 78380 Bougival
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ビゼーの足跡をたどってみると、パリ郊外のヴェジネやブージヴァルの「田舎の家」を除く殆どが、19世紀に芸術家やインテリが住んだパリ9区の「ヌーヴェル・アテネ」地区だ。
ビゼーは、その9区の三ヶ所で暮らした。
住所はこちら
① Rue P.- Fontaine ②18 rue Victor Massé と引っ越し、結婚後ビゼー夫妻は ③22 rue de Douai(Duperré)に住む。
彼が学んだ音楽院も9区だった。
ビゼーは1870年の普仏戦争の時でさえ、サン・トゥアン=クリシー防塞でパリ防衛にあたりながら、休憩になると仲間を連れて帰宅していたという。
その家がデュペレ通り。
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( Duperré )の ビゼー夫妻、義父フロメンタル・アレヴィーらが住んだ館。ビゼーの妻ジュヌヴィエーヴはサロンを開き著名人を招いていた。
今の内装は、第1次世界大戦後に娼館となった時代のもの。
今は、夜になると重厚な扉が開き、赤い灯りのなか、カクテルや自家製ジンで幻想にひたれるバーLe Carmenになっている。
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ペール・ラシェーズ墓地には、シャルル・ガルニエがデザインしたビゼーの墓碑がある。
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ジョルジュ・ビゼー(1838年–75)
配偶者: ストロース夫人 (1869年 - 75)