根子岳山窓

(阿蘇住人の山行記です。)

四国周遊の旅 6月18日

2019年06月22日 16時02分20秒 | 旅行

ぐるり四国周遊の3日間
(阪急交通社のツア-)

娘の夏休み休暇プランで昨年に続いて今年は「四国周遊ツア-」
への招待があった。

四国は私が27歳の時、四国学園(企業内研修機関)にて10か月間在学した
思い出の地でもあり、これまで幾度ともなく訪れているが
家族旅行は今回で二度目である。

前回の家族5人(長女4歳・次女1歳・女房の父親66歳)の旅行は
学園卒業の翌年(昭和48年)であったので46年前の
遠い昔の事であり、辿ったル-トも薄ら覚えで記憶に乏しい・・・。
そこで、当時の旅行プラン写真(写真1写真2写真3写真4)を探し出して
やつと昔の旅路を思い出す事に至った。

当時は高速道路もカ-ナビも無かった時代であるのでドライブ経路選定に
苦労した「古き良き時代」の思い出として残っている。
思えばその当時、日本列島改造論で取り上げられていた
本州四国連絡橋の基本計画・・・
その夢の大橋を今回初めて見聞することとなった。

(昭和48年の四国巡遊行程:備忘メモとして)
 阿蘇→臼杵~(フエリ-) ~八幡浜→大洲→松山→国民宿舎石鎚(1泊目)
→桂浜→ 高知電電会館(2泊目)→かずら橋→琴平神社→五色台荘(3泊目)
小豆島→松山→八幡浜~フエリ-(4泊目) ~臼杵→阿蘇

 (今回のツア-行程は)
新幹線(広島)→西瀬戸自動車道(しまなみ海道)→大山祇神社→道後温泉(1泊目)
→砥部焼→高速道路「四国8の字ネットワーク」 →高知市内(2泊目)
→かずら橋・大歩危小歩危→金刀比羅宮→瀬戸中央自動車道→新幹線(岡山)

 

[一日目の行程] 6月18日(火) 曇り
JR熊本駅(発7:23)→JR広島駅(着10:43)~(西瀬戸自動車道)~大山祇神社(着13:00)
→亀老山展望台(着14:20)→(来島海峡サ-ビスエリア)→道後温泉(着16:40)

[添乗員さんの点呼・8:30分]
今回の集合場所は、JR博多駅2階「ひかり広場」

↑ [境内の案内板(今治市大三島町宮浦)]
山の神・海の神・戦いの神として「大山積神」を祀る神社で、山神社の総本社 

↑ 大山祇神社(おやまづみじんじゃ)の総門と社号標 

↑ 御神木と一緒に記念写真
「乎知命」の御手植(樹齢二六〇〇年)と伝えられ。
「息を止めて3周すると願い事が叶い、
一緒に写真を撮ると長生きできるなどとの信仰がある。」とのことであった。

↑ 安神山(あんじんさん・267m)]
鶴姫ロ-ド付近からの眺めた山姿であるが登高意欲をそそる岩山である。
大山祗神社の神体山の一つで、大山祗神社の裏手に鎮座する。
神社横から登山口があるとのこと。

頂上からは同じ、神体山である鷲ケ頭山(436m)への縦走路が延びている。
四国学園(企業内研修機関)同窓会の時に「登りたい山」として選定しておこう・・・

 

↑ 亀老山展望公園より来島海峡大橋(184m)を望む]
尾道から今治までの島々(向島~因島~生口島~大三島~伯方島)をわたる
「しまなみ海道」の最後の島
大島」の南端に位置します。

亀老山(標高301m) GoogleMap

↑ [道後温泉・彩朝楽]
道後温泉の高台にあり、道後商店街までは歩いて10分位坂道を下ることとなる。

↑ [道後温泉本館の玄関にて]

↑ [地ビ-ルを片手に、街歩きでの一杯・・・]
道後麦酒館(道後温泉本館横)の漱石ビ-ル(娘の手持ち)と坊ちゃんピ-ル

↑ [午後6時を告げる「坊っちゃんカラクリ時計」]
小説「坊っちゃん」のキャラクタ-達が登場する。

↑ [朝6時、ホテルの部屋から眺める松山城]
松山市の中心部にある勝山(標高132m)の山頂に本丸が在る。
ホテルが高台に在るので昨夜の城下町の夜景も美しかった。

[二日目の行程] 6月19日(水) 晴れ
道後 彩朝楽(発8:00)→砥部焼陶芸館(発8:50)→四万十川遊覧(着12:10~発13:00)
→(物産センタ-・ゆういんぐ四万十)→龍馬記念館(着16:00)→桂浜(発17:40)
→龍馬の宿 南水(着18:30)

↑ [車窓(宇和島道路)より宇和島城を眺める]
「藤堂高虎」創建、その後”伊達十万石の城下町”として栄える。
四国学園の仲間達と宇和島旅行した昭和47年当時を追想・・・。

 

↑ [四万十川屋形船「なっとく」に乗船 ]
遊覧50分、船内で昼食。
「川エビの天ぷら」や「あおさのり佃煮」が食欲をそそる味覚であった。

↑ [四万十川・高瀬沈下橋 (上流側から撮影)]
乗船場から下流側に架かる近くの「高瀬沈下橋」をくぐり、
その先でUタ-ンして上流側を遊覧・・・

↑ [船窓から、高瀬沈下橋の橋脚を洗う清流を望む]
* 高瀬沈下橋   ←Googleマップ

↑ [坂本竜馬記念館屋上より桂浜を望む]

[今回の御一行さま42名+添乗員・ガイド]
「銅像の向きは東京の皇居の方向に向け、顔の向きは少し右を向き、
竜馬の志であった太平洋の向こうの世界を見据えるようにしたとか・・」
(宿毛市出身・彫刻家山本白雲制作報告より)

↑ [桂浜公園・坂本竜馬の銅像前にて]

↑ [坂本竜馬銅像前にて ]
竜馬が見つめる土佐湾の先の太平洋をバックに・・・

↑ [桂浜にて ]

↑ [今夜の宿 「南水」 ]

↑ [土佐の郷土料理・皿鉢(さわち) ]
いずれの品も美味しいものばかりであったが、最高の味合いは
やはり「鰹タタキ」で
スライスしたニンニクを載せて食べるのが土佐流との事。
赤身のもっちり感は初めて食する口当たりであった。

[三日目の行程] 6月20日(木) 快晴
龍馬の宿 南水(発8:00)→かずら橋(着9:30~発10:30)→大歩危→小歩危→
金刀比羅宮(着12:20~発15:00)~(瀬戸中央自動車道)~JR岡山駅(発18:05)→JR熊本駅(着22:13)

 

↑ 「祖谷(いや)のかずら橋」 渡り口へ取付く ]
バス駐車場を降りて、物産館「かずら橋夢舞台」を通りぬけ坂道を5分位下る。

            「祖谷のかずら橋」は、徳島県三好市西祖谷山村←Googleマップ

↑ [下流側に架かるコンクリト橋(祖谷渓大橋)から「かずら橋」を眺める]

 

↑ [かずら橋入口]

[水面から14mの高さ・長さは45mの吊り橋を渡り切った・・・ !!
奥祖谷地区には、もう一つのかずら橋(奥祖谷二重かずら橋)があるとのことであった。

↑ [かずら橋を渡って左岸から望む] 

↑ [大歩危峡まんなか]
「レストラン大歩危峡まんなか」の店内に付けられた、川面に降りる
階段を辿ると遊覧船船着き場に至る。
吉野川の清流の美しさもさることながら、河川沿いに露出する特異な岩石にも魅せられた。
岩塊に刻まれた説明には「含礫片岩(がんれきへんがん)」と記されていた。

 *吉野川は、
日本三大暴れ川の1つとして数えられ、利根川(坂東太郎)・筑後川(筑紫次郎)と
並び四国三郎(しこくさぶろう)の異名を持つ。(ウィキペディアより)

↑ [琴平町(琴平参駐車場付近)から象頭山(ぞうずさん)を展望する]
象頭山中腹に金刀比羅宮は鎮座する。、
象頭山とは象頭山(538m)と琴平山(524m)の二つの山の総称で
通称名では金比羅山と呼ばれている。
琴平参駐車場から眺める象頭山←Googleマップ

↑ [土産品店が並ぶ参道]
昼食を済ませて後、ツア-集合場所の小松屋土産店を出発して
紀の国屋本店前を通過・・・。

↑ [628段目にある旭社
本宮を参拝した後、下りで参拝する習わしがあるとの事。

↑ [元気なガイドさん83歳]
案内の最後には必ず面白い洒落文句で〆られ、笑いを誘う・・・。

↑ [ゴールの785段を目前に御本宮を仰ぎながら「御前四段坂」を上る]

↑ [本宮拝殿横にある高台(展望台)から讃岐富士(飯野山422m)を望む]

↑ [拝殿と神木の楠]

↑ [バス車窓より円錐形の讃岐富士を望む]

↑ [瀬戸中央自動車道・櫃石島(ひついしじま)付近から望む景観]

↑ [櫃石島(ひついしじま)付近の景観]

↑ [櫃石島橋付近と思われる景観]
櫃石島橋←Googleマップ

(2019.7.30 加筆)  

コメント

紀伊半島の旅 9月17日

2018年09月23日 23時11分23秒 | 旅行

ぐるり紀伊半島の3日間
(阪急交通社のツア-)

娘の夏休み休暇プランで「紀伊半島ツア-旅行」への招待があった。
ちなみに、私の定年退職記念旅行として「一週間の一人旅(2002.11月)」で歩いた
コ-ス(比叡山~京都~高野山~奈良~伊勢神宮~那智の滝)と一部重なるが
「瀞峡(どろうきょう)」と「十津川村」は初めて訪れる地であるので
旅行への期待感は大きいものがあった。
(定年は3年後の2005年であったが会社の保養所を利用するため、
会社に身分が在る内にと思い早めの記念旅行であった。)

[一日目の行程] 9月17日(月) 晴れ
 JR熊本駅(発8:10) →JR新大阪駅(着11:38)→伊勢神宮(着15:00~発17:00)→
  三重県志摩市・浜島温泉「夕雅」(着18:10)

 

↑ [添乗員さんの点呼: 熊本駅・新幹線西口]

↑ [五十鈴川に架かる宇治橋にて]

↑ [五十鈴川の清流で御手洗]

↑ [伊勢神宮内宮・正宮(皇大神宮)に参拝]

↑ [一日目の宿泊「プレミアリゾート夕雅」 (三重県志摩市・浜島温泉)]
Aランク(阪急交通社基準)の会席料理を堪能

 

[2日目の行程] 9月18日(火) 快晴  
  「夕雅」(発8:00)→真珠館→花窟(はなのいわや)神社(着11:00)→瀞(どろ)峡
    (着11:50~12:50)→昼食→熊野速玉神社(着14:00~発14:30)→大門坂→
    那智大社→那智の滝(発17:00)→和歌山・勝浦温泉「ホテル浦島」(着17:30)   

↑ [花窟(はなのいわや)神社]

↑ [瀞(どろ)八丁展望所に建つ標識 : 田戸乗船場(下船側)]
新宮川の志古乗船場 (和歌山県新宮市熊野川町) ←(Google マップ)
から乗船して
北山川の田戸乗船場(奈良県吉野郡十津川村)で下船する。
「瀞八丁」で参考にしたサイト→閑古鳥旅行社

↑ [ウォ-タ-ジェット船から眺める上流側(進行方向)の景色]

↑ [寒泉窟(かんせんくつ)]

↑ [船上より青空と川面のブル-グリ-ン(青緑色)の色合いを堪能する]

↑ 田戸乗船場にて] ←(Google マップ)

↑ [瀞八丁展望所から眼下の眺望]
ライムグリ-ンと萌黄色がミックスした神秘的な色彩を放つ、
川面の流れを楽しむ。

↑ 瀞八丁展望所横に在る「瀞駐在所」
標札には「奈良県五條警察署
 十津川警察庁舎」と記されている。

 

↑ [熊野速玉大社・神門]

自然信仰を原点に神社神道へと展開していく熊野信仰は、六世紀に仏教が伝わると早くから神仏習合が進み、「熊野権現信仰」が全国に広まっていきます。「権現」とは、神が権り(仮)に姿を仏に変え、衆生を救うために現れるという意味で、過去・現在・未来を救済する霊場として熊野は広く人々に受け入れられていきます。

さらに、強者弱者、地位や善悪、信不信を問わず、別け隔てなく救いを垂れる神仏として崇敬され、人々は難行を覚悟で、熊野をめざし、「蟻の熊野詣で」の諺も生まれました。(熊野速玉大社HPから転載)

↑  [熊野速玉大社・拝殿]
全国に祀る熊野神社の総本宮で
境内には熊野信仰の象徴である「梛(なぎ)の大樹」が繁る。

↑  [大門坂石畳入口から歩いて7分]
石畳みの階段と樹齢800年の杉木立が続く参詣道。

↑  [熊野古道]
数ある熊野古道の中でも「那智山詣で」の王道として、
大門坂が那智大社まで延びているのであるが、
今回は、石畳を歩くこと20分で
大門坂を離れ、再びバスに乗り那智大社に向かう。

↑ [土産品店が立ち並ぶ石段の参道を登って、朱塗りの鳥居をくぐる]

↑ [西国三十三か所の一番札所・青岸渡寺
現在、改修工事中(来年の3月完了)で外観は見られない、
前回(2002.11月)観た那智大社朱塗りの社殿も今回は見えず仕舞であった。

↑ [青岸渡寺の裏手の境内にて]

↑ [那智の滝をバックに記念撮影]

↑ [青岸渡寺裏手の境内から望む那智の滝

↑ [青岸渡寺裏手の境内から三重塔那智大滝を望む]
日本三名瀑のひとつで落差133m

↑ [熊野那智大社の別宮、飛瀧神社

 

↑ [飛瀧神社境内にて]

 

↑ [二日目の宿泊「ホテル浦島」 (和歌山県那智勝浦町・勝浦温泉)]
勝浦港・観光桟橋から望むホテル浦島の全景、
ここからホテル専用の船で入館。

洞窟風呂(忘帰洞)の淵は海が広がり、潮騒が洞窟内にこだまする・・・
海の中の湯船に浸かっているような空間の心地であった。
夕食はバイキングとまぐろの解体ショ-(解体仕立てのまぐろを賞味)

 

[3日目の行程] 9月19日(水) 快晴 
  ホテル勝浦(発7:30)→熊野本宮大社(着8:40)→十津川村・谷瀬の吊り橋(着10:30)→
   (車中食)~高野山(着12:00~奥の院~普賢院~発14:00)→
   新大阪駅(発17:42)→熊本駅(着21:19) 

↑ [熊野本宮大社]

「かつては「熊野坐神社」と呼ばれた神社で、熊野川の中洲(大斎原)に古代の創祠以来鎮座したが、1889(明治22)年水害に罹災した後、流失を免れた主要社殿三棟を1891年に現在地に移築し、再建したものである。」 ( 和歌山県情報館のHPから転載)

 

↑ [熊野本宮大社・神門]
「第十代崇神天皇65年(紀元前33年)に熊野本宮大社が
旧社地「大斎原」へ鎮座して以来、
平成30年で二千五十年を迎えます。」とのことであった。

↑ [国道168号線の車窓から眺めた十津川]
下流側から上流側を眺める。
* 「十津川」という河川名:  熊野川本流の十津川村内での呼称

↑ [日本一長い(298m)、生活用鉄線の吊橋]

↑ [渡り終えて、左岸に「戻り歩き」のショット]

↑ [吊り橋から下流側の十津川(熊野川)を眺める]
川面からの高さは54m、緩やかに流れる
スカイブルー色を呈した川面が美しい・・・。

吊り橋を30分程見学した後、
ツア-最後の目的地「高野山」へとバスは国道165号線を走る。 ←(Google マップ)
途中ガイドの案内で「平成23年紀伊半島大水害」で深層崩壊(奈良県五條市大塔町)した
山肌を車窓から眺める・・・。
平成28年熊本地震で阿蘇大橋を落橋させた山斜面の深層崩壊と
同じような光景の爪痕を目にすることとなった。

*(深層崩壊とは): 山崩れ・崖崩れなどの斜面崩壊のうち、すべり面が表層崩壊よりも深部で発生し、
                   表土層だけでなく深層の地盤までもが崩壊土塊となる比較的規模の大きな崩壊現象。

↑ [高野山・奥の院]
弘法大師空海の御廟(ごびょう)まで続く参道の両側には
老杉の中に墓や供養塔が立ち並ぶ・・・。
専任ガイド(笑いを呼ぶ面白い僧侶であった)の案内で
御廟橋を渡り燈籠堂の地下を巡る。

↑ [普賢院の楼門]
普賢院では「西郷隆盛直筆の書」の見学や「仏舎利拝観」
そしてマニ車(摩尼車)を回す体験をする。
マニ車(108基): 摩尼車を回すと
「回した数の経を唱えた」ことになり、功徳が得られるとされている。

↑ [JR新大阪駅]
普賢院を離れバスに乗り込み、阪和自動車道を経て(岸和田SAに立ち寄る)
日本一高い(300m)ビル「あべのハルカス」を車窓から眺め
おおよそ3時間半でJR新大阪駅に着く。
今回のツア-は長いバス旅(三日間の走行距離635km)を伴ったが
ガイド゙嬢(南海バス)の豊富な知識と巧みなお話の連続で、
まったく疲れを感じない旅であった。
大阪駅でバスとの別れ際、
娘が、ガイドさんにお礼の言葉を交わしている姿が印象に残った・・・・。

熊本駅着が21:19分、その夜は娘宅に後泊とした。

 

********今回の旅で頂いた御朱印]********

 (平成30年・2018.10.16日追記)

コメント (2)

四国の山旅②11月11日(土)

2017年11月14日 23時59分24秒 | 旅行

四国の山旅(神南山・世田山・笠松山)と同窓会出席

[11月11日(土)・ 晴れ]  世田山(今治市・339m)~笠松山(今治市・357m)      

(行程) JR松山駅(発6:42)→伊予三芳駅(着8:20)→ (タクシ-)
     世田薬師寺(梅檀寺)登山口(発8:35)→ 世田山頂上(着10:00)→
         笠松山頂上(着10:40)→野々瀬下登山口(着11:35)→朝倉公民館→(タクシ-)
     JR伊予冨田駅(発)12:47→松山駅(着14:09)→ 道後温泉別館で入湯
     →同窓会出席(松山「いずみ」18:00~20:00)→道後温泉

三芳駅~世田薬師寺登山口の地図  ←(Googleマップ )

↑ [「分県登山ガイド」より転載]

↑ [世田薬師寺登山口]
栴檀寺(せんだんじ)の境内を通って山道に入る。
境内手前の道路側の案内板には世田山頂上まで1.5kmと記されている。

↑ [灌木の中の緩やかな登路]
世田山遊歩道(えひめ森林浴八十八ケ所の75番目)として良く整備されている。

↑ [開放的な登路に変わる]
登路沿いには登山者を見守るかのようにして、赤い前掛けのお地蔵さんが
次々とお出ましになる。
足元の土は真砂土(花崗岩が風化した砂)? と思われる。

↑ [登路から眺める岩峰]
方角としては登山口側(東)と思われるが多分、名のある岩峰であろう・・・

↑ [道標には「石切り 不動明王」と記されている]
(写真:本人了解済)
写真の人は、製作者で自分の趣味で個人的な取り組みで
取組みから10年以上経過しているがまだ進行中とのこと。

「何処から来られましたか・・」と聞かれ 「熊本」と応えると、
写真の人は「私も23歳頃熊本市内で仕事していた・・・」と話され、
旧市役所庁舎の建物や熊本地震に関する・・等々について聞かれ、会話が弾んだ。

旧熊本庁舎のイメ-ジが私自身に浮かんで来ないため
3泊4日の旅行を終え、帰宅後ネット検索でヒットした写真が次なるもので、
改めて昔の手取本町旧庁舎の姿を思い出すこととなった。



↑ [ 熊本市役所 旧庁舎]

旧庁舎は大正12年に竣工し、昭和56年に現庁舎に建て替わった。
昭和56年といえば拙者36歳で熊本通信部勤務の時代である。
熊本市のあゆみ (←参考資料:熊本市2012年姿勢市勢要覧より)


↑ [登路から離れ「世田薬師奥之院」へ立ち寄る]
「百八煩悩」と同じく108の石段があるらしいので数を呼称して踏んだが、
私の煩悩はそれ以上に石段の数があったようである(笑)・・・

↑ [栴檀寺本堂(奥の院)]
本堂の右隣は世田山城主の墓所となり幾つもの墓石が並ぶ、
墓所の前を通り右に延びる方向に世田山頂上への道標が建っていたが
そのル-トは選ばす、石段を再び下って登路に戻る。

↑ [登路沿いの岩崖から笠松山 (正面のピ-ク)を望む]
世田薬師奥之院を離れ、ジダが繁殖する登路は傾斜を増して
灌木の中をジグザクに登る。
稜線の肩に上がると、後は明るい稜線主尾根道を快適に歩く。
登路沿いにそり立つ岩山が現れる・・・、
冒険意欲を誘う場面の出現である、この岩山によじ登ることとした。

↑ [岩山の山頂からの眺め: 海側(東) ]
眼下の登山口、そして田園の中を走るJR予讃線と今治小松自動車道線も見える。
その先に広がる海原は燧灘(ひふちなだ)であろう?
森のピ-ク(前景右)は登り上げた稜線の肩の位置と思われ。

↑ [岩山の山頂からの眺め・ 山側(西) ]
中景に今治カントリ-クラブが見え、遠景の山並みは
楢原山や高縄山方角かと思われる。
手前の尾根筋が歩いた登路

↑ [登路沿いに建つ案内板であるが]
これが山頂標識であるのかどうかは私には分からないが
多分ここは世田山城跡であろうと推定した。

↑ [岩棚の展望台]
先ほどの岩山は、基部からよじ登ったのであるが
案内板の前の大岩を左に回り込むと簡単に岩山の頭(岩棚)
に出る事が出来たのである。

↑ [屋根のある展望所からの眺め (東側)]
この島の名前は ?

↑ [屋根のある展望所からの眺め (北側)]
今治市街としまなみ海道・来島海峡大橋

↑ [登路沿いの大岩から望む笠松山
世田山の「屋根のある展望所」を離れ
幾つかの小ピ-クや階段を踏み、縦走路を北進・・・・
登路の法面に露頭する大岩に上がり笠松山の雄姿を望む。

↑ [尾根腹を懸けのぼる階段]
鞍部に下る途中から見る長い階段…圧巻

↑ [まさに天空への階段 だぁ~!

↑ [天空の階段途中から縦走路の尾根を振り返る]
右端のピ-クには「屋根付きの展望所」の屋根の部分が見える。

↑ [笠松山頂上にて]
天空の階段から15分で頂上に至る。
笠松山から世田山に向かわれる夫婦と笠松山頂上直下で出会う。
石鎚山の方角を尋ねると、縦走路を歩いてきた背後(南)に見えるのであるが
今日は曇って見えないとのこと・・・
積極的な奥様で頂上まで引き返され、景色の案内や次の様な事を話された。
①子供が別府の大学にいるので今年の春は子供と久住山に登った。
②最近の事であるが、知り合いのベテラン登山者(今治市)がグル-プ
登山(東赤石山)中に行方不明となりいまだ不明とのこと。
③観音堂の中に収納されている「登山者メモ帳」に記帳を勧めら
れ、「根子岳山窓」の名で走り書きをした。

↑ [観音堂の中に収納されている登山者のメモ帳]
 

↑ [笠松観音堂]

↑ [頂上直下の広場に建っ案内板]
昔、笠の形の松があったとの事

↑ [広場から眺める山・海・島の景色]
世田山の展望岩棚から眺めた島であるが、
海の紺碧と島の緑が印象的であったので再度、画像アップ。
(帰宅後、ネットで調べると島名は桜井沖に浮かぶ無人島の「平市島・へいちじま」と思われる)

↑ [笠松山からの下りの登路を振り返る]

↑ [「歴史のこみち」と命名された遊歩道が整備されている]

↑ [山頂から35分で野々瀬下登山口に着く]

↑ [今治市朝倉支所付近から眺めた笠松山]

↑ [JR伊予冨田駅]
朝倉公民館前からタク-シで冨田駅に移動して
同窓会開催場所の松山へ汽車の旅。

 

四国学園・専門部同窓会      

前回の出席は福山市で開催された2009年(平成21年)であるから
実に8年振りである。
その間に高松→沖縄→鹿児島→下関と開催されているがいずれも欠席しているので
みんなの顔を見るのが楽しみである。

登山の汗を道後温泉別館で流し(同窓生の北ちゃんと湯船の中で偶然にも出会う)、
その後、電車に乗り大街道で下車。
スマホの地図をたよりに歩行町の「いづみ」に着く。
今回は出席者が少ない(18人中8名)・・・・・
九州の人気役者三人(窄さん熊さん・和夫君)の顔も見えない・・・

現役を卒業した皆であるがセカンドキャリアで頑張っている者
(JA・道の駅・関連会社・会社の社長)もいるが、
体調不良の人(私を含めて)も段々と目立ってきたようである。

そんな話題で「宇和島の郷土料理」を味わうって、食べる暇も無く
2時間の団欒はあっという間にお開きとなった。

↑ [同伴の奥様達と恩師を囲んで]

↑ [恩師とともに]
避難所(熊本地震・本震・平成28年4月16日1:25)で寝泊まりしていた時、
安否の電話(4月17日20:59)を恩師からいただき
感無量の思いであった。
その時の気持ちと謝意をつたえた。

↑ [沖縄角力(おきなわすもう)の達人と昔を思い出して]
学園寮の部屋で沖縄角力の組手を教わった彼と(私は柔道)
今日この日に再び再現して当時を偲ぶ・・・ 
(彼は現在、沖縄角力協会・理事の役職)

↑ [今回は二次会なしで、ここで散会となった]
楽しみにしていた二次会であったが・・・・
吉田類の酒場放浪記ではないが私は「 もう一軒」
「夜明けのブル-ス(五木ひろし)」の 「♪ ここは松山二番町の店 ♪」
ならぬ 「松山一番町の店・ラウンジ縁樹」に立ち寄る。

帰りの、電車(道後温泉行き)で偶然にも「なべちゃん」と出会う。
思いでを刻む同窓会・次回はオリンピンクの年、
平成33年九州ブロックが担当
開催地に宮崎市との声が上がっていたが、宮崎には
登りたい山が数々だ・・・・!!!

[11月12日(日)] 

 (行程) JR松山駅(発10:20)→八幡浜港(発12:45)→ 臼杵港(着15:10)→ 
      臼杵石仏→ 竹田→ 自宅(着17:40)

↑ [帰りの汽車の中から神南山を見る]
大洲駅を出てから捉えた、未登頂になった神南山
中腹に如法寺が佇む冨士山

↑ [出航後、八幡浜港を振り返る]

以下は、臼杵港を降りて立ち寄った二か所です。

↑ [龍原寺の山門と三重塔]
臼杵市のシンボルとなっている三重塔は江戸時代(1858年・安政5年)
創建されたもので内部には聖徳太子の像が安置されているとのこと

↑ [国宝 臼杵石仏]

↑ [深田の地に佇む石仏群の杜]

↑ [昭和4年12月に臼杵を訪れて詠んだ句との事]

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(2017.12.16 追記)

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四国の山旅①11月9日(木)

2017年11月14日 20時50分29秒 | 旅行

 四国の山旅(神南山・世田山・笠松山)と同窓会出席

今回の同窓会は四国ブロツクが担当で、松山市で開催される。
同窓会の案内状が来れば、先ずは「どの山に登ろうか・・・」
が私の同窓会スタイルである。

愛媛なら石鎚山が本命であろうが、私の今の体力(投薬治療中)では
無理であろう・・・・。
石鎚山なら2回経験しているので山行プランは立て易い・・・・。

しかし、石鎚山以外の山であれば初めての山となるので
山選定に気をもむ始末となった。

あれこれとネット情報で調べたが最終的には「分県登山ガイド・愛媛県の山」
を購入しその中から選定した。

鉄道沿線に近くて、登路が明確な山として
神南山(大洲市)・世田山(西条市)・笠松山(今治市)を決定した。

それに伴い各市役所から山資料等の観光パンフを郵送してもらった。
中でも今治市から頂いた「山歩きMAP」(がんばる地域活性化協議会連合体発行)
は携帯用に作成され価値あるものであった。

それに比べ、私の市は「世界ジオパ-ク」に認定されているのにも係わらず
そんな資料等には関心が無さすぎるようである・・・(苦笑)

[平成29年11月9日(木) ・ 晴れ]

(行程) 自宅(発8:15)→臼杵港(着10:50)→八幡浜港(着13:55)→(徒歩) 
      JR八幡浜駅(発14:42)→大洲駅(着15:00)
      市内観光(如法寺・臥龍山荘・赤煉瓦館・大洲城) 

1.如法寺 ←(大洲市HP)

 [大洲藩主・加藤家の菩提寺]

 [如法寺の山門 ・ 山号は冨士山(とみすやま)]

 [如法寺仏殿にて]
仏殿と禅堂を兼ねた珍しい形式の建造物(国の重要文化財指定)とのこと、
シャッタ-を押していただいたのは若い禅僧の方で
本堂は新しくなったと話された。

 [如法寺仏殿での、在りし日(1972年・昭和47年)の写真]
四国学園・専門部の教程で座禅の修行体験、前列右2番目が拙者で27歳。
昭和47年は「沖縄の復帰」・「田中角栄総理大臣誕生」の年で
日本列島改造ブ-ムの時代であった。

2.臥龍山荘  ←(臥龍山荘公式サイト)
  明治期の豪商・新谷出身河内寅次郎が木蝋(もくろう)貿易で成功し
 明治30年頃から10年余りかけて築造した別荘( 臥龍山荘公式サイトより)
   *「新谷」はあした登る神南山の登山口となる地区である 。

 [対岸(肱川の河原)より望む不老庵

 [庭園の奥に佇む不老庵

 [船に見立てられて作られた不老庵
眼下には肱川が流れる

3.赤煉瓦館  ←(大洲市HP)

 [大洲商業銀行の本店として明治34年に建築された]
街歩きの中でひときわ目立つ建物で、煉瓦の色つやは新品のような色彩を放ち、
いにしえの繁栄を感じさせる雰囲気があった。

 

4. 大洲城 ←(大洲城公式サイト)

 [大洲城から見渡す肱川と夕日に照る大洲市街]
臥龍山荘を離れ肱川の河畔を辿り25分位の早足で大洲城に入ったが
城への坂道で「股の付け根」付近に「こわばり」が走る。
今日は重い物(特に土産用の阿蘇高菜漬け)を背負って随分歩いたからなあ~・・・。

 

1110()・ 曇りのち晴れ]  神南山 (伊予大洲市・654m)         

(行程) JR大洲駅(6:42)→ 新谷駅(6:48)→(徒歩) 神南山・稲荷山公園登山口
       (7:42~朝食~発8:35) →林道途中で登高断念し折り返す(8:50)
     JR新谷駅(発10:25)→松山駅(着11:51)→市内観光(道後温泉本館・石手寺) 

 *JR新谷駅から登山口(稲荷山公園)までの地図 ←(Googleマップ )

↑ 総特寺境内入口]
境内を散策後、境内入口に戻り、入口手前50m位から
右に入る里道に取り付く。登路はすぐに石段の山道となる。

 

↑ [石段の登りは稲荷山公園駐車場まで長々と続く]

↑ [稲荷山公園]
散策路に設置されたテ-ブルでゆっくりと朝食・・・。
今から始まる紅葉の色づきであるが、
広い公園一帯にはカエデの大木が林立ちし、
最盛期には見事な紅葉ガ見られる事だろうと想像された。

↑ [林道入り口に建つ案内板]

↑ [神南山登山のチラシ: 大洲市役所より入手]
新谷公民館が平成29.11.23日実施する登山会のコ-ス案内であるが、
今回私は黄線のル-トをピストンすることとし、
所要時間は片道2時間30分(休憩を含めて)の歩きとプランした。
公民館の方には電話にて2度にわたり下調べの問い合わせをしたが
誠に親切丁寧な説明にコ-ス概要の知識を深める次第となった。(感謝御礼)

↑ [緩やかな林道であるがここで登高断念]
昨日の歩きで股の付け根に「こわばり」があった足であるが、
今朝はロキソン湿布テ-プで改善していたのであるが矢張り違和感がある。
加えて、駅の貸ロッカ-に預ける予定の手荷物(阿蘇高菜漬け)を背負っている
駅は無人駅でロッカ-無(下調べに不注意・反省)

登りは良いが、帰りの下りの事を思えば心配が頭をよぎる・・・
足が悪化すれば明日の世田山~笠松山縦走までダメになる・・・
登頂断念・苦労した下調べなのに・・・残念至極 !!

↑  [新谷駅舎から望む神南山]
心残りが込み上がる、頂上からの展望が楽しみだったのに・・・
駅で会った老紳士、稲荷山公園のカエデの由来を話される。
「大洲藩公が京都高雄の苗木を持ち帰り植えたもので、
いろは楓の群生地」とのこと。

↑ [道後温泉本館]
温泉に浸かった後は、遅い時間での昼食を道後商店街・
ハイカラ通りのうなぎ屋で舌鼓を打つ。

↑ [51番札所・石手寺
境内は 「同行二人」と記されたすげ笠に白装束姿のお遍路さんが
団体でお参りされていて、その賑わいに酔い、
私自身もお遍路の一抹を体験したような気分になった。

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(2017.12.16 追記)、

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千巌山   3月26日(土)

2016年03月29日 23時31分09秒 | 旅行

                                      千巌山(162m)        
                               (ドライブで立ち寄った頂き)

                       曇り

(行程) 3/26日: 自宅(発11:00)→天草・千巌山→小松屋渚館(着17:00)
         3/27日: 小松屋渚館(発10:00)→天草酒造(天草市新和町)→丸尾焼工房→祇園橋
           →道の駅・宇城彩館(17:30) 子供宅(熊本市内)で夕食後、自宅着(22:30)

           千巌山観光案内←(天草宝島観光協会のHP)

 [山頂直下の駐車場に建つ案内板]

 [頂上からの展望: 画面中央に松島橋(五号橋)]

[遊歩道沿いの露岩群]

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(二日目・3月27日)

[投宿「小松屋渚館」の露天風呂からの眺望]

[ 露天風呂から望む「次郎丸嶽」 ]

[祇園橋: 日本百名橋]

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