以前のブログにどうゆう訳か繋がらなくなって新しく開設のブログで5回目かと思います。
昭和11年生まれの私が思い出すがままに書き殴っています!
さて、学校へ行けるようになって今まで居なかった子供の友達と遊べることが楽しく、これもまた戦争ごっこだった。学校では学芸会も終わり夏だったのか秋だったのか…学校え行こうとした朝、突然胸が痛み出し動けなくなった、父におんぶして病院へ、しかし、そこでは治療出来ず大きい病院へ行くことになり大きな街である「上敷香」の病院で手術することになる。昭和18年のことである、後で考えるとこの時の家庭は母は昭和19年生まれの弟を身ごもっており、しかも汽車で行かなければならない遠い病院、父は仕事と大変だったと思う。しかし、その事を思うことの出来ない一年坊主は天井の高く広い病室に一人で身動きできず、大声で泣いていたことを記憶にしている、膿胸の手術で寝たままで定期的に膿のたまったトレ-を取りに看護婦さんが来る以外寝たままで一人、ラジオもなく本を読むこともできず横たわっているのみ、大声で泣いていたこといがい病院での記憶はない。
昭和11年生まれの私が思い出すがままに書き殴っています!
さて、学校へ行けるようになって今まで居なかった子供の友達と遊べることが楽しく、これもまた戦争ごっこだった。学校では学芸会も終わり夏だったのか秋だったのか…学校え行こうとした朝、突然胸が痛み出し動けなくなった、父におんぶして病院へ、しかし、そこでは治療出来ず大きい病院へ行くことになり大きな街である「上敷香」の病院で手術することになる。昭和18年のことである、後で考えるとこの時の家庭は母は昭和19年生まれの弟を身ごもっており、しかも汽車で行かなければならない遠い病院、父は仕事と大変だったと思う。しかし、その事を思うことの出来ない一年坊主は天井の高く広い病室に一人で身動きできず、大声で泣いていたことを記憶にしている、膿胸の手術で寝たままで定期的に膿のたまったトレ-を取りに看護婦さんが来る以外寝たままで一人、ラジオもなく本を読むこともできず横たわっているのみ、大声で泣いていたこといがい病院での記憶はない。
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