千歳川と石狩川の合流点より発信…

水彩画と近況 思い出

  コラ-ジュ

2013-04-30 09:01:55 | 終戦
 奈井江が町になったのは昭和20何年だったか、この頃で農家の街で北勝太郎と言う参議院議員がいた、その後北次郎衆議院議員も、しかし彼は心臓麻痺で急死した。北牧場の一族で町では有名人だった。
 この一族の北良二が同級生で同じ学校へかよっていた後年町長になって現在も在職中でないのかな…
代々農家からの町長で一度街から当選したことがあった、呉服やさんだった。今の奈井江はほとんどいったことがない。
 野球部ではキャッア-やっていたのでピッチャ-の三浦と尾崎のことが思い出される~ね
三浦はコントロ-ルが良く技巧派でキャッチングしやすかった、尾崎はスピドはあるがどこへ来るか分からないのでキャッチングしにくかった~ね、後年ノンプロでセンタ-やっているのを新聞で知ってやっぱりな~と思ったね !







                   

コラ-ジュ廊下展  公民館

2013-04-29 13:21:31 | 終戦
 ふと思い出した、当時の向かいの巡査駐在所へ遊びに行った時の記憶と樺太の時の郵便局の官舎の間取りが同じことに後日気がついた。札幌の森林公園にある建物の歴史の中にも同じ間取りの建物があった、当時の官舎は同じ間取りだったのだ。駐在所は玄関の右側は事務所になっていたが、郵便局の官舎のほうは右側は座敷になっていた、左側は3畳間か4畳半でここで友達と戦闘機の絵を描いたりして遊んで居た。






              

  コラ-ジュ

2013-04-28 12:02:33 | 終戦
 戦後直ぐは、まだ色々なことで戦前を引きずっていて先生でさへそうだった。そんな中なんと言っても野球だったし大人も子供も野球は盛んだった。一方歌謡曲も美空ひばりがちびっ子スタ-になり子供達に取っては「悲しい口笛」など学校の講堂でゴザを敷き映画が上映され、学校全員で鑑賞した。
 軍歌も歌われていた「同期の桜」「月月火水木金金」「海ゆかば」若獅子の歌」 ”赤い血潮の予科練の七つボタンは桜に錨……」など 東海林太郎、藤山一郎、デック.ミレ、奈良光枝、高峰美枝子など戦前からの歌手が活躍していた。東京ブギウギが敗戦を<吹き飛ばす賑やかさはやったね~/font>





                  

終戦

2013-04-27 12:09:45 | 終戦
 思い出すまま綴っていたら次から次へと思い出されてくるのね
今まであまり思い出そうとわしていなかったせいもあるかもね。
 そんなことで、当時は家庭にはあまりラジオも無かったがプロ野球の情報は詳しかった。電気屋の西田くんの店でよく聞いていた川上、青田、大下、別所、別当などの時代…懐かしい                                 食べ物はまともな物は食べていないが、力仕事や遊びは夢中でひょろひゅろして、やせっぽだけれ腰は強かった様に思う。
お祭りにお寺の土俵でやる相撲ではたいてい勝っていた、3人抜き5人抜きも勝ち抜いて、賞金を貰って家に上げていた(当時子供にも賞金出していた) 

コラ-ジュ廊下展  公民館 新20

2013-04-26 10:00:17 | 終戦
 4,5年生になると学校へ行く日が少しは多くなってきた、当時野球がはやりだして道具も満足に売ってないし売ってももちろん買えないなか、丸い石に布をぐるぐる巻きにしてボ-ルを作り垂木の切れっ端をバットにして三角ベ-スをやっていた。学校でも5年生になると野球部に入ったが、ズックのグロ-ブでそれも9人分がなく外野は素手で守って居た、バットも1本だけだった。でもユニホ-ムは6年生の9人だけできていた、5年生が6年生になるとレギュラ-にはお下がりを支給される、私は向かいの駐在の息子からのお下がりだったが、彼小さいので私が着ると”ちんちくりん”だった!  キャッチャ-だったけどね夢中でやっていた…
 だから妹たちを世話したり家の手伝いは辛いとは思っていなかった、むしろ俺がやらなければと思っていた。学校も楽しかったし学校も休まなければいけないことも自然の流れと受け流していた。ただ、学芸会で英語劇の時は練習で何日か休むと覚えきれないので戸惑ったね… 特別扱いはされなかったからね。