★★★ 伯 太 藩 (伯太陣屋) ★★★

伯太藩は、江戸時代和泉国泉郡伯太周辺を領有した藩。
藩庁は伯太陣屋(現:大阪府和泉市伯太町)
藩主:渡辺氏(譜代)

伯太陣屋絵図

2011-08-03 | 概要3

「泉州伯太陣屋之図絵」      「和泉国泉北郡伯太御陣屋跡」  「和泉国泉郡伯太元陣屋図面」
岸和田高校所蔵           大阪歴史博物館蔵         伯太町向山家文書

伯太藩陣屋は江戸時代、熊野街道(小栗街道)より山手で信太山丘陵の西斜面に位置し、南北約四百米、東西約六百米、約五万坪を占め、周囲には赤土の土塀がめぐらされていたと言う。「伯太元陣屋図面」でみると、小栗街道に平行して、大手門と搦手門があり、この二つの門の間を白壁の土塀が結んでいる。大手門の前には深さ約一間ほどの掘割が設けられ、石垣も組まれていたということである。
中央には藩士の屋敷を縦断して急勾配の道(大手坂)で、現在の信太山野外活動センターまでつづいていたらしい。当地の高台からの眺望は南は岸和田~泉州地域、北は大阪平野はじめ大阪湾を一望出来る。往時は小栗街道はじめ、紀州街道の人馬の動きまで望めた事だろう。この地に陣屋を構えた徳川幕府の地理的な大名政策を見るようである。
陣屋内の中心には、「御屋形」と呼ばれていた藩主邸兼政庁があり、その周囲を藩士の邸宅がとりまいていた。御屋形の位置は、「泉州伯太陣屋絵図」(立藩初期の図)では丸笠神社の南側に描かれ、「和泉国泉郡伯太元陣屋図面」(廃藩以降の図)では丸笠神社の西側、即ち現在「伯太営址碑」が建っている辺りに描かれている事から、基綱の時代から廃藩までの間に少なくとも一度は移動している様である。




【現航空写真・伯太町4丁目3番付近】
 

信太山丘陵の地形を最大限有効に活用した陣屋設計だ。高層の天守は無くとも三階立てほどの櫓立て御殿であれば、高層天守に及ばぬ眺望を確保出来たと推測できる。また、周りには数多くのため池を配置し、自然の強固な濠が出来上がっている事が現在の写真からも判断できる。
海抜50m内外とはいえ、湾岸平野に大きく張り出した信太山丘陵の西端の地に、北に放光池、平池、谷池、丸笠池を、南に前奈池から高津池に至る一郡の池を抱え、西には、熊野街道(小栗街道)沿いに掘割を備えていたという事であれば、陣屋敷地五万坪は、岸和田城(五万三千石)の敷地にも匹敵する広さであり、自然の池や谷を堀とする一城郭と見ることができる。





















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陣屋土塀

2011-08-03 | 概要3
赤土の陣屋土塀


陣屋の周囲をめぐらされていたと言う赤土の土塀。
旧藤沢会館(現在の野外活動センター)の東側に、陣屋最東部の土塀の形跡が
残っている。姿形は既に崩れているが、赤土の残骸が塀のあとである。
現在市道が整備され、近代的なコンクリート塀がなんとも対象的である。

 














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伯太藩札

2011-08-02 | 概要3
伯太藩 銀一匁 宝暦札

 



藩札というのは、江戸時代、各藩が発行し、藩内で流通させた不換紙幣で、金札、銀札、米札、銭札があった。藩札の発行については、幕府はできるだけ制限を加えたようであるが、幕府の力が衰えはじめると、その許可を得ず藩札を発行したので発行高が増大し藩札に対する信用は失墜し社会不安をもたらした。
伯太藩でも藩札を発行した。現存しているものとしては1755年(宝暦五)発行の銀札で、黒鳥村の黒川武右衛門が引受け人になっているものなどがある。徳川幕府が倒れ、明治政府が発足すると、これらの藩札処分に苦心したようだ。明治2年旧幕府の許可を得ずに発行した藩札と明治以降に発行した藩札は紙幣として認められない旨の布告が出た。そして伯太藩にもその消去方を命じたのである。
さらに明治四年の廃藩置県の後、政府は新貨幣との交換を布告しそれに要する準備金を旧伯太藩に負担させた。そして翌年より藩札の交換を行った。明治十二年には全ての伯太藩札を消去したとして以降は無効になった。











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