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オランダ流の 発想

2010-05-25 01:37:29 | 日記

オランダ流の発想 長坂寿久さんに聞く
           (日経新聞、H22.2.25夕刊)・・に思う

☆ 「 市民、NPO通じ 政治参加 」
☆ 「 国 ・ 私益を超え 人類愛 」

☆著者 : 長坂寿久(ながさか・としひさ)氏
 1942年神奈川県生まれ。拓殖大教授。65年明治大卒、
 日本貿易振興会(当時)に入り、シドニー、ニューヨーク、アム
 ステルダムに駐在。99年から現職。
 2009年に長年のオランダ研究の功績により同国から
                     「蘭日賞」受賞。
 著書に『オランダモデル』『オランダを知るための60章」など。

☆ 『 異質なものへの 寛容さと平等主義が
                歴史によってはぐくまれた 』

 オランダと言えば、日本では江戸時代の長崎・出島が連想される
 ・・長坂寿久さんは
 日本貿易振興会(現日本貿易振興機構)のアムステルダム所長と
して1993年から約4年間、オランダに駐在。
 かつて生活した米国とは異なる社会システムに注目し、本格的な
研究を始めた。(筆者注:米国はキリスト教徒の多い国)

 『自分に迷惑が及ばない限り、あなたは何をしてもいいというよ
うな寛容さと黙認の文化がある国 だと感じました。

 これは17世紀のオランダの黄金時代に根っこが形成され
 当時、覇権国家となって商業が発展、アムステルダムは欧州の中
継貿易センターになりました。

 人種や宗教が異なる多様な人々が去来した。
 経済成長を遂げるには、異質であっても自分たちに意味のある
人々を受け入れる必要があり、寛容性の素地が出来上がっていった
のです」(筆者注:多様性ある人々の 『 存在の是認 』
  その多様性を持つ人々の考え方・行為への寛容さ。
  異なる人種や宗教。
     異質さに 『 意味がある 』 と捉え、受け入れる)

 オランダの国土は
 ほぼ九州に匹敵・・4分の1は海面下
 堤防がなければ国土の65%が水で覆われる

 そこから独特の平等主義も生まれた
 『堤防の前ではみんな平等』 という思想
 堤防は全員が協力、対処しなければ守れない
 一か所でも決壊すれば国は水没する

 そこでは
  上下関係やヒエラルキー(ピラミッド型の序列)は『不要』

 何百年にもわたる堤防を守る行動が
               対等・平等主義を定着させた
 (筆者注:現在、地球は、このオランダと同じ様な状況となって
  いるCO2問題も地球上の人々・全員が対処しなければならない
  人類存続の課題であり、また
  この他にもこれから対処しなければならない同様の課題が
  累積している状況。
  この様な時、上下関係や序列・ヒエラルキーは
               『 不要 』 と言っている
  小生の日記
  「近代の最先端科学は『キリスト教の間違い』を証明した」
  には、キリスト教の教義・ヒエラルキーの教義は
  科学部門でも否定され、科学の発達の阻害要因となっている
  事が証明されていると)

☆ 『 政府と企業とNPOが対等な立場で話し合う 』
 オランダは
 非営利組織(NPO)が欧米の中でもとくに発達した社会
 市民はNPOを通じて日常的に政治に注文をつけている

 「政策決定にかかわるNPOの力には驚きます。
  政府は何か法律を作る際には 検討作業の最初から、
 関係するNPOの代表をすべてと言っていいほど呼んで
 意見を聞く、審議会をつくる
 現場の市民の要求が次々と吸収され
 より実態に即した政策作りにつながる」

  (オランダ以外では)
  「市民の声は・・選挙の時しか反映されない
  政権は、主に産業界と相談して法案を作成
  この結果、企業の力は強まったが民意がないがしろにされた」

 長坂さんは政府、企業、NPOが対等な立場で政策決定に参加する
 仕組みを 「オランダモデル」 と名付けた。

 従来は政府と産業界が利害調整して
 法律などを作る「2セクターモデル」が戦後、どの国でも主流だ
 った

 『この国では全雇用者に占めるNPO関係者の比率は12%を超え、
 先進国の平均7%を大きく上回る、それを支える理念はパブリッ
 ク(公共)の利益
 国益や私益を超えた人類益、地球益を守ること
  それがNPOの役割であると認識されている
  だから尊敬もされています」・・以下、略
 (筆者注:キリスト教の教義は信じる者は救い、信じる者は自
  分たちの枠内に入れ、信じない者は切り捨てる、「異教徒は生
  かしておいてはならない」「(キリスト教の)神の義によって
 、人を誅してよい」である。
  この教義は間違っている。 『 変えなくてはならない 』 
  特に、地球の今をみると )


イエス・キリストに「 三位一体神 」の考えは無かった。

2010-05-24 03:39:51 | 日記
題 : イエス・キリストに、キリスト教の根本教義の一つである「三位
    一体神」の考えは、無かった。

☆ヨハネによる福音書の10・34~36に、下記の様に書かれている。
 10・34
 イエスは彼らに答えられた、
 「あなたがたの律法に、『わたしは言う、あなたがたは神々である』と
 書いてあるではないか。
  10・35
 神の言を託された人々が、神々といわれておるとすれば、
 (そして、聖典は無視できない)
 10・36
 それならば、父によって聖化されて世に遣わされてきたわたしが、
 「わたしは神の子である」と言ったからとて、
   どうして神を冒涜したと責められるのか。

 ・ これは、イエス・キリストが、神は一神ではなく神々(多神)の
 存在である。
  それは、貴方たちの聖典・律法に神々(多神)と書かれているでは
 ないか、だから、
  わたし(イエス・キリスト)は、神々・多神である神を冒涜している
 ことにはならない。
  つまり、
  『父なる神』から遣わされて来て「わたし(イエス・キリスト)は
 『神の子』である」と言っても
  神々・多神の存在の中において、
  神々・多神の冒涜にはならない(貴方達も私も、聖典・律法は無視
 することはできない)・・・と主張しているのである。
  イエス・キリストには、「三位一体神」などという考えはなかった。
  あくまで一つ一つの神々、つまり多神と考えていた。
  神々・多神の中に、『父なる神』や自分自身も『神の子』としても
 考えていた。
  貴方達の聖典にも書くかれていて、私も信じるその聖典に書れて
 いる神々・多神の存在を守らなければならない。
  その教義・論理を根拠として、「わたし(イエス・キリスト)は、
 神々・多神の冒涜をしていないと主張しているのである。
  貴方達の神を否定し、また排除して「神の子」と言っているのではな
 く、多神・神々の中の「神の子」と言っているのです、と言っている。

☆テルアビブ大学ゼエブ・ヘルツオグ考古学教授の言葉:
  「 (キリスト教の)『唯一の神』という一神教の概念についても、
  生まれたのは今から2000年余りさかのぼるに過ぎない 」
              (1999年10月3日、朝日新聞夕刊)
  キリスト教(ユダヤ教)が生まれた最初から
         「 一神教である 」としてきた世界の常識が
               間違いであったことが証明されている。

☆多様性や自由、人間の尊厳を重んじる世界へと突き進んで行け。
  そうすれば、人類が自由に人道的に生きていくという理想を揚げ、 
 夢に向かって羽ばたくことができる。  
      (キリスト教暗黒の裏面史 238~9頁 徳間文庫より)
 ・方向性は多神教にある事が確認され、
              それが正しい方向性だと分かってきた。    
  また、最近、次の確認をした。
  来日された前パリ・ソルボンヌ大学総長が上記考えと同じ発言を 
 されていた。
  多様性の中に人類の未来があり、各多様性さの中に神聖さがあり、
 オリジナリティがある・・・など。
  小生の日記、「近代の最先端科学は『 キリスト教の間違い 』を 
 証明したを、ご覧ください。

武力によらないで広まった宗教 (その2)

2010-05-23 00:46:17 | 日記
武力によらないで広まった宗教  (その2)

☆近代の開始とともに、
  宗教の権威は衰えまして、
  国が力を持っている。
  国家形成において、巧みであった民族が、
  世界史のリーダーになった訳です。
  国が、絶対的なものと思われましたけれども、
  今日になりますと、
  国々を超えた 一つの地球共同体というものを、
  皆が考えなきゃいけない所まで 来てると思うんです。
  何が起きても、
  地球の上で どこで何が起きても、
  すぐそれが地球の上の
  あらゆる国々、
  さらに
  その国々の 住民の生活に 
  すぐ影響が 及んで来る訳ですね。

  以前には、
  支配者が 非常に乱暴な 野蛮な行動 をしても、
  また、文明の回復という事が 可能だったもんです。
  つまり、
  その力の 及ばない範囲が ありましたから、
  それから 優れた文明の伝統を 取り入れまして 生かせばよか
  った。
  ところが、
  だんだん 世界が一つに なって来て、
  何か起きますと、今度はいっぺん破壊してしまったら もう取り返
  しがつかない。
  この危険はあるわけです。

  世界が一つになる場合に、
  異質的なものに対する 「 理解と寛容 」 という事。
  これが 絶対必要だ と思います。
            (1985年、昭和60年の発言、72歳)
 (霊鷲山りょうじゅせん・ラジギールで中村が礼拝する映像。
 「原始仏典の現代語訳をした中村は、2500年の時空を超えた。
 仏の声に耳を澄ますことでもあった」のナレーション。
          (1986年、昭和61年73歳とのテロップ)

☆仏教の教え というものは、
 この上に輝く 日月(じつげつ)の様な ものである。
 太陽や月が、
 あらゆる人を 照らすように、
 仏教の教える真理 というものは、
 あらゆる人に 明らかなものであり、
 あらゆる人を 照らすという 訳です。
 続けて、
 釈尊はこう言われました。
 もしも、
 自分が 人々を導くのであるとか、
 あるいは、この修行者の仲間が 私を頼っているとか思うならば、
 私が死ぬという事は大変なことであろう。
 しかし、
 私は 自分がみんなを導くなんて 思ったこともない。
 また、
 みんなが 自分を頼りにしているなどとも 思わなかった。
 (釈迦涅槃像クシナガラの映像)
 自分は、ただ、人々の依るべき真理、
 真の生き方というものを明らかにした、
 それだけなのだ。
 だから、
 なにも 自分が消えて亡くなったからといって 嘆き悲しむな。
 およそ この世の物で、
 いつまでも破れないで、存続し続けるものは なにもない。
 いつかは 破れ 消え失せる ものである。
 その道理を 私は、お前たちに今まで説いて来たではないか。
 ただ、
 私は そこにある 「 一貫した真理 」というもの、
 それを 解き明かして来た。
 だから
 「 それに頼れ 」、 この変転、常ない世の中では、
 まず 
 「 自分に頼るべき 」 である。

 自分に頼るとは 
 どういう事であるか、
 自分は この場合にどうすべきか という事を、
 その場合、その場合に考える事 でしょう。
 その場合、
 何を 判断決定の基準に するのか。
 それは
 『 人間としての道 』
 『 法(のり) 』
 インドの言葉で言うと 『 ダルマ 』 と呼ばれるものです。
 これを 『 法 』 と訳しますが、
 この 人間の理法 というもの、
 これに頼ること。

 『 自己に頼れ、法に頼れ 』 。

 これが、
 釈尊の 最後の教え でありました。


武力によらないで広まった宗教 (その1)

2010-05-22 02:01:18 | 日記
武力によらないで広まった宗教 (その1)
 

・・・『 仏教の本質 』  哲学者 : 中村 元(なかむら はじめ)
                  (You Tube)の談話・対談を採録

 ・中村 元 : 東京大学 インド哲学科、
   1912年(大正元年)島根県生まれ、1998年86歳没、
   東洋思想の世界的権威、
   昭和52年文化勲章受章
   (仏教研究の業績と比較思想という学問分野を確立し、膨大な 
   著作を世に送り出し、晩年、世界平和に対する発言。
   原始仏典を現代語に訳し、研究領域は西洋哲学、キリスト教に
   及んだ・・とのナレーション)

 ・聞き手 : 臨床心理学者 河合隼雄

☆学ぶことの少ない人は、 牛の様に老いる。
 かれの肉は増えるが、 智恵は増えない。  仏典(ダンマパダ)

☆「 相手に対する寛容の精神 」 というものが大事です。
  その点で仏教は、 「 無理に暴力・武力を用いて人に強いる 」 
 という事がありませんでした。
  昔は、 宗教が違うという事になると、「 必ず武力による闘争 」
 と裏腹になっておりました。

  人類の歴史において、多くの宗教が現われたわけですけれど、
 「 武力に依らないで 説得だけによって 広まったのは仏教だけ 」
 です。
 これは、西洋の宗教学者も 認めております。

  こういう考え方が、われわれの祖先の中でも 生きていたと思います。
  聖徳太子の憲法なんかにも はっきり出ております。
  現在でも、これは 「 大切な心がけ 」 じゃないでしょうか。

☆インド全体が ヨーロッパ全体と ほぼ同じなんです。
  文明の歴史においても、 広さにおいても、 人口においても
  (『インドこころの旅、ブッダ最後の旅路をゆく。
                    昭和61年放送よりの言葉)

☆(ナーランダ大学跡の映像で、 「 誰にも分かりやすく仏教を語る 
 中村さん 」 とのナレーションが )
  これがインドですよ。
  まるで石ころのように転がっている、
  どれひとつとっても 日本の国宝より古いんですからね。

☆人間の体は、王様の飾りたてた車のように、やがては朽ちてしまう。
  けれども、
  人から人に 伝えられる 「 真(まこと)の法(のり) 」は
  いつまでも輝く。
  人から人に 真理が伝えられる 訳でございましょう。
  それは 永遠の価値を持っている という意味なんでしょう。
  本当の自己というのは どういうものか。
  誰でも 人間は、どこかの場所で、いつかの時点で生まれて来た訳で
 す。
  そして、 必ず、両親があった訳ですね。
  それから、育ててくれる人があった、 
  助けてくれる人があった。
  その助けてくれた人の数というのは
  無数でございます。
  人間だけじゃなくて、山川草木まわりのものが、
  何か関係を持っている。
  遠く考えますと、
  宇宙の彼方から、例えば 太陽が 光線を送ってくる。
  そうすると、
  その太陽の恩恵も 受けているわけです。
  宇宙にある如何なるものも、 
  孤立したものでは無いという思想。
  宇宙とつながりがある訳です。
  その繋がり方が、 
  めいめい みんな 違う訳です。

  だから 
  個々の自己は、
  非常に微々たるものと 
  考えるかもしれません けれど、
  実は、
  その内には 偉大なものを秘めている 訳です。
  ですから、
  その偉大なものを 受けていることを 自覚すれば、 
  そこで
  自分の生きる道は どうかという事が、
  おのずから明らかになって 実現されるという事に なるんじゃな 
  いかと思うんですが。
                      (その2へ つづく)


仏教の 今日的、未来的な 意義

2010-05-20 03:37:32 | 日記
題 : 仏教の今日的、未来的な意義

    自己を愛する者は他人を傷付けてはならぬ。 

      前田專學 東京大学卒、東方研究会理事長東方学院長
                            との対話から
            (出典:日本経済新聞抜粋 平成21年7月2日)

 『 すべての者は暴力におびえ、
                 すべての者は死をおそれる。
      己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。
                  殺さしめてはならぬ 』
                     仏典 : ダンマパダ より
    ・・・(前略)・・・
 自己中心的で我執の強い人は、
           他人の立場に立って考えることができない。
                 他人の立場にたって考えることが大切。
    ・・・(中略)・・・
 我執の強い人ほど
        自分は他人から独立した、
             隔絶した存在であるという風に
                          考えがちである。
 しかし、
    隔絶した〈個〉というものはあり得ない。
 仏教では、
    無数に働いている原因・条件の因果の網が
           われわれの生を支配し、
               人間存在はすべて目に見えない
                    つながりの内にあると考える。
     ・・・(中略)・・・
 他人から切り離された個人というものはフィクションにすぎない。  
 日本の教育は、このような仏教思想を排し、西洋的な自我の確立をよしと
してきた。
 昨年の秋葉原の無差別殺傷事件に代表されるような、自分勝手な理屈にと
りつかれた忌むべき犯罪の横行する社会状況を生んでいるのではないだろう
か。
    ・・・(中略)・・・
 ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、仏教の代表的考え方の一つである
『無我説』こそ道徳的に価値高い重要な教義であると言い。
 それに対し西洋人は、考えている〈我(エゴ)〉を、我々の感情、観念、
記憶、意思を意味し信頼できるものとしているが、
 仏教は、反対に『 西洋で〈我〉と言っているものは、ことごとく偽りで
ある 』としている。
 仏教は、〈我〉というものを、人間の肉体的・精神的経験によってつくら
れた感覚・衝動・観念のほんの仮に結ばれた集合体に過ぎないと考える。
 つまり、西洋は、〈我〉とか〈自我〉とを、実在する最も信ずべきよりど
ころと信じている。 
 仏教は、そういう〈自我〉は幻影、夢、幻のごときものであるとする。
 ハーンは、西洋に根強く見られる思想を取り上げて「 これが、いかに多
くの人類の不幸を引き起こしたかを記している 」 
 「 西洋流の永遠不滅の自我を認めてゆけば、性格、階級、民族の差別を
認めない仏教(無我の立場に立つ仏教)と大きな隔たりがでてくる。
 自我というものがあったら、慈悲というような考え方は生まれて来ないし、
相手の立場に立つという事もできない 」
 「 一時期、自我の確立などと言われたが、その行き着くところは人類の
滅亡以外の何ものでもないのではないか 」
 「 自我を張り上げている限り、その先には紛争や戦争以外の 何ものも
起こらない 」
 「 義にして妬むもの、といわれる神を戴く西洋の宗教に由来する、永遠
不滅の自我という観念によっては、罪は贖うことができず、罰は切り捨てが
たいという不寛容の思想が導かれる 」
 ハーンは、これら西洋の観念を「 近代、および、これからますます進歩
する 未来の人類の道では、お払い箱になる 」 と。
 この様な西洋的な観念が、一日も早く衰微し、明るい結果を招くことが望
まれる。でなければ、本当の意味の寛容の精神など生まれるわけがないし、
世界愛の目覚めも起こらない。  
     ・・・(後略)・・・
 (我 注記) :  西洋哲学の多くが、キリスト教の影響を大いに受け
ているが、ニーチェは 『 キリスト教は邪教です 』 という著作を残し
ている。
  また、ハイデガーは、 『 もし10年前に この様な素晴らしい仏教
の聖者が 日本に居た事を知っていたら、 自分は、ギリシャ・ラテン語(キ
リスト教:筆者注)の勉強もしなかった。 日本語を学び、仏教聖者の教え
を知って、世界中に広める事をしたであろう。だが、遅かった 』の言葉も
ある。
 また、上記の前田專學氏は ハーンの作品 『 涅槃 』 の深い感銘を
 「 100年も前にハーンが、仏教の今日的、未来的な意義を見出していた
のに驚嘆する 」の言葉で吐露されている。