題 : 「げに仏陀は 百劫(ひゃくごう)にも 会うこと難し」
ナレーション: 悟りを開いてから45年の間、苦しみの海に沈む
人々を導き続けた仏陀。
病と如何に向き合い、老いをどう受け入れ、そして、
死にどう臨むのか、仏陀は、最後の旅で身をもって示し
ました。
仏陀の遺体は、クシナガラで荼毘にふされました。
その遺骨は、仏陀にゆかりの深い8ヶ所に分骨され、
それぞれストゥーパに納められました。
大パリニッバーナ経は、この様に締めくくられていま
す。
その遺功によって、
この豊かな大地は、
最上の供養物をもって飾られているのである。
この様に、
この眼のある人(=ブッダ)・仏陀の遺骨は、
よく崇敬され、
種々に、
いとも良く崇敬されている。
最上の人々によって、
この様に供養されている、
合掌して、
彼を礼拝せよ。
「 げにブッダは
百劫(ひゃくごう)にも
会うこと難し 」
(完)
(参 考)五百塵点劫: (ごひゃくじんてんごう)とは、法華経
如来寿量品で、釈迦の成道の久遠をたとえた語である。
正しくは五百億塵点劫である。
法華経の如来寿量品第16に、「今の釈迦牟尼仏は、釈
氏の宮を出でて伽耶城を去ること遠からず、道場に座し
て阿耨多羅三藐三菩提を得たりと思えり。しかし、われ
は実に成仏してより已来(このかた)、無量無辺百千万
億那由他劫なり」とあり、続けて「たとえば、五百千万
億那由他阿僧祇の三千大千世界を、仮に人ありて抹(す)
りて微塵となし、東方五百千万億那由他阿僧祇の国を過
ぎて、すなわち一塵を下し、かくの如く、この微塵が尽
きんが如き(無くなるまで)、東に行くとしたら、この
諸々の世界の数を知ることを得べしや、不(いな)や」
と弥勒菩薩に質問している。
これは、化城喩品第7にも同様の記述がある。「たと
えば、三千大千世界のあらゆる地種を、仮に人ありて磨
(す)りて墨となし、東方の千の国土を過ぎて、乃ち一
点を下さん。大きさ微塵の如し」
この化城喩品のたとえ話を三千塵点劫と称される。こ
れに対し、寿量品(本門)の「五百千万億那由他阿僧祇」
を、五百(億)塵点劫と称して、化城喩品(迹門)の三
千塵点劫よりもはるかに長遠であるかが示されるように
なった。
法華経における釈迦成道は「われは実に成仏してより
已来(このかた)、無量無辺百千万億那由他劫なり」と
説いており、経文の記述に素直に従うならば、この五百
塵点劫はあくまでもたとえ話として出されただけであっ
て、釈迦が成道した時ではない。また化城喩品の三千塵
点劫も、たとえ話として持ち出された話に過ぎない。
しかし日蓮は『釈迦御所領御書』などで、「過去五百
塵点劫より、このかた、この娑婆世界は釈迦菩薩の御進
退の国土なり」などと、五百塵点劫の言葉に開近顕遠の
意味を持たせたことから、釈迦が本当に覚った時と解釈
されるようになった。
なお一般的に、釈迦はインドで生まれ菩提樹下で成道
したとされる。これを伽耶始成、また始成正覚というが、
法華経においては、釈迦はそのようなインド応誕の仏で
はなく、本当は遠い過去に成道していた、と打ち明ける。
これを久遠実成をという。(Wikipediaより)
字幕:NHK 第一集 ブッダ最後の旅 インド
語り:高橋美鈴
朗読:長谷川勝彦
資料提供:『ブッダ最後の旅」中村元訳
増上寺
文芸春秋
中本徳豊
ディレクター:正岡裕之
制作総括: 山本辰也
菊池正浩
ナレーション: 悟りを開いてから45年の間、苦しみの海に沈む
人々を導き続けた仏陀。
病と如何に向き合い、老いをどう受け入れ、そして、
死にどう臨むのか、仏陀は、最後の旅で身をもって示し
ました。
仏陀の遺体は、クシナガラで荼毘にふされました。
その遺骨は、仏陀にゆかりの深い8ヶ所に分骨され、
それぞれストゥーパに納められました。
大パリニッバーナ経は、この様に締めくくられていま
す。
その遺功によって、
この豊かな大地は、
最上の供養物をもって飾られているのである。
この様に、
この眼のある人(=ブッダ)・仏陀の遺骨は、
よく崇敬され、
種々に、
いとも良く崇敬されている。
最上の人々によって、
この様に供養されている、
合掌して、
彼を礼拝せよ。
「 げにブッダは
百劫(ひゃくごう)にも
会うこと難し 」
(完)
(参 考)五百塵点劫: (ごひゃくじんてんごう)とは、法華経
如来寿量品で、釈迦の成道の久遠をたとえた語である。
正しくは五百億塵点劫である。
法華経の如来寿量品第16に、「今の釈迦牟尼仏は、釈
氏の宮を出でて伽耶城を去ること遠からず、道場に座し
て阿耨多羅三藐三菩提を得たりと思えり。しかし、われ
は実に成仏してより已来(このかた)、無量無辺百千万
億那由他劫なり」とあり、続けて「たとえば、五百千万
億那由他阿僧祇の三千大千世界を、仮に人ありて抹(す)
りて微塵となし、東方五百千万億那由他阿僧祇の国を過
ぎて、すなわち一塵を下し、かくの如く、この微塵が尽
きんが如き(無くなるまで)、東に行くとしたら、この
諸々の世界の数を知ることを得べしや、不(いな)や」
と弥勒菩薩に質問している。
これは、化城喩品第7にも同様の記述がある。「たと
えば、三千大千世界のあらゆる地種を、仮に人ありて磨
(す)りて墨となし、東方の千の国土を過ぎて、乃ち一
点を下さん。大きさ微塵の如し」
この化城喩品のたとえ話を三千塵点劫と称される。こ
れに対し、寿量品(本門)の「五百千万億那由他阿僧祇」
を、五百(億)塵点劫と称して、化城喩品(迹門)の三
千塵点劫よりもはるかに長遠であるかが示されるように
なった。
法華経における釈迦成道は「われは実に成仏してより
已来(このかた)、無量無辺百千万億那由他劫なり」と
説いており、経文の記述に素直に従うならば、この五百
塵点劫はあくまでもたとえ話として出されただけであっ
て、釈迦が成道した時ではない。また化城喩品の三千塵
点劫も、たとえ話として持ち出された話に過ぎない。
しかし日蓮は『釈迦御所領御書』などで、「過去五百
塵点劫より、このかた、この娑婆世界は釈迦菩薩の御進
退の国土なり」などと、五百塵点劫の言葉に開近顕遠の
意味を持たせたことから、釈迦が本当に覚った時と解釈
されるようになった。
なお一般的に、釈迦はインドで生まれ菩提樹下で成道
したとされる。これを伽耶始成、また始成正覚というが、
法華経においては、釈迦はそのようなインド応誕の仏で
はなく、本当は遠い過去に成道していた、と打ち明ける。
これを久遠実成をという。(Wikipediaより)
字幕:NHK 第一集 ブッダ最後の旅 インド
語り:高橋美鈴
朗読:長谷川勝彦
資料提供:『ブッダ最後の旅」中村元訳
増上寺
文芸春秋
中本徳豊
ディレクター:正岡裕之
制作総括: 山本辰也
菊池正浩