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渋谷ハチ公前の辻説法

2013-10-20 05:37:39 | 日記
 題:渋谷ハチ公前の辻説法
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
(渋谷ハチ公前の路頭の辻説法を、何度も、ビデオを見て、
 聞き書きしました。記述において、私なりの表現もあり
 ます)。
 しばらくの間、大変大きなマイクで失礼いたします。
 多くの日本の方々が、今、仏教をはじめとする「宗教」
というものの価値を忘れておられます。
 それ故に、多くの方々がおそらく「宗教なんてどうでも
いい」「自分の人生に宗教なんて関係ない」という様な、
その様なお考えをお持ちなのではないでしょうか。
 しかし、その考えは間違いです。
 なぜなら、宗教というものは、仏教をはじめとする宗教
というものは、我々、人間の「原点」であるからです。
 例えば、1921年に、「アマラ」と「カマラ」という二人
の少女が発見されました。
 可哀想な事に、その二人の少女は、何と、オオカミに拾
われ育てられてしまったのです。
 その為に、彼女たちは、四足で歩き、遠吠えをし、犬の
様に口で食事をし、言葉も話せませんでした。
 この二人の少女は、一体何を、私達へ教えているのでし
ょうか。
 それは、私たち人間という生き物は、「教わり、学ばな
ければ、オオカミの如くにさえなってしまう事さえある」
という事を、この悲しき真実が、オオカミに育てられてし
まった少女たちの事実が教えてくれています。
 では、私たち人間に、『善と悪』を、教えて来たものと
は、一体、何であったのでしょうか。
 『心の正しさを教えるもの』とは、一体、何なのでしょ
うか。
 科学の本には、核兵器の作り方は書いてあっても、その
善悪までは、『心の正しさ』までは、書いてはありません。
 国語は、言葉を教えるものであり、
 数学や算数は、数字の学問です。
 我々・人間に、私たち人類に、『善悪を教え』、『正し
い心』とは、一体、いかなるものであるのか。
 これを、これまで教えてきたものこそ、日本の方々が今、
お忘れになっている『仏教』をはじめとする宗教というも
のであったのです。
 故にこそ、日本の人々が、『宗教の大切さ』をお忘れに
なろうがなるまいが、
 宗教の事が好きであろうが、嫌いであろうが、それを問
わず、
 今、オオカミではなく、『人間として生きている』のな
らば、
 皆さんは、既に、宗教から『何か』を学んでいるという
ことなのです。
 仏教をはじめとする宗教から、『恩恵を受けている』と
いうことに他なりません。
 この真実に、気がついて戴きたいと思います。
 仏教をはじめとする『宗教こそ』が、私たち人間の心を
豊かに育(はぐく)み、築き上げているものなのです。
 誰もが、子供の頃、30代の方、40代の方であるならば、
誰もが子供の頃、21世紀に憧れを持ったことでしょう。
 希望を抱いた事でしょう。
 アニメの「ドラえもん」を見て、誰もが、21世紀は、科
学が発達し、経済が繁栄し、便利で、素晴らしい時代が来
るのだろうと、夢と希望を描いたものです。
 しかし、どうでしょう。
 私達が、築きあげているこの21世紀は、本当に素晴らし
い時代となっているでしょうか。
 誰もが、心の底では、今のこの日本、世の中を見て、「
何かおかしい」という疑問を抱いているというのが、真実
ではないでしょうか。
 子供たちが、学校ではいじめにあい、教師たちはそのい
じめを隠蔽(いんぺい)し、自殺者が3万人を超える、そん
な時代が十数年続き、コンスタントに無差別の殺人が起き
ている。
 この心貧しき日本を見て、誰が果たして『正常な世の中
である』と言えるでしょうか。
 それは、私たち日本国民をはじめとする先進国の人々が、
経済を発展させ、科学を発展させることによって、様々な
力を得ることによって、まるで西遊記に登場する猿のごと
く、孫悟空のごとく、佛に挑んだ西遊記の猿のごとく、過
信し、慢心し、『大切なものを忘れている』という事実に
気付いて戴きたいかと思います。
 日本は、世界でも稀(まれ)にみる宗教国家でした。
 2700年という、世界最古の歴史を持つ日本。
 その中で、常に、権威を持ち続けて来られた天皇陛下と
いわれている御存在は、「神道(しんとう)」という日本
独自の宗教の最高神主(かんぬし)です。
 政治家ではございません。
 その神主が、最高神主であるところの天皇陛下が、仏教
に帰依(きえ)した時代もありました。
 そして、平安時代という、死刑が一度も行われない平和
な時代を迎えたことも、この国にはありました。
 世の中を、平和にし、治安を守り、秩序を築きあげてい
く時に、本当に大切なのは、警察官と、厳しい法律だけで
はありません。
 厳しい法律によって、たくさんの警察官によって、もし
世の中の平和を守ろうとすれば、国民は、人々は、その法
律の抜け穴ばかりを、探すことでしょう。
 しかし、道徳心によって、精神性によって、世の中を、
平和を造ろうとすれば、自然と、悪を犯すことを恥だと思
うことが人間の常であります。
 世の中を造っているもの、時代を造っているもの、社会
を造っているものは、あるいは、平和を守っていくものは、
もちろん最後は、法律と警察の方々でありますけれども、
 しかし、社会を造り時代を造っているのは、他ならない
私たち一人一人の『心』です。
 そして、その心を築き上げていくものが、仏教をはじめ
とする『宗教というもの』なのです。
 だからこそ、「宗教などどうでもいい」と、もし思われ
ているのであるのなら、それはすなわち、「心豊かな時代
なんて来なくていい」と、人の心を豊かにはぐくむ、この
宗教というものの価値が、「どうでもいい」というのであ
るならば、それはすなわち、「心豊かな時代なんて来なく
ていい」と、そう結果的に考えているのと同じであり、
 もっと具体的に言うならば、
 子供が学校でいじめにあって、自殺するような、こんな
世の中でも、一年間に3万人も自殺し、40万人以上の日
本国民が自殺するような日本でも、
 あるいは、若者が、お年寄りから貯金や年金を奪うこと
を恥としないことを、「何とも思わなくてもどうでもいい」
と、言っているのと、結果的に同じという事に気がついて
戴きたいのです。
 私たち人間という生き物は、泣きながら何も知らずに生
まれてきます。
 イギリスのシェイクスピアという悲劇作家は言いました。
 「人間は泣きながら生まれてきた」と、
 あの赤子があげる断末魔にも似た産声は、この地上に誕
生したことを祝福して泣いているのではなく、
 むしろこれから始まる人生が、恐ろしくて、驚愕して泣
いているのだということを、イギリスの作家、シェイクス
ピアは述べたと言います。
 これは、佛教的な真理から見ても真実です。
 なぜならば、私たちの人生には必ず、苦しみや悲しみが
訪れるからです。
 この苦しみや悲しみを、仏教では生老病死といいます。
 「あの世」からこの地上に生まれて来る苦しみ、
 「老」という、老いていく苦しみ、
 若い方に、老いる苦しみと言っても、まだ分からないか
もしれません。
 しかし、腰の曲がった白髪頭の歯の乏しくなった老人に、
誰もがなっていくのが世の常であり人間の常であります。
 また、病の苦しみ、誰もが人生の中で病や怪我に悩まさ
れ苦しまれることがあります。
 そして、この世を死して去ってゆく苦しみ、
 その他にも愛別離苦(あいべつりく)という、愛する人
と生き別れにしろ、死に別れにしろ別れる苦しみ、
 怨憎会苦(おんぞうえく)という個性の違う、自分とは
どうしても合わない人に出会い、嫌いな人に出会ってしま
う苦しみ、
 さらには、求不得苦(ぐふとくく)という、求めても求
めても得られない、富みにしろ、名誉にしろ、健康にしろ、
美貌にしろ、求めるものが手に入らない苦しみ、
 更には、五陰盛苦(ごおんじょうく)という、肉体五官
煩悩に振り回される苦しみ、
 これら四苦八苦は必ず、私たちの人生の折々に訪れます。
 人生とは一冊の問題集です。
 この私たちの人生の問題集であるところの四苦八苦を、
苦しみを乗り越えていくものは、もちろんお金も大切です。
 知識も大切です。
 しかし、苦しみを断ち切っていくものこそ、佛教で言わ
れているところの、悟りという名の心の成長にほかなりま
せん。
 一人びとりが、自らの心を悟らせ、成長させていくこと
によって、必ず人生に訪れる苦しみを、人間は乗り越え、
踏破し、心の底から「生きていることが素晴らしい」と、
そう言える心になっていくことが出来ます。
 人は、泣きながら生まれてきますが、泣くために生まれ
たのではありません。
 人は悟りを得て、苦しみを乗り越え、笑うために生まれ
てきたというのが佛教の基本的な考え方であります。
 心は自由です。
 どんな王様であっても、肉体を束縛することは出来ても、
力なき奴隷の肉体を束縛することはあっても、心を支配す
ることは出来ず、いかなる環境に置かれようとも、いかな
る状況にあろうとも、私たちが持っているところの、この
「心」は自由であり、極端な話、人間とは、たとえ強制収
容所にいようとも、遊園地にいるような明るい心を持つこ
とも出来れば、
 むしろ逆に、遊園地にいようとも、強制収容所にいるよ
うな暗い心になってしまうことがあるものであり、
 これを分けるものこそが、一人びとりが持っているとこ
ろの、悟りであるということに、どうかお気づき戴きたい
かと思います。
 私たち、一人ひとりの体力は、今すぐ2倍や3倍にはな
りません。
 10倍や50倍にはなりません。
 経済力も、今すぐには、10倍、100倍にはなりませ
ん。
 しかし、私たちが持っているところの「心」の中にある
勇気というものは、心の力というものは、悟りを得ること
によって、百倍にも千倍にも万倍にもなっていきます。
 人は、心において自由であり、心というものは確かに作
り変えていくことが出来ます。
 そして、心を作り変えて成長させていくことによって、
人生が変わり、また、一人ひとりの人生が変わることによ
って、国家や社会や時代が変わって行きます。
 人間関係の中で苦しまれている方も、多いかと思います。
 しかし、知って下さい。
 人間関係を良好にして行く時に、大切なものこそが、悟
りという名の心の成長であり、立ち向かう人の心は、私た
ちが出会っている妻や夫、友人、上司、同僚、部下・・・
そうした立ち向かっている人の心は鏡です。
 「立ち向かう人の心は鏡なり」と佛教では言われており
ますけれども、私たちの前にいる「誰か」は、私たちの心
を映す鏡であります。
 もちろん、その「誰か」が、正しく心を映してくれると
は、必ずしも限りません。
 心雲っていれば歪んで映ることもあるかもしれません。
 しかし、私たちの目の前にいる人たちは、木石ではなく、
木ではなく、石ではなく、心ある人間であるために、私た
ち一人一人が、喜びもすれば、傷つきもする、心ある人間
であるように、私たちの目の前にいる「誰か」もまた、心
ある人間であるように、自らが心を変え、悟らしめること
によって、目の前の人の反応が、変わってくるということ
が確かにあります。
 自らの心を高めることによって、目の前にいる夫や妻、
「誰か」が、笑顔が増え、優しき言葉が増えるということ
が確かにあります。
 大切なことは私たち一人一人が、自らの心を高めていく
ことであります。
 2500年前に生まれた、インドの地に佛教を興されたゴー
タマ・シッダールタ、釈迦牟尼仏、仏陀と呼ばれる存在と、
 2000年前のイスラエルの地に現われたイエス・キリスト
という存在を比較した時に、決定的に異なる点があります。
 イエスという方はどちらかというと、人間を弱者と見て、
その一方、遥かなる彼方に超越した存在がいると言い、
 その存在のことをイエスという人は「父」と呼びました。
 あるいは「神」と呼ぶこともあったでしょう。
.
 (注:キリスト教は、『人間には生まれながらに原罪が
ある』と教義設定し、その原罪の存在などを信じなければ
異端とし異教徒して、『異教徒は殺せ』の教義のあること
く、切り捨てられ排除される教義となっている)
.
 しかし、仏陀は、釈尊は、そうは思いませんでした。
 カルマの中で流され、宿命に翻弄(ほんろう)され、運
命の波に流されていく、そして、不幸せな人生を生きてい
く人を多く見てはきたが、それでも、仏陀は、人間とは強
き存在であり、「自らの心の中に仏と同じ性質のものがあ
る』ということを説きました。
 「ゆえにこそ、自らの心の中にある『仏性』を顕現せよ」。
 「自らの心を高めよ、悟りを高めよ」。
 「そこに真実の、心からの、魂からの幸福がある」とい
うことを説いたのが、佛教なのであります。
 どうか、先祖供養をすることを以って、それを佛教だと
 思わないでください。・・・中略・・・
 本当の仏教的精神とは、上求菩提(じょうぐぼだい)、
下化衆生(げけしゅじょう)、上に向かっては、常に、悟
りを求め、世の人々には、常に、悟りを与えんとする。
 これが、本来の仏教精神であます。・・・後略・・・

 (参考)生老病死:しょう‐ろう‐びょう‐し、仏語。避け
ることのできないこの世での人間の4種の苦悩。生まれるこ
と、老いること、病気をすること、死ぬこと。四苦。
 (参考)愛別離苦:あいべつり‐く、 仏語。八苦の一。
愛する者と別れる苦しみ。
 (参考)怨憎会苦:おんぞう‐えく、仏語。八苦の一。
うらみ憎む相手に会う苦しみ。
 (参考)求不得苦:ぐふとく‐く、仏語。八苦の一。求め
ているものが得られないことから生じる苦しみ。
 (参考)五陰盛苦:ごおんじょう‐く、仏語。八苦の一。
五陰から生じる心身の苦悩。
 (参考)五官:ご‐かん、人間が外界の事物を感じる五つ
の感覚器官。目・耳・鼻・舌・皮膚。
 (参考)煩悩:ぼん‐のう【煩悩】 《(梵)kleśaの訳。苦
悩・心痛の意》仏語。身心を悩まし苦しめ、煩わせ、けが
す精神作用。貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)は根元的な煩悩と
して三毒という。染。結。垢(く)。
 (参考)悟り:さとり【悟り/覚り】 1 物事の真の意味
を知ること。理解。また、感づくこと。察知。「―が早い」
2 仏語。迷妄を払い去って生死を超えた永遠の真理を会得
すること。
 (参考)上求菩提:じょうぐ‐ぼだい、仏語。菩薩(ぼさ
つ)が、上に向かって悟りを求めること。⇔下化衆生(げけ
しゅじょう)。
 (参考)下化衆生:げけ‐しゅじょう【下化衆生】 仏語。
菩薩(ぼさつ)が、上には菩提(ぼだい)を求めると同時に、
下に向かっては衆生を教化(きょうけ)・救済(ぐさい)する
こと。⇔上求菩提(じょうぐぼだい)。
参考
 http://www.youtube.com/watch?v=1gWbIHhGUx8
 http://ameblo.jp/uttaetotatakai/entry-11645883945.html
.
  (詳しくは、以下のブログへ)
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その様な宗教なのだ。

2013-10-18 12:39:44 | 日記
 題:その様な宗教なのだ。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 ブログを読んでつくづく思うが、キリスト教の『創造神』
なんて『失敗策の創造神だ』と言いたい。
 地球上の事のみにこだわっている傾向がある記述。
 『世界観が全く狭い』と、つくづく思う。
 また、地球上の生物の事を、聖書の世界観にお付き合い
をして、その範囲で考えてあげたとしても、
 地球誕生から、今までの生物だけでも、どのくらいの生
物が絶滅したと思っているのだ・・と、言いたい。
 ここに記すことができないくらいの、多くの、多くの数
の生物が絶滅しているのだ。
 これ等の多くの事の一部でも知っているのか? それと
も、知らなかったのか? 
 何にも知らなかったとしか言えない記述内容。
 無邪気に、今、見たことで「ああだ。こうだ」と、いじ
くりまわしている。
 これからも、これからの将来に渡っても、多くの生物が
絶滅していくが、人類を含めて・・・、ここのところを、
『創造神のキリスト教の神』は、
 どの様に思っているのか?
 失敗作を作ってばかりいる、失敗策の創造神の『キリス
ト教の神』ではないか。
 今・現代に生存している生物を創造したのだ・・と言う
古代の知識レベルの記述の聖書。
 これを、神が与えたという。
 その聖書、それでも多くの生物の絶滅が目に入らない。
 この様な状況を、この文明や科学知識が発達した現代に
生きるキリスト教聖職者、及び、キリスト教徒の方々が信
じることに驚きを感じる。
 また、生物の進化を認めたくないと言う人々。
 当然、この様な記述内容から、あなたがたが、幸せにな
れる道が見つかるはずがないし、そしてまた・・、
 人類が救済されるわけもない。
 その様なキリスト教の聖書なのだ。キリスト教が教える
道なのだ。キリスト教の教義なのだ。記述なのだ。
 キリスト教の考える限界があまりにも狭い、偏狭な宗教
である。
 古代のキリスト教聖書記述者が考えたのは、古代にのみ
通じること。その様な宗教なのだ。
.
 そして、現代の一事例・・・、
 悲惨なパレスチナの対立の元凶は、キリスト教の教義に
その元凶がある。
 が、しかし、その元凶に火を付けたのはイギリスだった。
 1917年の第一時世界大戦の時、イギリスは、ドイツとト
ルコと戦っていた。
 その時、イギリスの外相バルフォアは、「勝利の暁には、
トルコの領土だったパレスチナに、ユダヤ人国家が建設さ
れる」事を宣言した。
 ユダヤ社会のシオニズム運動のパレスチナの地に、ユダ
ヤ人国家を建設するという目的に同調した。
 そこには、財力を持つユダヤの方々の戦争協力を得たい
という意図があった。
 しかし、イギリスは、卑劣にも二枚舌を使ったのだった。
 ユダヤの方々に対抗するアラブの方々にも、「勝利の暁
には」近東一体にアラブ人の統一国家建設を許すという約
束を与えていた。
 そしてまた、さらに卑劣な事には、イギリスは、三枚舌
的な行為もしていた。
 イギリスは、フランスとの間に、戦争終結以後の『近東
植民地分割協定』を結んだ(サイクス=ピコ条約)。
 そして、戦後、実際は、近東は、サイクス=ピコ条約で
分割された。
 (白人対白人の契約を重視するキリスト教の体質をここ
に見つけることができる)
 パレスチナは、イギリスの地となった(委任統治領)。
 パレスチナの地は、ユダヤ人の移民が増加した。
 アラブ人との約束は、『完全に』無視された。
 アラブの方々の怒りは、移民して来たユダヤ人の方々へ
向けられた。
 そして、アラブの方々は、この事態の打開のため、1933
年、ユダヤ人追放・絶滅を掲げた組織的テロを開始した。
 第一次神聖戦争(ジハード)、1933~1936年が起きた。
.
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『砂漠の地』の宗教について・・・

2013-10-17 13:22:22 | 日記
 題:『砂漠の地』の宗教について・・・
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教の生まれた地は、『砂漠の飢餓』と背中合わ
せの地だった。
 キリスト教は、『その様な環境下で生きる民族』の宗教
だった。
 キリスト教は、飢餓の地の『自民族の生存だけを祈る』
宗教だった。
 そして、自民族が飢餓に見舞われ、飢餓にさ迷い、また、
飢餓が差し迫った時、
 「(キリスト教の)神の義」を掲(かか)げて、隣国へ
富を求めて、略奪の殺戮行為を行った。
 そこに、キリスト教は、『(キリスト教の)神の義』が
あるから正義であるとした。
 隣国の人たちを殺戮しても、誅したこと(正義を持った
者が、正義のない者を殺すこと)で、よいのだとした。
 その様な自分だけの考え方・教義で、隣国へ富を求めた。
 自民族だけが利する『利』を求めた。
 そして、その行為は、
 生きる糧のみならず、
 人家畜とする奴隷制度を認めるキリスト教の教え・教義
で、隣国の民を捕え、自分のものとし、奴隷とした。
 神は叫ぶ、『○○人は皆殺しにせよ』・・と、
 そしてまた、キリスト教の神は教え、洗脳した。
 『△△人は、男だけを殺せ』・・と、
 キリスト教の神は洗脳し、教えた。
 『生娘は生かしておけ』、『奴隷にせよ』・・と、
 神は叫びつづけた。これを、キリスト教の教義とした。
 あまりにも悲惨なその教義は、その後のキリスト教の歴
史をも性格づけた。
 悲惨な争いのキリスト教の歴史が連綿と続いた。
 キリスト教は、その様な宗教である。
 キリスト教は、『隣人を愛せよ』の言葉もあると言うが、
 これは、キリスト教のプロパガンダ(嘘宣伝)にまみれ
て宣伝されている。
 この『隣人』は、「自民族で、同じ宗教を信じている」
「我々の民」を、『隣人』としている。
 そして、その『隣人を愛せよ』と言っている。
 この様な、キリスト教の教義に、洗脳されたキリスト教
の民と宣教師は、悲惨な行為を世界中で行い、他民族の悲
鳴の中で蛮行を繰り返した。
 隣人愛の『愛の宗教だ』と言うのは、キリスト教のプロ
パガンダ(嘘宣伝)である。
 キリスト教の歴史は、この嘘宣伝・プロパガンダに明け
暮れている。
.
 (追記)
 「飢えた獅子に、救ってやろうと、自らの身を献じる仏』
の話がある。
 が・・・、
 我が民族という視点で、他民族をとことんしゃぶり奪う
キリスト教の行動と教え。
 そこに『愛』があるなどとは決して言えない。
.
 そして、
 イスラエルの民・カナンの人々は、多神教であった。
 一神教ではない。
 キリスト教による『作られた嘘宣伝・プロパガンダ』で、
一神教の民の様に思われているが、多神教の宗教の中で、
連綿と生きて来た民であった。
 エルサレム大学の教授は、一神教になった歴史は浅いの
だと言う。
 長い多神教の歴史の中にいた民であった。
 日本と同じ様な八百万(ヤオヨロズ)の神々を信じる民
だった。
 イスラエルの12の支族が定着する以前からの多神教で、
様々な神々が居て、拝まれていた。
 『太陽神のシャマシュ』や、『天候の神のランマン』や、
『電光の神のバラク』や、『後にぺリシテ人の神ともされ
たダゴン』や、『知恵の神のネボ』や、『幸運の神のガド』
や、『大地の母神のアシュタロテ』や、『その妹であって
蛇の化神だというアナト』や、『農業の神だというバアル』
などなどである。
 そして、カナンに定着し、だんだんと定着も進んで行っ
た。
 カナンの人々は、土着のカナンの人たちと交わり、結婚
した。雑婚であった。
 それによっても、定着が進められて行った。
 キリスト教が誇らしげに言う武力侵攻ではない。
 カナン人の神々の中で、中心的な神はバアル神で、カナ
ン人の信仰は、この『バアル信仰』であった。
 ヤハウェ信仰ではない。
 ヤハウェ神の信仰になるまで、まだまだ歴史を要した。
時間を要した。数百年後の歴史の後でその様になって行っ
た。
 キリスト教の聖書が、連綿と続くことを強調するが、そ
れは作られたことで、『嘘』である。
.
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豊臣秀吉のころ、・・・

2013-10-10 01:58:25 | 日記
 題:豊臣秀吉のころ、・・・
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 豊臣秀吉のころ、キリスト教宣教師の最高位にいたカブ
ラルは、日本人を低く見て居た。
 馬鹿にして居た。
 自分たちの会話が日本人たちに聞き盗られると困ると思
い、聞き盗られないようにと、日本人たちにポルトガル語
やラテン語を勉強する事を禁止した。
 また、ラテン語やポルトガル語を学んで司祭になる事も
禁止し、日本人が司祭になる様な事が無いようにした。
 後に、このカブラルは日本を離れたが、そして、秀吉は
キリスト教の布教を許可し、朱印状を与えたが、キリスト
教宣教師たちの動静は不穏を極めた。
 九州では島津氏の勢力が拡大し、キリスト教が保護して
いるキリシタン大名の大友・大村・有村は劣勢だった。
 キリスト教宣教師らは秀吉に島津氏討伐を要請した。
 また、九州のキリシタン大名に見方をするようにと要請
し、軍艦を2艘を提供すると提案した。
 キリスト教宣教師らは、キリシタン大名を援助する兵隊
の出陣をフィリピンに居た総督に要請した。
 また、キリシタン大名の援助のための弾薬や大砲や食糧、
資金、船舶などの要請もしていた。
 また、キリスト教宣教師たちは、本国の利益についても
画策していた。
 日本の女性などの奴隷貿易など。(実際、秀吉から、何
故、奴隷貿易をするのか?・・と、キリスト教聖職者は、
厳しく問い詰められている)
 島津氏は秀吉によって屈服させられた。
 この時、秀吉は、キリスト教宣教師たちの技術的に進ん
だ快速船で長崎から博多に来ていた。
 キリシタン大名たちは、秀吉の性格を良く知って居たの
で、今までの経過などから、「この快速船は秀吉の為に作
らせたのだ」と言って、秀吉に与える様にと、キリスト教
宣教師たちに忠告した。
 しかし、この忠告に従わなかった。
 その他、キリシタンたちは、破壊的な行動をしていた。
 キリシタン大名城下で、神社仏閣を壊し続けていた。
 キリシタン大名は、キリスト教宣教師に完全に服従した
(大名を救う重火器の補充をする宣教師だったから)、そ
の服従は驚くほどだった。
 宣教師たちはそれを利用した。
 神社仏閣を破壊して、良いものは自分たち宣教師たちの
ものにしていた。
 また、強制的に民衆を信徒とした、この様な行状が秀吉
の耳に入った。
 そして、バテレン追放令へとなっていった。
.
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感動したアフガニスタンの医師の方の話(医療人)

2013-10-07 01:44:39 | 日記
 題:感動したアフガニスタンの医師の方の話(医療人)
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 医師:レシャード・カレッド氏。
 (テレビ放送の聞き書きです。そして、私なりの補填が
してあります。また、聴き間違いはないと思いますが・)
 氏は、「手当て」の日本語に感動したと言われる。
 手を当てるだけで通じあうという素晴らしさを。
 根源にある言葉なのだと言われる。
 氏の故郷は、アフガニスタン。
 医師になる原点は、子供の時に経験したという・・、
 それは、ある情景を見たから・・と、
 だんだん弱っていく病人を、『なんだ、頑張れよ』と励
ます医師。すると、どんどん食べる様になっていったとい
う・・、家族へは、医師は、『そう長くはない』と言って
いたところを聞いていたけれど、そのおじいさんは、励ま
されて元気づけられ、元気になって行った。
 これが、子供の時に見た情景だったのだが、医療の行為
は、ただ、医療の技術だけではなく、また、薬だけではな
いのだと思った。
 『心が備わっていなければ駄目だ』と気付かされた。
 ヒポクラテスは、患者にまず耳を澄ませば、半分は患者
が教えてくれると言っている。
 人と人との信頼が大切で、心なのだと。
 学生時代の事。ある老夫婦との体験がまた指針ともなっ
た。氏は、1969年の19歳の時に来日した。
 下宿する所を探したが、どこも断られた。
 何軒も訪ねたが断られ、残った一軒の家が運よく許され
た。そして、歓迎され、下宿代も取ることをしなかった。
 そして、その方が言われるには、
 君を引き受けたのは『償(つぐな)いと思っています』
と言われた。
 満州からの引き上げの時、引き上げられなくて、迫害に
遭った。
 ある中国人の方が、地下に隠してくれて、救ってくれた。
 そして、日本へ返してくれた。
 そのおばあさんに、その後、会う事ができていませんが、
中国で、その行為が咎(とが)められ、追及されていない
か?、罰せられていないか?と心配し、思っています・と。
 その償いもあって、あなたを留めることにしました・と。
 この恩を、医師として、次の人に返したいとも思ってい
ます・・と、氏は話す。
 お返しを求めないお返しの発想ですと言う。
 私は、ここで、仏教にある『良い行いの話』を思う。そ
れは、良い行いが次の人のよい行いになり、次々と、また、
色々な人へ善い行いが伝わっていく、そして、回り回って
自分に大きな功徳となって戻ってきますという話。善い行
いの社会的な広がりをも教えている。
 氏は、1976年に、京都大学医学部を卒業した。
 そして、島田市民病院へ勤務する。医長にもなった。
 そして、1989年に、海外派遣の話でイエメンへ。
 妻:秀子さんと4年間を頑張る。
 そして、島根で呼吸器科の病院を。その時、以前勤めて
いた所の島田市へ戻って下さいとの陳情が来た。
 それで、大きい病院の決まった時間だけの医療行為だけ
では満足でき無いと思い、島田市で自分の医院を作った。
 その他、介護施設も作った。介護施設は3つの施設を作っ
た。介護施設は、子供の声が聞け、時折、料理のにおいが
香る中に置きたいと思った。
 自分を医療人と名付けた。これは、医者だけではないと
いう意味。医者は、3分の1だと思っている。その他の部分
は、介護人や看護婦などが病人を直しているから。
 この人たちが居るから、医者の技術が生きて来ると思っ
ている・・と。
 いくら仕事をしたから、いくらの報酬を得ているという
話ではない。
 氏の介護施設で、80歳のおばあさんが、柔らかい袋を作
っている。何のために作っているかというと、その袋を握
ると、閉じている手が、だんだん手が開く様に、治ってい
くからと言う。『人の役に立つという当り前が大切』で、
意味があると言う。
 そして、家々が見えるところに生きるのが大切と。ただ
の緑の中が良いのではない。生活の場の中で、その人その
人の役割を持つことが大切だと。
 故郷アフガニスタン、ソビエト軍が侵攻し、150万人が
死に、600万人の難民が10年間に出た。タリバンの内戦。
 2001年にソ連が撤退した後、また、アメリカ軍が来る。
 アフガニスタン攻撃が始まる。
 かつてのアフガニスタンの豊かさが奪われ、平均寿命が
50歳という国の状況にに落ちてしまった。
 難民キャンプにも何度も訪れた。そして、ボランティア
団体が静岡に立ちあがる。カレーズ=地下水。カレーズの
会。カンダハル(アフガニスタン)。
 私は思う、『各人の勝手な正義の思い・考え・誤解から
アフガニスタンに介入している』と。
 氏は、カレーズクリニックを作る。無料で診療を受けら
れる様にしている。年間に36000人の患者を受け付けてい
るという。7割が女性との事。
 アフガニスタンは、10人に1人の女性が出産で死んでい
るという現状。イスラムの厳しい戒律から男性の診療を拒
むということも関係しているという。
 人間だ、皆、人間だの視点ですと。
 そしてまた、『直った人間が、また武器を持って攻めて
来るではないか』と言われるが、治療をする時に、その様
な事を考えたら医療人ではないと。『人のために役に立つ』
。これが、これが基本ですと。
 米軍が、『タリバンにつながっているのだろう』と言っ
て来た事もあったと。
 私は思う。タリバンも人のつながりが当然ある、敵だと
言ってその人を殺すと、そのつながりの人も殺すことにな
る。そのつながりの人が、貴方にとって必要な人・大切な
人なのかもしれないと。
 氏は語る。お産婆さんを教育すると効果がある・と。
 安全のお産が増え効果があった・と。
 産婆さんを教え、その産婆さんが、また、ボランティア
を次々に教えて行くというシステムも作った・・と。(前
記の仏教的考え方)。
 氏は言われる。宗教は人を導くものであり、『人を制限
するものであるのではない』、イスラム教の根源の言葉で
すと。コーランにもありますと。対話を持つことが大切と。
 シャレード秀子さん、妻が死にました、2006年でした。
 また、不幸なことに、ムンタヒリ氏という片腕だった方
も2008年に死んでしまった。自爆テロに遭遇したのだった。
 イスラムの教え、寄り添うことの大切さを教える。
 イスラム教の断食は、食べない人の辛さ、苦しみが分か
り、そして、問われている。自分のものにする1カ月、断食
期間。
 自分にできることは他人に分け与えなさい。医療にも通
じると。
 妻を亡くして、辛く、悲しいが、ソ連の進攻で、蓄えを
すべて出した。地雷を踏みそうになったことも何度もあっ
た・と。
 ムンタヒリ氏も死んだが、ムンタヒリ氏の両親は健在で、
また、ムンタヒリ氏の子供はまともに見ることができなか
ったと言われる。
 ムンタヒリ氏は、救いに出て、死に会ってしまったとい
う。
 画面は、伊久美集落の場面となる。氏は、この集落へ行
く、診療に、肺を患う人を訪れる。声をかける、寄り添う
姿。病気と仲良くして長生きしてと励ます。
 手を合わせ涙をいっぱいためて泣き喜ぶおばあさんの姿。
 ある時、医師の居ない所に居る人が助けを求めて来た。
 そして、その実情を知った。通う様になる。皆が笑顔に
なった。人と一緒に笑う。
 そして、氏は言う。元気な医者から出向くのが普通です
と。出向く必要が医者・医療人の側にある・・と。
 イエメンでも、アフガニスタンでも、日本でも・・と。
 死とは? 立派に成し遂げた結果。楽しく自然のままに
受け入れる。どう生きるかの質が大切です・と。
 『畳の上で死にたい』と言っていたおばあさんの話。
 尿も出ないという最悪の状態になって、あと数時間の命
だろうという方を、畳の上で死にたいというその方を、そ
の方の家に連れて行った。孫が何人も来て、おばあちゃん、
おばあちゃんと声をかける。その声の中で、3日、生き延び
た。そして、笑顔の中で、畳の上で亡くなった。残った子
供たちも笑顔だった。子や孫が、『生きてよ』と声をかけ
た。
 今、子供たちが死や別れを見てない。
 『生きてよ』、『起きてよ』という声の中で亡くなった。
その体験、今の子供にはそれがない。祈りを実感していな
い。自分だけの命ではない。その様な大切な命を実感すれ
ば『いじめも起きるはずがない』・と、氏は言われる。
 9年前に、父・アブドルさんが亡くなった。詩人でもあ
った氏のお父さん。アフガニスタンの心を綴った人でもあ
った。
 シルクロードの貿易が盛んだった頃の話。立派なハサミ
を出された、良く切れるハサミですと、王様は素晴らしい
と言った。しかし、受け取らないと言う。何故か? 針と
糸の方がよいという。切る物より、心も切るかもしれない
から、糸と針で縫い合わせたいのだと。これはアフガニス
タンの心ですと、氏は言われる。
 掟としては、色々な国の人たちが貿易で来る。その人た
ちを受け入れるという国柄。3食あったらその一部を必ず
与えるという国柄。それが文化・貿易・信頼を生む。
 今、武器を与えられ、その反対の状態になっている。
 平和の掟に戻す、これが今、失われている。
 私もそう思います。人と人の関係の中で、助け、そして、
助けられるのです。性悪説ではありません。キリスト教の
性悪説では成り立ちません。
 氏は言われる。日本の『おかげさま』が大切です・と。
日本のこの謙虚さ、頼り頼られ合うの心が好きです・と。
山でも、街でも、それで答えているのが好きです・と。
 氏のお父さんは、日本に来た事がある。『国境なき医師
団だね』と、お父さんは褒めてくれた様な言葉を言ってく
れたと、氏は、謙遜して語る。つき進めて行きたいですね
・と。
 氏は、子供たちの学校造りにも取り組んでいる。今、学
校には、800人の女の子たちが勉学に励んでいる・と。そ
の為、アフガニスタンと行き来していると。針と糸となる
こと、日本とアフガニスタンの針と糸となることを願って
います・・と。
 (参考)『こころの時代』、NHK.Eテレ、番組名:国境
なき『針と糸』、2013・10・5、聞き手:道傳愛子氏。
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  (詳しくは、以下のブログへ)
URL: http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009 /
URL: http://32983602.at.webry.info/