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(増補版)50B:気になった事柄を集めた年表(1335年~1338年)

2015-03-25 14:05:45 | 日記
 題:(増補版)50B:気になった事柄を集めた年表(1335年~1338年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1335年7月23日、護良親王が足利尊氏に反目し、建議を得
 て、鎌倉に配せられ、幽閉されていたが・・、
  そして、この日に、護良親王は中先代の乱の際に殺さ
 れた。
  護良親王(1308年~1335年、後醍醐天皇の第一皇子)
 は、元弘の乱には僧兵を率いて活躍した。
  その間、復職して名を大塔宮(おおとうのみや)から
 護良(もりなが、または、もりよし)と改め、熊野・吉野
 あたりに潜行し、国々に令旨を発し、勤王の兵を募った。
  建武の中興政府が成るや征夷大将軍となり、兵部卿に
 任じられた。
  間もなく、足利尊氏に反目し、天皇が、1334年、親王
 を鎌倉に幽閉され、足利直義の監視下に置かれた。
  中先代(なかせんだい)の乱に際し、足利直義の家臣
 によって殺された(1335年7月23日)。
  その家臣は、北条時行軍の手を逃れ、鎌倉がおちる際、
 秘かに、足利直義の命を受けた家臣が、護良親王を殺し
 たという、直義の独断だったという。
1335年、足利尊氏が天皇に叛いた。
  尊氏は、反乱鎮圧のために下った鎌倉で、天皇への叛
 意を明らかにしたという・・、
  その因として、武士として活躍しているが、その割に、
 恩賞が少なかった・・という一説がある。
  しかし、この時ではなく、後に決断したとの説もある
 が、その説が正しそうである。
  尊氏は、過去に、後醍醐天皇に征夷大将軍の官職をの
 ぞんだが許されなかったことがあった。護良親王は征夷
 大将軍になっている。
1335年8月2日、尊氏は、天皇の許可を得ないまま、軍を
 率いて鎌倉へ向かった。
  天皇は、やむなく征討将軍(せいとうたいしょうぐん、
 臨時の称号)の号を与えた。
  足利尊氏は、足利直義の軍勢と合流し、相模川の戦い
 で北条時行を駆逐して、8月19日には鎌倉を回復した。
1335年8月19日、足利尊氏が、鎌倉を回復した。
  足利直義の意向もあって、尊氏は、そのまま鎌倉に本
 拠を置き、独自に恩賞を与え始め、京都からの上洛の命
 令も拒んで、独自の武家政権創始の動きを見せ始めた。
1335年11月、足利尊氏は、新田義貞を君側の奸であるとし
 て、後醍醐天皇にその討伐を要請するが・・、
  天皇は、逆に、新田義貞に尊良親王(たかよししんの
 う、後醍醐天皇の皇子)をともなわせて、「尊氏討伐」
 を命じた。
  さらに、奥州からは、北畠顕家も南下を始めており、
 尊氏は、赦免を求めて隠居を宣言し、寺に引きこもり断
 髪したという。
  しかし、足利直義や、高師直(こうのもろなお、武将、
 尊氏の執事)などの足利方が各地で劣勢となると、尊氏
 は、彼らを救うため天皇に叛旗を翻すことを決意した。
  「直義が死ねば、自分が生きていても無益である」と
 宣言し、出馬した。
  尊氏は、12月に、新田軍を箱根・竹之下で破った。
1335年12月、箱根・竹下の戦いが起きた。
  この戦いの後、尊氏は、京都へ進軍を始めた。
  この間、尊氏は、光厳上皇と連絡を取り、叛乱に至っ
 た意味を説明している。
1336年1月11日、足利尊氏が入洛した。
  後醍醐天皇は、比叡山へ退いた。
  しかし、ほどなくして、尊氏は、奥州から上洛した北
 畠顕家と楠木正成・新田義貞の攻勢に晒される。
1336年1月30日、この日の戦いで、尊氏は敗れた。
1336年2月11日、尊氏は、この日の、摂津豊島河原の戦い
 (大阪市箕面市・池田市)で、新田義貞・北畠顕家軍に
 大敗を喫した。
  尊氏は、京都を目指すことを放棄し、海路で鎮西(九
 州)へ向かった。
  途中、播磨国(兵庫県姫路市)の赤松則村らに助けら
 れ九州へ下った。
  九州では、肥前国(佐賀県佐賀市)守護の少弐頼尚(
 しょうによりひさ、武将)らにむかえられた・・
 ・・が、九州の諸豪族の大半は宮方に味方した。
  そして、そこで待ち受けていた菊池氏・阿蘇氏ら2万
 の大軍を、尊氏は、多々良浜(たたらはま、福岡県)の
 戦いで破った。
  一度、宮方についたが、尊氏に加勢する者も出た。
  尊氏の戦法も積極的で、不利な状況を逆転して行った。
  この戦いで、九州のほぼ全域が、尊氏側に付くことと
 なった。
  尊氏は、戦いを勝つと、再び、体勢を整え直して・・、
 京を目指して、東上を始めた。
1336年4月13日、多々良浜の戦い。
1336年、足利尊氏が、また、東上した。
  追討を命じられた新田義貞は、赤松氏の拠る白旗城(
 兵庫県赤穂郡)や、足利氏の武将が籠もる三石(みつい
 し)城(岡山県備前市)を攻めあぐねていた。
  そんなことをしているうちに、新田勢が守る福山城(
 広島県福山市)が、陸路を進撃する足利直義の攻撃を受
 けて落城してしまった。
  退却した新田義貞は、楠木正成と共に湊川(みなとが
 わ、兵庫県神戸市)で決戦を挑(いど)むが、海路を進
 んで来た足利尊氏の上陸を許して、敗退した。
  湊川の戦いで楠正成が戦死した(43歳)・・が起きた。
  比叡山に逃れていた後醍醐天皇も、入京した足利勢に
 降りた。
1336年5月25日、湊川の戦い。楠木正成戦死。
1336年8月15日、足利尊氏が光明院を擁立した。光厳上皇
 の院宣によるものだった(北朝の始まり)。
  光明天皇は、まだ幼かったため(4歳)、兄である光厳
 天皇の院政が行われた。
  囚われた後醍醐天皇は、この即位をいったんは認めた
 ものの、尊氏が擁立した光明(こうみょう)天皇へ神器
 を剣璽渡御(けんじとぎょ)を迫られたが、天皇は奈良へ脱出さ
 れた。
1336年10月10日、後醍醐天皇が吉野へ遷幸した(南朝政
 権の樹立)。花山院に幽閉。
1336年11月1日、足利尊氏が、花山院に後醍醐天皇を訪ね
 て行く。
  南北朝の統合の話だった。
  後醍醐天皇の皇子の成良親王を、光明天皇の皇太子と
 することを条件に、神器を戴きたいという奏上だった。
  つまり、光明天皇の次に成良親王(なりながしんのう)
 を即位するという奏上だった。
1336年11月7日、建武式目17条を制定した。
  尊氏が発布したこの式目に、室町幕府の施政方針が示
 されている。
  中原是円(ぜえん)・真恵(しんえ)らの公家・僧侶・
 武家の法曹家に諮問して政治方針としてまとめたもの。
1338年7月2日、新田義貞(にったよしさだ)が没した(
 1301年~1338年)。
  越前国(福井県越前市)で交戦中に戦死した。
  東国の一御家人だった新田義貞。
  鎌倉幕府を滅ぼして中央へ進出し、その功績は多大で
 あった。
  南朝の総大将として重責を果たし、忠節を尽くして来
 た新田義貞の生涯が、やはり、戦いに場で幕を閉じた。
  義貞の首級は京都に送られ、引き回され獄門に掛けら
 れたという。義貞に恩を受けた多くの人が、嘆き悲しん
 だという。
  また、義貞の死後、義貞の息子らも戦乱に倒れたとい
 う。
..
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(増補版)49B:気になった事柄を集めた年表(1333年~1335年)

2015-03-25 01:52:02 | 日記
 題:(増補版)49B:気になった事柄を集めた年表(1333年~1335年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1333年4月29日、足利高氏(後の尊氏)が、丹波国篠村八
 幡宮(京都府亀岡市)で、反幕府の兵をあげた。
  後醍醐天皇は、隠岐を脱出されて、伯耆国(鳥取県倉
 吉市)船上山に籠城されていた。
  高氏は、この時、病中だったが、再び、鎌倉幕府の命
 を受け、名越高家とともに司令官として上洛した。
  この時、高氏は、妻子を同行させようとしたが、幕府
 は、人質として二人を鎌倉に残留させた。
  緒戦で、同行した司令官の名越高家が戦死した。
  高氏は、この事もあり、また、後醍醐天皇からの話が
 あったため、天皇方へと味方する事を決意した。
1333年5月7日、足利高氏が、京都を制圧・・
  後醍醐天皇へ味方する事を決意した高氏は、諸国へ軍
 勢催促状を発した。
  そして、これに応じた武将らを糾合して入洛し、この
 日・5月7日に、六波羅探題を滅亡させ、京都を制圧した。
 (そして後に、尊氏は、建武の中興第一の功臣となり、
 参議になった)。
  尚、この頃、赤松則村(あかまつのりむら、播磨国、
 今の兵庫県姫路市の地頭、1277年~1350年)が、
  後醍醐天皇の皇子・護良親王の令旨も受け、佐用荘苔
 縄城(兵庫県佐用町)で挙兵していたが、
  また、元弘の変(1331年の後醍醐天皇の幕府討伐計画)
 に際しても、本領播磨国佐用庄を中心に、反幕府軍とし
 て活躍したが・・、
  建武の中興の成立に寄与しているが・・、
  新政府に理解されず(地方だったからか?)優遇され
 ず、足利尊氏の叛と共に北軍に投じた。
  尊氏の九州への敗走するにあたっては、播磨を守って
 新田義貞らの南軍の西下を阻止し、尊氏から播磨守護に
 補任され、赤松氏繁栄の基を築いている。
  尚、この鎌倉時代末期のこの頃、「曽我物語」が成立
 している。
1333年5月中旬、新田義貞が挙兵した。
  幕府の御家人だった義貞は、京都の警護(大番役)を
 命じられ、上洛していたが、
  河内国で楠木正成の挙兵が起こり、幕府に従って「楠
 木正成討伐」に向かい、幕府側の武将だったが、
  正成の城である千早城の戦いにも幕府側として参加し
 ているが・・、
  しかし、1333年3月に、義貞は、病気を理由に無断で
 新田荘に帰ってしまった。そして、この日に、挙兵した。
  挙兵した日は、「5月5日説」や「5月8日説」がある。
1333年5月22日、鎌倉幕府が滅んだ。
  北条高時が没した(1303年~1333年)。
  関東・上野国の御家人・新田義貞軍が挙兵し、幕府軍
 を連破して鎌倉へ進撃する。
  新田郡が鎌倉へ侵攻すると、北条一族や家臣らと共に
 北条高時(31歳)は自刃し、鎌倉幕府が滅んだ。
1333年6月、後醍醐天皇によって「建武の新政(建武の中
 興)」が開始された。
1333年6月~10月、記録書・雑訴決断所・窪所・武者所を
 置いた。
1333年6月5日、高氏が、鎮守府将軍に任命され、名を尊氏
 に改めた。
  この時、護良親王は、足利尊氏らの足利氏の勢力を警
 戒し、奈良の信貴山(しぎさん)に拠り、尊氏を牽制す
 る動きに出た。
1333年6月15日、旧領回復令が発布された。
  御成敗式目で認められていた土地所有権が無効とされ、
 新たな土地所有権は、申請が必要とした・・が、
  申請者が都に殺到した。
  7月に、諸国平均安堵令が発せられ、この騒ぎの対象者
 は、北条一族のみとし、知行の安堵を諸国の国司に任せ
 た。
1333年6月23日、尊氏と護良親王の関係については、
  後醍醐天皇は、この日に、事態打開策として、護良親
 王を征夷大将軍に任命している。
1333年12月、尊氏の弟の足利直義が、後醍醐天皇の皇子・
 成良親王を奉じて、鎌倉へ派遣され、鎌倉将軍府が建っ
 た。
1334年1月、年号を「建武」と定められた。
  そして、この月に、新税が計画され、土地調査が行わ
 れた。また、新紙幣や貨幣の発行も計画された。
1334年3月、貨幣の「乾坤通宝」の発行詔書が出された。
 しかし、この通貨の存在は確認されていない。
  尚、この頃から、新令による問題点が出始める、所領
 問題、訴訟は恩賞の問題・・など。
  記録書などを新設し調整に努めたが、権限の衝突など
 の混乱が収まらず、新政の諸問題が露呈した。
1334年5月、本家(荘園制の土地の名義上の最上位の所有
 者)や、
  領家(荘園制においての荘園開発した開発領主から寄
 進を受けた荘園領主)が廃止された。
  また、徳政令が発布された(債権債務の無効を意図し
 た事になってしまった)。
  また、雑訴決断所の訴訟手続法が定められた。
1334年8月、この頃の新政下の混乱した世相を風刺する二
 条河原落書(にじょうがわらのらくしょ)が現れた。
  「コノゴロ都ニハヤル物、夜討(ヤトウ)、強盗、ニ
 セ倫旨(リンジ)、召人(メシウド)、早馬、虚騒動(
 ソラソウドウ)・・」という書き出しで始まる。
  世相・人情・風俗・下剋上の世界・成り上がり者・軽
 薄な流行ファッション・退廃と混乱の世相を描き出した
 庶民の痛烈な落書。日本落首史上の傑作という。
1335年7月、北条時行の乱が起きた。(中先代の乱)。
  鎌倉幕府の第14代執権・北条高時の遺児である北条時
 行の乱が起きた。
  鎌倉幕府再興のための挙兵だった。
  御内人(みうちびと、執権北条氏の家督に仕えた武士)
 の諏訪頼重らに擁立され、時行が鎌倉へ侵攻した。
  先代(北条氏)と後代(足利氏)との間にあって、一
 時的に鎌倉を支配したことから、「中先代の乱」と呼ば
 れている。
  鎌倉支配は、20日余りしか続かなかった。
  鎌倉幕府の滅亡の後、「建武の新政」が打ち立てられ
 たが、
  そして、鎌倉には、後醍醐天皇の皇子の成良親王を長
 として、尊氏の弟の足利直義が執権として、これを補佐
 する形の「鎌倉将軍府」が置かれていた・・が、
  しかし、この政権は、武家の支持を得られていなかっ
 た。
  北条氏の残党などが各地で蜂起を繰り返す状態だった。
  1335年6月には、京都で政権転覆を企てた陰謀が発覚
 したりして、不穏の世情だった。
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(増補版)48B:気になった事柄を集めた年表(1324年~1333年)

2015-03-24 02:18:40 | 日記
 題:(増補版)48B:気になった事柄を集めた年表(1324年~1333年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1324年7月、後宇多天皇が崩御した(1267年~1324年)
1324年9月、正中の変が起きた。
  鎌倉幕府の討幕の動き・・
  後醍醐天皇(1318年に即位)の討幕計画が漏れ、日野
 資朝(ひのすけとも)・俊基(としもと)らが罰せられ、
 土岐頼兼・多治見国長は処刑された。
  漏れた原因は、土岐頼兼が、いよいよ計画が実施とな
 る頃、妻に「今生の別れ」のように話してしまったこと
 による。
  後醍醐天皇は、幕府が乱れていたため、討幕を決意さ
 れた。
  幕府の北条高塒は、田楽や闘犬に興じたりして政治を
 顧みなくなっていた。
  後醍醐天皇は、討幕の計画を練るために、朱子学の講
 習会や無礼講を開き、同志を糾合したという。
1324年11月14日、「花園院宸記」に、この日の事につい
 て、「聖主の謀叛」という表現を用いている。
  それによって「天皇の謀叛」という観念が、当時、一
 般に広がっていた事が分かる。
  「公」と「国家」と「天皇」、これは古代律令国家に
 おいては一体であった。
  少なくとも鎌倉初期にあっては、幕府は、自己の行動
 の合法性を皇室=古代国家の承認によって獲得していた。
  それが、社会に対する幕府の権威の裏付けをなした。
  ところが、南北朝・室町時代になると、その価値体系
 が崩れて行く。
1325年7月、幕府が、「元」へ、建長寺船を遣わした。
  翌年9月に帰航した。
  もうすっかり、日本に、「元アレルギー」は無くなっ
 ていた。
1326年3月16日、第15代執権・北条貞顕(1326・3・16
 ~1326・3・26)
1327年4月24日、第16代執権・北条守時(1327・4・24
 ~1333・5・18)
1328年、100年戦争が始まった。
  フランスの領土をめぐる英仏間の戦争。
  フランス国王・シャルル4世が1328年に死ぬと、男子
 の継承者が居なかったため、フランスは家系が絶えたの
 で、別の家系の従兄弟の王を即位させ王位を継承した。
  そして、この年の1328年に、戴冠式を迎えたが、
  その戴冠式に先立って、家系が絶えたフランス国王の
 血筋のイングランド王が、フランス王位の継承権を主張
 した。
  そして、その王位継承をめぐってフランスへ侵攻した。
  フランスとイギリスの間で、100年戦争(1337年~
 1368年)が始まった。
1330年頃、この頃、吉田兼好が「徒然草」を書く。
1331年8月、元弘の変(げんこうのへん)。
  後醍醐天皇の第二回目の討幕計画が失敗した。
  討幕計画が、側近の密告により未然に露見した。
  後醍醐天皇は、急遽、御所を脱出し(女装をされて脱
 出されたと言われている)、8月27日には笠置山(京都
 府相楽郡)に至り、挙兵した。
  護良親王も、吉野で兵をあげた。
  また、楠木正成も河内国で兵をあげた。
1331年9月2日、笠置山にて、後醍醐天皇側と鎌倉幕府側
 との間で戦いが始まった。
  最初、幕府側は、天皇が比叡山にいるものと思ってい
 たが居ない事に気付き、9月2日に、笠置山を包囲して、
 攻撃を始めた。幕府軍75000、天皇側3000余、
  天皇側は少数であったが、よく善戦した・・が、9月
 28日に、幕府側が山に放火するなどし、天皇側は総崩れ
 し、陥落した。
  数日して、後醍醐天皇や側近は幕府側に捕らえられた。
1331年9月20日、戦いの最中の9月20日に、幕府は、後醍
 醐天皇が京都を去っているので廃位とし、皇太子を即位
 させた(光厳天皇、後伏見天皇の第三皇子)。北朝の
 始まり。
1332年4月2日、後醍醐天皇が隠岐(島根県)に流された。
  捕らえられてから約6か月の後だった。
1332年9月28日、笠置山の戦いで敗北した後醍醐天皇は、
 捕らえられ、隠岐に流されたが、
  笠置山を落ち延びて残った楠木正成は、護良親王を擁
 して、赤坂城(河内国、河内国府は大阪府藤井寺市、正
 成が挙兵した城)で、幕府軍と戦っていた。
  楠木正成500、幕府軍20万~30万。
  笠置山の戦いから、約1年の間、善戦したが、楠木正成
 (1294年~1336年)は、この日に、敗退した(赤坂城
 の戦い)
  楠木正成は、「楠木七城」と言う城や砦をたくさん持
 っていた。
  河内国金剛山にある千早城もその一つ。
  彼はこの城をうまく使い、また、金剛山の標高1125
 メートルの地形をうまく使い、
  また、鎌倉幕府方の湯浅宗藤を味方に引き入れたり、
  また、作戦に奇策を用いたりして善戦していた。
1333年2月1日、護良親王が討幕の令旨を出す(太山寺文
 書)。
1333年4月9日、後醍醐天皇が隠岐から脱出した。
  名和長年が、船上山に天皇を迎えた。
  この頃、楠木正成らの活躍に触発されて、各地には討
 幕の機運は広まっていた。
  因みに、名和長年(なわながとし)は、鳥取県で海運
 業を営んでいた名和氏の当主で、武将。
  楠木氏も同様に、商業活動を行っていて、比較的裕福
 な武士だった。
  名和長年は、海運業であったため天皇を脱出させ得た
 のだろうし、天皇も船上山に迎えている。そして、その
 後、鎌倉幕府の倒幕運動に加わっている(船上山の戦い
 をしている)。
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(増補版)47B:気になった事柄を集めた年表(1303年~1324年)

2015-03-22 04:17:48 | 日記
 題:(増補版)47B:気になった事柄を集めた年表(1303年~1324年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1303年、アナーニ事件が起きた。
  ローマ法皇のボニファティウス8世とフランス王フィ
 リップ4世の対立からアナー二事件が起きた。
  フランス軍が、法王を襲撃した事件である。
  法王は死ぬ(キリスト教は、病気で死んだんだと言っ
 ている)。
  この頃、十字軍に対する批判が強くなっていた。
  また、ローマ教皇の権威と共にキリスト教の権威も揺
 らいでいた。
  権威を誇示するローマ法王との間で軋轢が生じていた。
  「すべて、教皇に服従すべきである」と宣言していた。
  時代は大きく変わっていたのに・・。
  このボニファティウス8世は、非常にぜいたくな生活を
 していると、また、教会の役職を金で売っていたと弾劾
 されている。
  また、このいざこざに、テンプル騎士団を解散させて、
 多くのお金を得る(財産没収)など、金に絡む話が多い
  (テンプル騎士団は、十字軍遠征などの略奪品で財産
 が一杯あった)。
1304年、後深草天皇が崩御した(1243年~1304年)
1305年、足利尊氏が生まれた(1305年~1358年)、貞氏
 の子。早くに源氏の再興の志があった。
  武蔵守に任ぜられて、尊氏と改名した。
  時勢を洞察して武士を糾合し、公家の中心の護良親王
 を失脚させ、1335年に、北条時行の征伐のために鎌倉に
 下り、ついに、中興政府に叛き、大挙して上洛した。
1305年、亀山天皇が崩御した(1249年~1305年)
1305年、この頃、羅針盤が発明された。
1305年、ジョット・ディ・ボンドーネというイタリア人
 画家兼建築家が居た。
  この年に、礼拝堂の内部装飾画を書いたりした。
  比較的、キリスト教の宗教画を多く描いた。
  イエスが十字架に磔になった後、降ろされて、聖母マ
 リアがその死を嘆くという状況があったとされ、その場
 面を『ピエタ』と言ったが・・、
  この画家の描いた「ピエタ図」は、他の画家と大きく
 違っていた。
  異常な違いなのであるが、聖書を読んでも分かる様に、
 イエスが磔刑になる場には、一緒に刑に処せられる強盗
 の十字架が立っており、そして、刑を執行する役目の刑
 執行人が居るという殺伐たる光景である。
  居る人と言ったら、聖書には、そのイエスの刑の執行
 を見ようと集まった群衆・見物人。これでほとんどとな
 っている。
  イエスの弟子は、馬鹿な事に、逃げて隠れてしまって、
 この場には居ない。居るのは母マリア、娼婦のマグダラ
 のマリア、他2人ぐらいの女性だけ。この状況は聖書に
 書いてある。
  しかし、ジョットのピエタ図には、仏教の涅槃図のご
 とく、多くの弟子や、人々や鳥や花などに囲まれた涅槃
 図の様になっている。
  ジョットは、明らかに、この東洋の釈迦の死の涅槃図
 をモンゴル経由で知っていた。
  シルクロードなどで、インド仏教の影響は、輸送・搬
 送される物と同時に、ヨーロッパ世界へ伝わっていた。
  キリスト教は、「一神教の壁があったから、伝わって
 いない」というが、これはまったくの嘘のプロパガンダ
 で、洗脳である。嘘とプロバガンだばかりをするキリス
 ト教というところとなっている。
1306年、我が国の商船が元に入り、貿易をした。
1308年8月10日、第9代将軍・守邦親王(1308・8・10~
 1333・5・22)
1309年、ローマにあった教皇庁が、フランス王フィリップ
 4世によって南フランスのアヴィニヨンに移された。
  ローマ法王のクレメンス5世が、ローマを嫌ったとの話
 もある。そして、ここに、77年間、教皇庁は置かれた。
  ローマは、ますます寂れた。政治も宗教もローマを去
 った。
1310年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世のイタリア遠征(
 ~1313年)。
  イタリアが、神聖ローマ帝国に侵略された。
  ダンテは、これを「喜劇(コメディ)」と呼んだ。
  後に、ボッカチオが神聖をつけて「神聖喜劇」と呼び、
 「神曲」となった。
  ダンテが、あなたが喜劇と名付けたものが、神曲にな
 っていますと聞いたら、びっくりするだろう。
1310年、この頃、大友氏が、『元』と私貿易をした。
1310年、家畜図譜の早い例「国牛十図」ができ、馬は関東、
 牛は西国の言い方がみえる。
1311年10月3日、第11代執権・北条宗宣(1311・10・3
 ~1312・5・29)
1312年6月2日、第12代執権・北条熙時(1312・6・2~
 1312・5・29)
1315年7月12日、第13代執権・北条基時(1315・7・12
 ~1315・11・20)
1315年~1317年、西ヨーロッパの大飢饉。
  ヨーロッパが、天候異変により深刻な飢饉となる。
  餓死者多数。1315年には、150万人もの餓死者を記録
 した。また、疾病による死者も増加した。
  この飢饉は、ニュージーランドにあるカハロア火山の
 5年間も続いた火山活動によって引き起こされたとされて
 いる。
1316年7月10日、第14代執権・北条高時(1316・7・10
 ~1326・3・13)
1317年、文保の和談(ぶんぽうのわだん)。
  皇位継承のルールを幕府が仲介してまとめた。
  持明院統と大覚寺統との協議が行われた。
  この流れの中で、後醍醐天皇が討幕を決意していった。
1321年、ダンテが死んだ。
1322年、英国のマンデヴィルが地球が球形であることを
 説いた。
1324年、マルコポーロが没した(1254年~1324年)

..
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(増補版)46B:気になった事柄を集めた年表(1299年~1304年)

2015-03-20 03:47:42 | 日記
 題:(増補版)46B:気になった事柄を集めた年表(1299年~1304年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1299年、オスマン帝国(オスマン・トルコ、イスラム国家)
 が建国された。
  15世紀には、東ローマ帝国を滅ぼして、その首都であ
 ったコンスタンティノーブルを征服した。
  最大領土に、1683年になったが、カナンの地(イスラ
 エル)も完全にこの帝国に殲滅されている。
  この国の出現は、西欧キリスト教国にとって「オスマン
 の衝撃」であった。
  また、西欧の統一とカトリック的世界帝国構築の夢を
 挫折させた。
  この国の歴史は、1922年のトルコ革命による滅亡まで
 の620年以上の長期間、続いた。
13世紀~15世紀、インカ帝国:1200年頃に興り、13世紀
 ~15世紀に繁栄を極めたインカ帝国は、大量の黄金を使
 った工芸品を所有していた。
  これらは、1533年に、スペインによって滅ぼされた時
 (最後の王アタワルパは莫大な身代金を積んだにもかかわ
 らず殺された)、王族がチチカカ湖に投じたという。
  この伝説は、1988年の日本とボリビアの共同調査で証
 明された。
  エクアドルからチリに及ぶ大帝国だった。
  巨大な石造建築・土木灌漑(かんがい)・織物などの
 高度な文明を有していた。
13世紀、タイ(スコータイ朝とアユタヤ朝):13世紀中頃
 に、中国の雲南地方から南下したタイ族が、スコータイ朝
 を建設したが、短命に終わる。
  タイ人による最初のタイ王朝(1257年~1350年、年代
 は諸説ある)。
  14世紀中葉に勃興したアユタヤ朝(1351年~1767年)
 が417年間続いた。
  ビルマのアラウンパヤ朝の攻撃により、1767年に滅亡。
  山田長政はこの王朝のもとで活躍。
  中国や琉球と盛んに貿易を行った。
13世紀、外国では、13世紀に既に特許(慣習法)が付与さ
 れていたと言われている。
  日本は明治4年になってから。
13世紀、マレーシア:13世紀にジャワ島にあった王朝の勢
 力下にはいって、振るわなかった。
13世紀、彫刻:明月院上杉重房像(神奈川)
13世紀、絵画:禅林寺山越来迎図(京都)
13世紀、絵画:西本願寺親鸞上人像(京都、専阿弥筆)
1300年頃、中世の頃、鎌倉街道筋が発展した。
  「いざ、鎌倉」、幕府は、有力御家人や豪族を諸国の
 守護や郷の地頭に任命し、一旦鎌倉に異変が起こると、
 これら諸国の部者たちは手勢と共に武装して駆け付けた。
  京・駿河・遠江戸~鎌倉、下総・常陸~鎌倉、武蔵東
 部・下野~鎌倉、奥州~鎌倉、武蔵西部・上州~鎌倉、
 信濃・越後~鎌倉などのルートがある。
1300年、最古のポルトラノ型海図ピサ図が作られた。
  羅針盤の発明が、航海図を画期的に変え、実用的にした。
  ポルトラノは、イタリア語で沿岸航海図?の意味からと
 言われている。
14世紀初、絵画:14世紀初。愛染明王像(東京根津美術館)
13世紀~14世紀、絵画:13~14世紀。聖衆来迎寺六道絵
 入道(滋賀)
14世紀、工芸:14世紀。大鎧・兜・大袖、櫛引八幡宮赤糸
 威(青森)
14世紀、チベット:14世紀には、ツォンカバが出て宗教改
 革を唱え、黄帽派が成立し、次第に勢力を伸ばし、ダラ
 イ・ラマの政権が樹立する。
  清朝以後は、清、英、露の勢力争いの目標になった。
  現在は、中華人民共和国西蔵自治区になっている。
14世紀、アステカ王国:アステカ族が、メキシコ中央高原
 に築いた王国(14世紀~1521年)。
  アステカ族は、伝承によると、1300年頃にメキシコ盆
 地に到達し、先住民から農耕技術や文化を学び、勇猛さと
 団結力、また、婚姻に基づく同盟関係で勢力を伸ばした。
  首都のテノチティトランを、14世紀中頃に建設し、15
 世紀にアステカ王国を建設した。
  スペイン人キリスト教徒とキリスト教聖職者たちによっ
 て、1521年に滅ぼされた。
1300年、ルネッサンス/文芸復興:14世紀、イタリアに始
 まり、17世紀まで各国に波及した。
  古代ギリシャ・ローマ文化の復興運動。
  中世のキリスト教に抑え付けられた人間性や、戦争が
 多発する社会の暗黒時代から、人間本来の姿を取り戻し
 たいの「再生・復活」の動き。
  19世紀の中葉ころに、歴史家のミシュレンやブルクハ
 ルトの用いた考え方で、原意は「再生」である。
  市民階級の繁栄を背景に、古典文化を模範とし、ヒュー
 マニズム(人文主義・人間中心主義)によって、あるが
 ままに人間や自然を見ようとしたものであり、近代文化
 の形成に貢献した。
  しかし、なお多くの中世的要素が存在したので、ルネッ
 サンスを近代の始まりとする考えには疑問が呈されている。
  また、ルネッサンスが、ビザンチン文化・イスラム文化
 の影響を受けたことも知られている。
  なお、古典文化の継承をカロリング=ルネッサンス、
 12世紀ルネッサンスなどによってとらえる事もできる。
1301年、新田義貞が生まれた(1301年~1338年)
1301年8月22日、第10代執権・北条師政(1301・8・22~
 1311・9・22)
1303年、北条高時が生まれた(1303年~1333年)
1304年、元と日本の関係に、逆の現象が現れた。
  日本の武装商船が、元(中国)の江南に度重なって襲
 来するようになった。
  元は、海防を強化させた。
  また、元の商人に海外へ出る事を禁じる『禁海令』を
 発布した。
  元が、倭寇と日本人の復讐を恐れたため、閉鎖主義へと
 態度を変化させ、日本との通交を回避するようになった。
  また、高麗においても、二度に及ぶ日本への侵攻で、
 および、第三次日本侵攻計画による造船で国内の木材が
 殆ど尽き、海軍力が弱体した。
  この事が、相次ぐ倭寇の襲来に苦戦を強いられる原因
 となった。
  日本への2度の侵攻の敗戦と、その後の日本武装商船の
 活動によって、中国における対日本観は大きく変化し、
 狂暴で勇猛な日本人像、および、日本脅威論が形成された。
  例えば、南宋遺臣の鄭思肖は・・、
  「倭人は狼、死をおそれない。たとえ十人が百人に遇
 っても、立ち向かって戦う。勝たなければみな死ぬまで
 戦う。戦士しなければ、帰ってもまた倭王の手によって
 殺される。倭の婦人もはなはだ気性が烈しく、犯すべか
 らず。(中略)倭刀はきわめて鋭い。地形は高険にして
 入りがたく、戦守の計を為すべし」・・と述べている。
  この様な、日本恐るべしの資料は複数ある。
  なにしろ、クビライの日本侵攻が成功しなかったとい
 う事が国内で議論されて日本征討を思い止まったという。
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