久しぶりに月を見た。まるい形の月。
僕がこの家の人に拾われて、初めて見る…いや、正確に言うと、居着いてから初めて見る月である。随分久しいように思う。
澄んだ夜に浮かぶ月は、輪郭がはっきりしていて、美しさを放っていた。
「ご飯ですよ」
カナコさんがわざわざ縁側まで、ご飯を運んでくれた。ご飯は、いつも美味しい。彼女は、いつも一工夫をこらしている。そして、美味しい。
カナコさんは優しい人だ。いつもあたふたして、よく転びそうになっているけど、周囲にはとても優しい。決して美人じゃないけど、笑顔はわるくない。 彼女が笑って口角を上げる時、雨上がりの空気を照らす日の光を思わせた。すべての色彩が濃く輝く。
今日は縁側で食べるの?カナコさんは訊いてきた。うん、今日は涼しいから、そうする。僕は答えた。
彼女は、めったに見ないほどの不器用なひとだった。危なっかしい手先。目を覆いたくなるような世渡り下手。こんなに痛い人は、生まれて初めて見る。以前、一緒に住んでいた人は、本当に器用な人だった。目の前にいない人と比べてはいけないことは、承知しているけれど。
そんなことを考えながら、古びた縁側で、並んでご飯を食べる。時折、月を見上げる。プラチナ色のまるいお月さま。僕達をどう見ているんだろう。
「まだ帰らなくていいの?」
ご飯をほぐしながら-彼女は僕以上に猫舌で-訊ねた。
「まだ帰らないよ、一度決めたことだから。悪いけど、当面ここにお世話になるよ。ごめんね。」
構わないよ、彼女はそう言って、縁石の上のサンダルに足をかけた。
「星が綺麗」彼女は、独り言を呟いた。僕は頷いた。
突然やって来た僕という存在。彼女は今まで、それ以上に疲れているかもしれない。多分、邪魔な存在。にも関わらず、優しくしてくれる気の弱さ。僕はそこに甘えている。
初めて彼女に出会った日も、月が美しい夜だった。
彼女が洗濯していて、一瞬ガラス戸が開いた時、僕は入り込んだ。一人暮らしの洗濯物の小山をすり抜けて。洗濯機のモーター音が微かに響く中、彼女は座り込んでいた。月の光と街灯は、混じり合って彼女の顔を照らしていた。
疲れてくたびれてしまった弱い気持ちと優しい気持ちに甘えて、彼女の腕の中に入っていった。
あれから僕達は、言葉以上の言葉を交わしてきた。将来の夢、不安。今の立ち位置。言葉にできない言葉は思いに変えて、思いにできない思いは言葉に変えた。
でも。時々、僕は思う。
親子でもない、姉弟でもない、僕達の感情は、このままピンで留められる訳でもなく、砂塵に流されてしまうのだろうか?
思いも言葉もいずれは忘れ、すたれていく。僕達が紡いだ思いはどこへ行くんだろう?どこへ消えゆくんだろう?
僕達は、そのまま冬の夜空は見つめていた。月と星が美しく光を放ち、何かの工芸品に思えてくるほどだった。
きっと、僕は不安を強気に変えて、生きていく。今の辛い気持ちをどこかに追いやって、取り敢えず楽しく生きていく。それも悪くない。きっと、その方が胸の痛みもなく生きていける。でも、その前に誰かに大丈夫だ、心配ないと誰かに言ってほしかった。背中に手を当ててくれる、誰かがいてほしいと思った。
その誰かはただ一人。彼女しかいなかった。
長屋を改造したカナコさんのお家-正しく言えば、改装した小さな借家-に、呼び鈴が鳴ったのは、それから暫くたってからだった。隣の待さんだった。
待さんは、カナコさんより幾分若い女性である。明るい茶色の髪。やや切れ長の瞳、そして瞳をふちどる黒いまつげとアイライン。珊瑚色の薄い唇。今時の女の子、という感じがする。そして、少し疲れ気味。
入っていい?と待さんは、カナコさんに尋ねた。双子の姉に言うように。いいわよ、と双子の姉は答えた。
まだ、あの居候いるの?そう言いながら、僕の前に座った。居候とは僕のことだ。いつも失礼な人だ、と僕は思う。
煙草吸うね、ライターの音を小さく響かせて、白い輪を小さな輪を小さな部屋に放った。
今日で煙草を吸うのをやめるんだ。軽めの宣言をした。そして、細くて長い脚を僕のほうへ投げ出した。この人が来た時には、最新の注意を払わないといけない。顔面にドアを当てたり、縁側で花火を楽しむ最中、その火花をいきなり浴びそうになって、死ぬ思いをした。
悪い子じゃないのよ。カナコさんは僕が痛い思いをするたび、優しく手当てをしながら、慰めた。なめらかな手先は、いつも尖らせている神経をなだめてくれて、僕は怒る気になれなかった。
いろいろあって、大変なのよ。あなたもわかるでしょう?大人だから。勿論、自分が辛いからといって、他の誰かに嫌な思いをさせるのは筋違いだってことくらい、彼女だってわかっている。ただね、所作とかそんなものが雑なだけ。
シスターを思わせる目元に丸めこまれてしまう僕だった。清冽な大きな瞳に引き寄せられ、たたみこまれて、うなづくしかなかった。
ああ、やっぱり、僕はカナコさんが好きなんだ、いつもそう思う。だからと言って、痛い思いはいやだけど。
それから、何時間彼女たちは語り合っただろう。その間に丸い月に煙が傾き、広がり、散っていった。夏にしては涼しい夜で、僕は共有の庭にある庭石を飛び越えては、遊んでいた。
遅くまでごめんなさい、どこかで聴いた声がした。待さんの声だった。いつもと違って、張りがある大きな声なので、別人かと思った。
カナコさんの声はよく聞こえなかったが、何か言って返す温かい優しい口調は間違いなく彼女のものだった。
「アンタ、じゃましてごめんね。予想よりカナコさんと喋ってしまった」
いつどうなってもおかしくないほど古い木製のサンダルの底を鳴らしながら、待さんは言った。
「話して何が解決するわけじゃないけど、何だか気持ちが落ち着いてきたよ。八方塞の状態に風穴が開いたというか。じゃましたね」彼女は疲れを話をする途中で、どこに置いてきたのだろう。それとも、通りゆく風に任せたのか。
ぐらつかせながら、彼女はすぐそばの自宅まで帰っていった。
「じゃましたね」不遜な彼女が呟いた言葉を、僕はもう1度呟いてみた。
彼女が帰ってから、減った人数より空いた部屋に戻った。月がマボガニー色の部屋を暗く照らしていた。
僕とカナコさんは、窓際から夜空を眺めた。その深い闇は、終わりゆく夏のものだった。
夜空は漆黒だった。
銀の刺繍を施された黒いベルベットだった。
なんてうつくしいんだろう。
なんてしあわせなんだろう。
今、僕は美しさと幸せと両方味わっている。ゆっくりと眼を閉じた。
彼女の柔らかさを背中に感じながら、僕は至福を感じた。
薄い朝の霧に包まれて、いそぐ足音で眼が覚めた。いつもよく聞く朝の音の一つ。
カナコさん、出勤するんだな。遠く小さくなっていく足音。微かに残るトーストの香り。いつもと同じはずなのに、毎朝が新鮮にいとおしいものたち。僕達の間にあるパーツ。このパーツが幸せと幸せをつないでいくんだ。
僕は再び眠りについた。彼女が平和で過ごせますように。願いながら。