待さんが訪ねてから、一週間たった。思うことがあって、タバコを止めているそうだ。だからといって、イラつかない根性のある人である。
待さんが来る日は、カナコさんは僕と一緒にいる時より楽しそうである。女性にとって、そんなに会話は楽しいものだろうか。どうとはない会話にしか聞こえない会話から疲れをとっていくのだろうか。取り敢えず痛い思いをしたくない、構われず、何もすることのない僕は、隣室に避難する。
待さんは、ある有名な会社-海外でも知られるあの会社-で働いている。事務系の仕事をしている。つい最近まで煙草の匂いが染み付いた服を着て、今もって不注意に、僕にキックやパンチを浴びせる彼女が、である。
あの頃持ち合わせた強運で、会社に入ったそうだ。会社という組織の中で歯車として自分が機能できていないと言った。おまけに遠方へ転勤した恋人と疎遠になりがちになってしまった。誰が横にいても常に抱える孤独感。独りで生きていく上でありがちなスパイラル。
「つまり、誰といても一人で生きている感じなんだね」
ティーセットを出しながら、カナコさんは優しく言った。待さんはうなづいた。
「どこにいても。誰といても。さみしい。私はどうしたらいいんだろう」
そう言うと、彼女は涙をこぼした。わきでる涙は透明だった。こぼれる涙は、頬に一筋の流れができた様子を、廊下から見えても僕は見て見ぬふりをした。
ああ、僕は今、待さんにシンクロしている。反発した勢いで、親兄弟から離れた僕。
そう、それは、お母さんが死んで、暫くして新しいお母さんが来た時。
皆が皆、気を遣い合っている様子を見た時、
新しいお母さんが死んだお母さんによく似た目で、皆を眺める様子を見た時、
死んだお母さんの席に、新しいお母さんが座った時。
僕の中のいたたまれなさが、はじけた。
僕はあの家を脱走した。
白くて、大きな和洋折衷の家。シンガポールにありそうな。
やけになって、ドアが開いたままのクルマに乗り込んだ。地道を走っている間、僕は転寝した。小刻みによく揺れて、気持ちが良かった。クルマの調子が悪くなったので、オーナーはクルマを停めた。そして、そこらにあったトラックに乗り込んだ。
待さんは毎日のようにカナコさんの家にやってきた。ぼやいたり、愚痴ったり-あ、どれも同じか-、涙ぐんだり、笑ったりして、ひと時を過ごし、帰って行った。毎日、職場から持って帰ったごみをここで捨てているようだ。捨てて、落ち着いた顔をして、中庭を斜めに横切り、帰っていく。
彼女は年上そうな女性を連れてきたこともあった。二人とは違うタイプだった。どこで知り合ったのか、わからない。その人は、まりさんと呼ばれていた。二人と違って、落ち着いた感じのひとで、より正確に言うと肝が据わっていた。やや色黒で黒目がちの大きな瞳の持ち主だった。この人も、カナコさん同様、派遣だという。理由はわからないが、自分を一生シングルのつもりらしい。契約から契約へと渡り歩く人生。肝が据わっているのは、都合の良い時だけ呼ばれる為なのか。
そんな寂しそうなプロフィールが冗談に思えるほど、彼女の言葉一つひとつが僕にとって、納得がいって、元気が出てくる。彼女に言わせれば、ストレスと涙の日々で、慢性的な睡眠不足に悩まされているという。
そんな人から、威勢が良くて、逞しくて雄々しいアンソロジーが生まれる不思議を思う。カラ元気がそうさせるのか。待さんもカナコさんも置き場のないやり過ごしようがない愚痴をこぼし、彼女は相槌をうつ。
そして、言葉の波が来る。うねってくる。
ひとは思想だ。気持ちだ。
今日の僕は、ゆっくりマボガニーの縁側に座り、月に照らされていよう、そう思う。
僕は月に思いをはせる。遠い場所。遠い家族。
僕はシングル女性の家に住んでいます。
嬉しいこと楽しいこと面倒なこと。なんのかんのありますが、大事にされています。丸めこまれているだけかもしれませんが。
僕はお義母さん、貴女を決して嫌ったわけではないのです。亡くなったお母さんとオーバーラップして、パニックになってしまったんです。僕はそれが恥ずかしかった。いたたまれなかった。辛くて家を飛び出してしまった。お母さんと同じとがった爪をして、丸くて少しつり気味の目の貴女をむしろ好きだったのかもしれません。
大らかで優しいお父さん、新しい家族をどうにかまとめようとした兄さん、幼い僕を抱きしめてくれた姉さん。貴方達が僕に示し続けてくれた愛情は、今でも僕の宝物です。僕はこれがあるから、生きていけるのです。
どうか、安心してください。僕は元気です。
彼女たちは、ずっと話し続けていた。
これからの人生。それにまつわる仕事、恋愛、友人や家族との関係。
にっちもさっちもいかない人生。
TVや趣味ではごまかしきれなかった、辛さ。
どんなコメディより笑える話。作られた笑いより、突然沸き起こるおかしみというものもが、確実にあると知った。
まりさんの力強い言葉に励まされ、癒された僕達は眠りについていた。いろんな食べ物や飲み物、アルコールのすえた匂いが満ちた中で、いつも以上に心地よい眠り。自分の根幹を探し当てた安心感。
晴れた朝は、いつも埃っぽい。長屋の庭から、道路から、遠慮なく埃や塵が入ってくる為だった。
まりさんは中庭の向こうに、帰ってしまっていた。中庭を越えずに、二人だけが残っていた。
まりさんがいない朝。
はれぼったい目をして、二人は起きてきた。ちゃんとパジャマ(と思えるもの)を来ているので、こころもち安心する。
そして、二人は、朝食を用意し始める。鬱々とした空気は消えていた。
僕はそっと中庭を越えて、中庭の住人たちに声をかける。
僕がここに住みだしてからの知り合いだ。
「まりさん、ちゃんと帰った?」
彼らは食事中だった。戦後に切り倒した大木の切り株をテーブルがわりにしていた。
僕もテーブルの前に座る。
「帰ったよ。というか、今、家を出たばかり。今頃、出勤中かな、もう、着いたかな。」
休日出勤だと言う。気の利かない会社だとか、不平等とか、理不尽な目に遭わせるとか、あれほど、悪口を言っていた会社なのに。辛くて、病気になりそうなくらいなのに-実際、そうだった-、なぜ休日に出勤するんだろう。
「嫌とは言えないんだよ。ああ見えて、はっきり断れないから。ほかの人がいないところでひっそり働いているよ。」
彼らは、皿を置いて、空を見上げる。僕もつられて、空を見上げる。青くて、気の弱そうな空。
まるで、まりさんそのものだ。一瞬にして、雲が覆い、雷が吠え狂う。いろんなひとがいろんなことを言ったりしても、泰然としているように見える。
まりさんも疲れているのかな、僕はつぶやいた。疲れているよ、君の家の主だって、待さんだって、疲れている。理不尽な流れに流されまいとして、一生懸命だったんだ。今、態勢を立て直すつもりなんだろうね。僕はうなづく。
コーヒーカップの音がここちよく聞こえる朝だった。おなかいっぱいになった僕達は、またねと家に戻った。
待さんが来る日は、カナコさんは僕と一緒にいる時より楽しそうである。女性にとって、そんなに会話は楽しいものだろうか。どうとはない会話にしか聞こえない会話から疲れをとっていくのだろうか。取り敢えず痛い思いをしたくない、構われず、何もすることのない僕は、隣室に避難する。
待さんは、ある有名な会社-海外でも知られるあの会社-で働いている。事務系の仕事をしている。つい最近まで煙草の匂いが染み付いた服を着て、今もって不注意に、僕にキックやパンチを浴びせる彼女が、である。
あの頃持ち合わせた強運で、会社に入ったそうだ。会社という組織の中で歯車として自分が機能できていないと言った。おまけに遠方へ転勤した恋人と疎遠になりがちになってしまった。誰が横にいても常に抱える孤独感。独りで生きていく上でありがちなスパイラル。
「つまり、誰といても一人で生きている感じなんだね」
ティーセットを出しながら、カナコさんは優しく言った。待さんはうなづいた。
「どこにいても。誰といても。さみしい。私はどうしたらいいんだろう」
そう言うと、彼女は涙をこぼした。わきでる涙は透明だった。こぼれる涙は、頬に一筋の流れができた様子を、廊下から見えても僕は見て見ぬふりをした。
ああ、僕は今、待さんにシンクロしている。反発した勢いで、親兄弟から離れた僕。
そう、それは、お母さんが死んで、暫くして新しいお母さんが来た時。
皆が皆、気を遣い合っている様子を見た時、
新しいお母さんが死んだお母さんによく似た目で、皆を眺める様子を見た時、
死んだお母さんの席に、新しいお母さんが座った時。
僕の中のいたたまれなさが、はじけた。
僕はあの家を脱走した。
白くて、大きな和洋折衷の家。シンガポールにありそうな。
やけになって、ドアが開いたままのクルマに乗り込んだ。地道を走っている間、僕は転寝した。小刻みによく揺れて、気持ちが良かった。クルマの調子が悪くなったので、オーナーはクルマを停めた。そして、そこらにあったトラックに乗り込んだ。
待さんは毎日のようにカナコさんの家にやってきた。ぼやいたり、愚痴ったり-あ、どれも同じか-、涙ぐんだり、笑ったりして、ひと時を過ごし、帰って行った。毎日、職場から持って帰ったごみをここで捨てているようだ。捨てて、落ち着いた顔をして、中庭を斜めに横切り、帰っていく。
彼女は年上そうな女性を連れてきたこともあった。二人とは違うタイプだった。どこで知り合ったのか、わからない。その人は、まりさんと呼ばれていた。二人と違って、落ち着いた感じのひとで、より正確に言うと肝が据わっていた。やや色黒で黒目がちの大きな瞳の持ち主だった。この人も、カナコさん同様、派遣だという。理由はわからないが、自分を一生シングルのつもりらしい。契約から契約へと渡り歩く人生。肝が据わっているのは、都合の良い時だけ呼ばれる為なのか。
そんな寂しそうなプロフィールが冗談に思えるほど、彼女の言葉一つひとつが僕にとって、納得がいって、元気が出てくる。彼女に言わせれば、ストレスと涙の日々で、慢性的な睡眠不足に悩まされているという。
そんな人から、威勢が良くて、逞しくて雄々しいアンソロジーが生まれる不思議を思う。カラ元気がそうさせるのか。待さんもカナコさんも置き場のないやり過ごしようがない愚痴をこぼし、彼女は相槌をうつ。
そして、言葉の波が来る。うねってくる。
ひとは思想だ。気持ちだ。
今日の僕は、ゆっくりマボガニーの縁側に座り、月に照らされていよう、そう思う。
僕は月に思いをはせる。遠い場所。遠い家族。
僕はシングル女性の家に住んでいます。
嬉しいこと楽しいこと面倒なこと。なんのかんのありますが、大事にされています。丸めこまれているだけかもしれませんが。
僕はお義母さん、貴女を決して嫌ったわけではないのです。亡くなったお母さんとオーバーラップして、パニックになってしまったんです。僕はそれが恥ずかしかった。いたたまれなかった。辛くて家を飛び出してしまった。お母さんと同じとがった爪をして、丸くて少しつり気味の目の貴女をむしろ好きだったのかもしれません。
大らかで優しいお父さん、新しい家族をどうにかまとめようとした兄さん、幼い僕を抱きしめてくれた姉さん。貴方達が僕に示し続けてくれた愛情は、今でも僕の宝物です。僕はこれがあるから、生きていけるのです。
どうか、安心してください。僕は元気です。
彼女たちは、ずっと話し続けていた。
これからの人生。それにまつわる仕事、恋愛、友人や家族との関係。
にっちもさっちもいかない人生。
TVや趣味ではごまかしきれなかった、辛さ。
どんなコメディより笑える話。作られた笑いより、突然沸き起こるおかしみというものもが、確実にあると知った。
まりさんの力強い言葉に励まされ、癒された僕達は眠りについていた。いろんな食べ物や飲み物、アルコールのすえた匂いが満ちた中で、いつも以上に心地よい眠り。自分の根幹を探し当てた安心感。
晴れた朝は、いつも埃っぽい。長屋の庭から、道路から、遠慮なく埃や塵が入ってくる為だった。
まりさんは中庭の向こうに、帰ってしまっていた。中庭を越えずに、二人だけが残っていた。
まりさんがいない朝。
はれぼったい目をして、二人は起きてきた。ちゃんとパジャマ(と思えるもの)を来ているので、こころもち安心する。
そして、二人は、朝食を用意し始める。鬱々とした空気は消えていた。
僕はそっと中庭を越えて、中庭の住人たちに声をかける。
僕がここに住みだしてからの知り合いだ。
「まりさん、ちゃんと帰った?」
彼らは食事中だった。戦後に切り倒した大木の切り株をテーブルがわりにしていた。
僕もテーブルの前に座る。
「帰ったよ。というか、今、家を出たばかり。今頃、出勤中かな、もう、着いたかな。」
休日出勤だと言う。気の利かない会社だとか、不平等とか、理不尽な目に遭わせるとか、あれほど、悪口を言っていた会社なのに。辛くて、病気になりそうなくらいなのに-実際、そうだった-、なぜ休日に出勤するんだろう。
「嫌とは言えないんだよ。ああ見えて、はっきり断れないから。ほかの人がいないところでひっそり働いているよ。」
彼らは、皿を置いて、空を見上げる。僕もつられて、空を見上げる。青くて、気の弱そうな空。
まるで、まりさんそのものだ。一瞬にして、雲が覆い、雷が吠え狂う。いろんなひとがいろんなことを言ったりしても、泰然としているように見える。
まりさんも疲れているのかな、僕はつぶやいた。疲れているよ、君の家の主だって、待さんだって、疲れている。理不尽な流れに流されまいとして、一生懸命だったんだ。今、態勢を立て直すつもりなんだろうね。僕はうなづく。
コーヒーカップの音がここちよく聞こえる朝だった。おなかいっぱいになった僕達は、またねと家に戻った。